124「アラン!」
その瞬間、頭上で誰かがぼくの名を叫んだ。
その途端、格子から離れた手がまるで宙を掴むかのように止まり、同時に体もぴたりと動きを止められる。
動けない。でも、助かった。ドグラスが軽く舌打ちをし、また咳をした。
助かった。でも、その名前を呼んだ声に、ぼくは目を見開いていた。
天を仰いだぼくの目の前に写るのは、外れた窓から身を乗り出すティーマと、そして、お父様の姿。
しかし、お父様の表情はさっきとは一変していた。歯を食いしばり、ぼくを助けようと、必死に手を伸ばしている。
明らかにその手が、空中で、ぼくを掴んでくれていた。
「お……父様……?」
「誰がお前のオヤジだよ……! ふ……ざけんな……何だってんだよ……っ」
ぼくの小さな呼びかけに、お父様はそう返した。お父様らしからぬ、その言葉使いで。
マルシェ……さん……――?
「マルシェさん……!?」
明らかにぼくを助けようとしているお父様に、ぼくは引きつった声で呼びかけた。
マルシェさんが、頷く。そして隣から何とか身を乗り出そうとするティーマを、片手で押しやった。
「あっち行ってろチビ助! お前は邪魔だ」
マルシェさんが言う。ティーマが喚き、マルシェさんの後ろ頭をぽかぽかと殴った。
お父様が、そんなこと言うはずがない! マルシェさんだ。マルシェさんが、戻ってきた……!
そう思ったとたん、体にぐっと力が入った。
ぼくは何もない空中をぎゅっと掴み、そしてマルシェさんの力に縋りながら、体を持ち上げようとする。
しかしその時、またガクンとぼくが引っ張られた。
ドグラスだ。重い……! ぼくは必死に抵抗しているっていうのに、ドグラスの力は一向に弱まろうとしない。あいつにはまだ、こんなに力が残ってるっていうのか!
引き上げられる腕と、引きつけられる足が、同時にビシッと嫌な音を立てた。
マルシェさんが顔を顰める。これでは、体が裂けるどころか、マルシェさんを巻き込んで下に落ちかねない。
正直、マルシェさんの力では、アーティフィシャル・チルドレンを親に持ったドグラスには勝てっこない。
「マルシェさん、離してください!」
ぼくは上を見上げ、手を伸ばし続けるマルシェさんに叫んだ。
マルシェさんが不快そうに顔を顰める。その顔はぼくの知っているマルシェさんそのもので、ぼくは泣きそうになった。
ガクン、とまた体が一段下がる。マルシェさんも同じく、また身を乗り出された。
ティーマが後ろできゃあきゃあ言っている。どうやらマルシェさんを引き戻そうとしているようだが、通常のティーマの力じゃ到底無理だろう。
「ダメだ、離して! ぼくは大丈夫です、きっと、大丈夫だから……!」
ぼくは無理やり引きつった笑顔を作り、マルシェさんに向かってそう言った。
すると、マルシェさんがまた歯を食いしばる。そして今度は、口元を片方だけ上げ、苦笑いした。
「そんなことやってみろ……あのキヨハルだって、怒る時は怒るんだぜ」
マルシェさんが唸るようにそう言い、ぼくを思いっきり引っ張り上げた。
ぐん、とぼくが上に引き上げられる。
本当に……本当に、マルシェさんだ……! マルシェさんが、帰って来てくれたんだ!
ぼくの中で、また希望が膨らんだ。そのままお父様が表に現れなかったら、マルシェさんを殺す必要なんて、なくなるのだから――!
――しかし、その希望は、いとも簡単に打ち砕かれた。
「出て行け、この……邪魔者が!」
突然、マルシェさんがそう叫び、まるで何かを振り払うかのように、宙を引っ掻いた。
そのとたん、ぼくの手を掴んでいた力が消え、ぼくは再び落下の衝撃に襲われる。
唖然と見上げるぼくの前で――ぼくを見下げ、にやりと笑うお父様が見えた。
そんな……――
風とともに、体が落下していく。
ぼくは天を仰いだ。このまま死んでしまうならば、せめて青空が見たかった。
しかし、見えるのは作り物の曇り空だけ。ああ――終わって――しまうのか――
その時、地下世界から、ふっと光が消え失せた。
空が消えたんだ。ということは……――アンドリューとセイが、マーシアに勝ったんだ!
