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 そいつを初めて見た時、ぼくは今のように一歩も動くことができなかった。
 ただ体が震えて、見たこともないその不気味な姿に、見開いた目をそらすことさえできない。
 腰から下が大きな爬虫類の姿。そして上半身は人間の男の姿をし、瞳は常に燃えるように真っ赤に光る。
 この瞳を見た人間は、絶対に生きて帰れない。むしろ一目見ただけで、呼吸を忘れて窒息してしまうに違いない。
 だからマルシェさんからあの瞳を見たと聞いた時、どうしてこの人は生きていることができるのだと、不思議に思った。
 だって、今まさにぼくは、痛くて、苦しくて、たまらないのに。

「ド……ドグラス……!」
 テイルが悲鳴に似た声で囁き、ドグラスの顔をぼくから反らした。
 赤い瞳が伏せられる。ぼくは、ようやく束縛から解放された。
 思わずドッと地に膝をつく。まるで人のように、ぼくも今呼吸をできていなかった。
 呼吸など必要ないぼくを苦しめるほど、あいつの力は強すぎる。
「何をしている……?」
 ドグラスが低く落ち着いた声で、テイルに囁きかけた。
 どこかお父様にも似た、その声。ぼくは思わず体を震わせる。
 テイルはぎゅっとショールを握り、口を開いたら死ぬ、とでも言うように、硬く唇を噛んだ。
 返事をしないテイルの代わりに、再びぼくのほうへドグラスの目が向けられた。
「何をしに来た?」
 ビリビリと肌を擦るような声に、ぼくはぎゅっとこぶしを握る。
 そして、片足に力を入れ、ゆっくりと立ち上がった。
「ぼ……ぼくは、お父様に会いたい」
 ぼくの口から、囁きような声が漏れた。
 ぎゅっと握ったこぶしが震える。圧迫感に、今にも座り込んでしまいたい。
 ドグラスが赤い目を細めた。だが、すぐに攻撃をしかけてくる気配はない。
 ぼくは手のひらに爪が食い込みそうになるまで手を握り、再び口を開いた。
「お父様の本当の気持ちを、聞きたいんだ。どうしてぼくらを造りだしたのか。今、何を思っているのか」
「それを知ってどうなる? 弱点でも見つけたいのか」
 ドグラスが鼻で笑う。ぼくは首を横に振り、眉をつり上げた。
「お父様を助けたいんだ。もう悲しまなくていい、もう自分ひとりで背負わなくていいって、言いたい」
 ぼくの言葉に、ドグラスが今度は声をあげて笑った。
 長い尻尾がヒュンと宙を舞う。そして地面へ落ち、数センチへこませた。
「何をバカなことを! お前たち邪魔者が居なくなってから、お父様は静かな毎日を送っていらっしゃる。ただ目障りは、やはり居るようだが」
 ドグラスはそう言って、再びぼくを睨みつけた。
 目障りな邪魔者か――確かに、そんな奴にうろうろされては、お父様も気分が悪いだろう。
 ドグラスの眼が、テイルのほうへ戻る。
「テイル、さっさと始末してしまえ。さもなくば、私がこいつを消してやろうか?」
「いいえ! わ、わたくしが」
 テイルが慌てた様子で、ドグラスの前へ出た。
 その返事に、ぼくは眉を顰める。テイルと、戦わなければならないのか……――?
 ドグラスが何かを囁いた。テイルが怯え、黄緑色の目を見開く。
 ゆっくりと、ワニのような尻尾が移動し、ドグラスがぼくに背を向ける。かぎづめのついた足が、地面に少し食い込んだ。
 そしてそのまま、人が歩くより遅い速さで、ドグラスが公司館に戻っていく。
 その様子を背後で感じながら、テイルがゆっくりと顔を上げた。
「もう……戻ってきては……くれませんの……?」
 どこか悲しそうなテイルが、とても小さな声で、ぼくに囁きかける。
 ぼくは目を伏せ、頷いた。
「ここでは……この公司館に居ては、ぼくの望みを叶えられないから」
「……望みって?」
「空が見たいんだ」
 首を傾げるテイルに、ぼくははっきりと言った。
 テイルがまた首を傾げ、頭上の造られた曇り空を見上げる。その様子に、ぼくは首を横に振った。
「本物の空が見たいんだ。造りだされた空でもなく、灰色の空でもなく、本当の青空が見てみたいんだ」
 ぼくの言葉に、テイルが目線を戻した。
 リーフグリーンの瞳が、どこか不安げにぼくを見つめる。
「つまり、地上へ行きたいんですの……?」
「そう……そうだね。そうかもしれない」
 ぼくは苦笑いし、曖昧な返事を返した。
「友達にね、人間の、友達に……聞いたんだ。今の地上の状況を。今もこうやって、この地下世界と同じように、残酷な争いは絶えないらしい。だけど、きっとそんな世界も終わらせることができる。もしもぼくらが、この地下世界を救うことができたなら」
 テイルの瞳を真っ直ぐに見つめ、ぼくは言った。
 この事を、お父様にも言いたい。この地下世界があなたにとって苦しい場所なら、光を求めてまた地上へ出ればいいって。
 仲間が居れば、生きていける。あなたの恐れた戦いの時代は、もう、過去のことなのだから――。
 ぼくの発言に、テイルは何を思ったのだろうか。テイルがぎゅっと両手を握り、何かを決心した顔でぼくのほうへ駆け寄ってきた。
 ついに戦わなければならないか。ぼくは思わず一歩引き、体を低くする。
 しかし、テイルがぼくに手を伸ばそうとしたその時、突然ドグラスがぼくらの間に現れた。
 突然の出現に、テイルが短く悲鳴をあげ、逃げようとする。
 しかしドグラスはテイルの腕を掴み、テイルを引き戻した。
「何を伝える気だ? お前とこいつはもはや敵同士。仲間などではないのだ」
 ドグラスがそう言って、鋭い目でぼくを睨む。ぼくは思わずゾクッとし、こぶしを強く握った。
 ドグラスの口元が、ニタリと持ち上がる。
「今すぐ、私がこの場で壊してやろうか。裏切り者の、出来損ないめ」
「やめて!」
 テイルが叫んだ。その声に、ドグラスが燃えるような目を見開く。
「この手に握ったものをさっさとこいつに埋め込めばいい! そうすれば、お父様の心は晴れるのだから!」
 ドグラスがテイルの手を捻り、唸るようにそう言った。
 テイルが苦痛に顔を歪める。その細い指の中に、小さなものを見つけた。
 あれは……何だ……? カプセルのようで、とても小さく……でも、見覚えがある。
 まさか、あれは……――!