そう確信したら、ぼくもこのまま落下するわけにはいかなくなった。
世界が闇に包まれた今、人間のドグラスには、何も見えていないはずだ。
しかし、ぼくは違う。ぼくはロボットだ。
ぼくは体を捻り、一瞬で目を赤く染めた。とたんに赤い線のみの世界が浮かび上がり、ドグラスの位置を確認する。
ずいぶん近くまで来ていた。ぼくはすぐに両腕に力を込め、そして念力を誰も居ない地面めがけて思いっきり放った。
ドォン! と大きな音をたて、地面に大穴が開く。集まっていた何人かが悲鳴をあげたが、ぼくはなんとか落下の衝撃を耐え、その大穴の中心へ降り立った。
その音に、ドグラスが反応しないわけがない。ぼくはとりあえず穴の中に身を潜め、次の行動を必死に考えた。
しかしその途端、強力な力がぼくを引っ張り上げ、そして地面へ叩きつけた。
暗くても、勘は鋭いわけだ。なるほど、マルシェさんに似ている。
そんなことを思っても、ももう遅い。ぼくは半分地面にめり込んだようになって、衝撃で嫌な音をたてた肩を抑えた。
休む間もなく、ドグラスが再びぼくを引っ張り上げる。暗闇の中で、観衆が逃げ惑っているが、ドグラスの目は真っ直ぐにぼくに向けられていた。
空中で、強い念力がぼくを締め上げる。ドグラスがもがくぼくを見上げて、ニヤリと笑った。
「さあ、どうやって壊してやろうか」
さっきよりずいぶんしわがれた声が、軽い咳と共に血を吐く。
それでもドグラスの目は真っ赤に光り、ぼくに憎悪の睨みをきかせていた。
「ドグラス……もう……もうやめろ……! 君が死んでしまう……!!」
ぼくは激痛に顔を顰めながら、ドグラスに訴えかけた。
体のあちこちが軋む音をたてる。バキ、バキ、と体が締められていく。
ドグラスが、赤い目を細めた。そしてぼくを握り潰すかのようにこぶしを握り、さらにぼくに力を入れる。
「死んでもかまわない。お父様の命令を実行できなくなったら、私はもうこの世に居る資格はない」
「どうしてそんな悲しいことを言うんだ! 君は、君は生きれるんだ……! あの人の束縛なんか、自分で振りほどいてしまえばいい!」
ぼくは叫んだ。すると、ほんの少しだけ、ドグラスの束縛が弱まった気がした。
明らかに、ドグラスが初めて戸惑いの色を見せる。ぼくはすかさず、ここで一番強い能力抵抗をした。
強い能力同士がぶつかり、バン! と音をたてる。その衝撃波に押されたが、なんとか、ぼくはドグラスの束縛から逃れた。
体が再び地面へ転がされる。ぼくはかろうじて着地し、ふらつく足で立ち上がった。
まずい……だいぶ体のあちこちが潰されてしまった。痛みより、何より、体が上手く動かない……。
ギシ、ギシ、と動くたびに体が軋む。何だか、久々に思い知った。ぼく、ロボットなんだっけ……。
「私に……意思は必要ない」
ドグラスがどこか悲しげに目を伏せ、小さくそう呟いた。
その表情には、完全にあの獣のような恐ろしさは消えていた。それはまるで寂しげな子供のようで、ぼくは思わず、息を詰めた。
「ドグラス、何をしている!」
その時、真っ暗な頭上から響いた怒鳴り声に、ぼくとドグラスは同時に顔を上げた。
見えているのだろうか。お父様が外れた窓から身を乗り出し、再び嫌悪に顔を顰めている。
ぼくを簡単に壊してしまわないことが、そんなに苛つくのだろうか。
マルシェさん、助けて――ぼくは、もう何も壊したくない。
気づけば、ぼくは縋るようにお父様を見上げ、必死にそう願っていた。
お父様の声に、ドグラスが再びぼくに赤い目を向ける。そしてついに、最後の力をすべて解放したような衝撃が、ドッとぼくを押した。
まるで鉄みたいに硬い突風に押されたような感覚に、ぼくは思わず腕で顔を覆う。
ビリビリと肌が削られるような感覚がする。ぼくは腕の隙間から、必死にドグラスの姿を確かめようとした。
「ドグラス!」
止まない衝撃波の中で、ぼくは叫んだ。
これ以上能力を使ってしまってはダメだ! 完全に体が獣の遺伝子に乗っ取られてしまう!
しかし、ぼくがようやくまぶたを開けた頃、目の前に映ったドグラスの姿は、もうすでに半分以上が硬いうろこに侵されてしまっていた。
真っ赤な目は必死に見開いたまま、ただ標的のぼくだけを睨みつけている。
瞳に意識が見えない――能力に体を支配されてしまったのだろうか。まさか、もう手遅れなんじゃ……!
まるでぼくらの強制防衛機能時のようだ。自分自身を制御できないあの苦しみが、喉の奥を締めつけた。
おそらく、今のドグラスが攻撃をしかけたら、ぼくが壊れるどころではなくなる。
地下世界が潰されてしまうかもしれない。いやだ。もう、同じ悲劇は繰り返したくない……!
ぼくは思い切って顔を覆っていた腕を振り払い、そして精一杯の力を全身に込めた。
ギシギシと体が軋む。相打ちでもいい。もうぼくの兄弟に、罪を負わせたくない!
ドグラスが天を仰ぎ、吼えた。もう人間でなくなってしまった声が衝撃波に重なり、またぼくの体を押し返す。
圧倒的な力に、ぼくの足が地を掻き、地面を大きく削った。
やるなら、今しかない。体がからっぽになったって、ぼくはドグラスを止めなくちゃいけない。
ぼくは思い切り、その足を力いっぱい踏み出した。
テレポートはできない。しかし、通常状態よりずっと能力の上がったぼくは、すぐにドグラスのもとへ行き着いた。
ドグラスが素早く反応し、ぼくに殴りかかろうとする。ぼくはそれを避けたが、念力のめいっぱい込められた腕は、触れなくともぼくの左肩を削った。
肌を削り、機械部分がむき出しになる。しまった! ぼくが肩を押さえる間もなく、ドグラスが力いっぱいその腕を引っ張った。
バキン! と嫌な音をたて、左手が肩から外れた。
刺すような激痛がぼくを襲った。ぼくは必死に歯を食いしばり、叫び声を抑えた。
そしていったん後ずさりし、ドグラスから離れた。すると、突然ドグラスが頭を抱え、大きく唸り始めた。
人間は、ぼくらと違って能力を使えば体にかなりの負担がかかる。それなのに、これ以上オーバーな能力を使い続ければ、頭が爆発してしまうかもしれない。
ぼくはゾッとするような想像を振り払い、頭上を見上げた。
ぼくらを見下げ、これもまたゾッとするような笑みを広げているお父様が見える。
くそ……っ! 子供たちの殺し合いは、そんなに楽しいか!
ドグラスが頭を抱え、苦しそうに呻く。そのたびに、またおびただしい量の血液が吐き出された。
真っ赤な血が、地面に染みていく。ぼくはぎゅっとこぶしを握り、再びドグラスに駆け寄った。
わかっている。ドグラスは、もう戻ってこられない。ならば、これ以上罪を負わせる前に、せめて……!
ぼくは残っている右手を振り、そしてあの時と同じ氷剣を作り出した。
ふと、ゼルダの最後の顔が浮かぶ。何の犠牲もない世界なんて、あるわけない――か。
ゼルダ、ぼく、実感してるよ。本当に、悲しいことばかりだ……――
「ドグラス……ごめん……!」
ぼくはその言葉を噛み潰し、そして腕を振り上げた。
背の高いドグラスの胸へ、その切っ先が突き刺さる。
しかし、おそらく心臓へ届いていないうちに、ドグラスがぼくの腕を掴んで止めた。
殺意に満ちた赤い目が、ぼくを捕らえる。
凶器とも言える腕が振り上げられた。――殺される!
「だめ――っ!!」
ドグラスが鋭い爪をぼくに向けたその時、ティーマの叫び声と共に、何かがぼくらの間に現れた。
それは明らかに、ティーマ自身だった。ぼくとドグラスの間に、小さな体が突然現れていた。
重苦しい暗闇で、ぼくの目の前に広がるのは、真っ赤な世界と、ティーマの……――
「け、んか……よくない。テイル、が、怒る」
ぼくに背を向けたまま、ティーマがドグラスに向かって、途切れ途切れの言葉を吐く。
まるで狼のように、ドグラスが唸った。おそらく、もうティーマが認識できていない。
しかし、ぼくははっきりと見えていた。ドグラスの鋭い爪は、明らかにティーマの小さな体を貫いていた。
“人”となったティーマの体から、ドグラスと同じ、真っ赤な血液が流れ落ちていく。
「――お母……さん……!」
その時、意識を取り戻したのか、ドグラスが擦れ声でそう呟いた。
暗闇の中、ドグラスは見えているのだろうか。……見えていないかもしれないが、感じているのだろう。
ティーマの胸を貫いたドグラスの手が、ぼくの胸の前で、震えていた。
「……み……んな」
ティーマが呟く。そしてまるで本当に子を抱くように、優しく、ドグラスの頭を胸に抱いた。
「みんな……仲良し。一緒に……お茶を、して……おいしい……お菓子……――」
ティーマが小さな声で囁き、そしてゆっくりと体を揺らす。
ドグラスがティーマに抱かれながら、ティーマそっくりに、目を大きく見開いていた。
驚きと、そして悲しみが、ドグラスの瞳から、初めて涙を零す。
ドグラスが、ゆっくりと手を引き抜く。ずいぶん軽くなったティーマの体が、その途端、ぼくに圧し掛かった。
まだ明けぬ暗闇の中で、ティーマの体から落ちた血液が、少しぼくの足を滑らせた。
お互い一歩も動けない中で、ぼくの頭が、勝手に最悪な情報を流していた。
――GX.No,7、破壊確認。
「ティーマ……!」
ぼくの中で、警報のような高い音が鳴り響いた。
ぼくは力なく崩れるティーマを受け止め、そしてそのまま、ぼくも崩れるように地面に座った。
ティーマがぼくの片腕の上に、ぐったりと体を任せる。
しかし、闇の中で唯一ぼくだけが見ているであろうティーマの表情は、ゼルダやヴォルトの時とは違い、しっかりと、でもどこか悲しげに、まぶたを閉じていた。
「ティーマ……ティーマ……!」
ぼくは擦れ声で何度も名前を呼び、ティーマを揺さぶった。
しかし、ティーマは動かない。動かないとは、わかっていた。もうわかっていたけれど、認めたくなかった。
行かないで……! ぼくを置いて、いかないで!
ヴォルトも、テイルも……シオンも、マーシアも――ティーマも――
「……僕は……生まれてきては……いけなかったのですか……?」
その時、悲しみに押しつぶされそうになっていたぼくの上で、ドグラスが囁くように呟いた。
その赤い目は、今は虚ろに半分閉じられ、何も見えない暗闇を見つめている。
ここに居る誰の目にも、何が起こったのか見えていないはずだ。しかし、ぼくだけには、ドグラスの頬に涙が伝うのを、しっかりと確認できた。
ドグラスがドッ、とその場に腰を下ろし、ゆっくりと、手探りでティーマの姿を探す。
ドグラスの、人を傷つけるために変形したような手が、そっと、ティーマに触れた。
鋭い爪が、ティーマの頬を撫でる。しかし、どうか傷つけまいと、本当にそっと。優しく……
ドグラスの体が、ゆっくりと屈められる。
「……それでも僕は……あなたに愛されたかった……」
ドグラスが小さな声で、ティーマに囁いた。
その言葉は、ティーマに囁いたわけではなかったのかもしれない。だけど――ドグラスの命はそれだけを残し、ついに、尽きた。
ドン……と、鈍い音が響く。大きな体が、地へと、倒れた。
next|
prev