「ば、爆弾……!」
 ぼくは後ずさりし、思わず擦れ声をあげた。
 間違いない、あれは爆弾だ! あんなに小さいけれど、もう威力は実証済み。だって、ぼくは実際に実験現場に連れて行かれたのだから。
 だからその威力はこの目で確かめている。地下世界の一角を吹き飛ばせてしまうほど、強いものだ。
 思わず声をあげたぼくに、ドグラスが吼えた。人の声とは思えない、獣のような声だ。
「今すぐに引き裂いてやる!」
 そう言って振り返ったドグラスを、テイルが抱きついて止めた。
「お、お願い、逃げて!」
 震える声で、テイルが叫ぶ。ぼくは振り返り、駆け出した。
 ドグラスが吼える。まるで狼のような声が背中を追い、ぼくに手を伸ばす。
 威圧感が背後からぼくに圧し掛かった。怖い! 恐ろしくて言い表せないほどの恐怖が、ぼくを襲ってくる。
 テイルの細腕など簡単に振り解き、今にも襲い掛かってくるはずだ。
 一度あいつを怒らせると、絶対に生きて帰れない。今振り返ったりしたら、絶対にこの世に一片のかけらさえ残さず引き裂かれてしまう。
 朝の地下世界が、目を覚まし始めた。アンダーグラウンドよりずっと大きな地下世界の大通りには、ちらほらと人影が見える。
 ダメだ、人を巻き込むことはできない! ぼくは思い切って、足を止めて振り返った。
「うわっ!」
 とたんに、ぼくの頬を鋭い爪がかすめていった。
 頬を切られ、嫌な色の液体が漏れ出す。ぼくは頬を拭い、通り過ぎたドグラスを睨みつけた。
 公司館の前で、テイルが倒れている。まさか、壊されてしまったんじゃ……!
「お前も、今すぐに同じようにしてやろう」
 テイルに気を取られていたぼくの耳元で、ドグラスが囁いた。
 はっと目線を戻すが、遅かった。ドグラスの鋭い爪が、ぼくの首に食い込んだ。
「あぁあ……ッ!」
 ブツン、と首の何かが切れた。体の奥で警告音がする。
 ドグラスは人間の何倍も重いぼくを軽々と持ち上げ、まるで拾った木の枝のように揺らす。
「さあ、どうすればお父様は喜んでくださるだろう?」
 口元と反し、少しも笑っていない赤い目が、ぼくをじっと睨みつける。
「体に大穴を開けてやろうか? それとも、このままじわじわと壊してやろうか」
 体の奥を揺さぶる声と共に、さらに首に指が食い込んでくる。
 苦しい……!
「は……ッ……放せ……!」
 ぼくはドグラスの手を押さえ、必死に抵抗しようとした。
 しかし、足をばたつかせたいものの、圧倒的な恐怖と力に、体が上手く動いてくれない。
 まるで見えない針金にでも縛られている気分だ。腕を少し動かすだけで、手がゴトンと音をたてて切れ落ちそう。
 苦しい。赤い瞳がぼやける――ああ――ティーマと同じ色――血の色だ――
 指先がしびれる――死んでしまうのだろうか――ぼくは、このまま――何も守れずに――
 ダメだ……壊されてたまるか……!
「ッ……う……あぁあっ……――!!」
 ぼくは力を振り絞り、すべての力に命令を出した。
 小さな地響きがする。とたんに、どこからともなく大津波が現れ、ドグラスをぼくから押し流す。
 ぼくの皮をいくらか剥いで――ドグラスの手が離れた。
 ぼくは首を押さえ、地面に倒れ込んだ。
 衝撃で、頭を打つ。立て。何やってるんだ。今にも、ドグラスが攻撃を返してくるはずなのに――
 それでも、立つことができない。回線が故障してしまったか?
 違う、ぼくは怖いんだ。壊れたくない――死にたくないんだ。
 初めて感じた、苦しいほどの死への恐怖が……ふと、ロストさんの言葉を思い出させる。
 死への恐怖を感じてこそ、生きていることの証――
 その時、ぼくの周りを、何かが守ってくれていることに気づいた。
 ヒュウッ、と風が舞う。
「テイル……!」
「嫌ですわ……! もう……もう誰かが壊れるなんて……嫌ですわ……!」
 テイルが声を震わせながら、ぼくの前に立ち、ドグラスからぼくを守ってくれていた。
 竜巻のような壁の向こうで、ドグラスの咆哮が聞こえる。
「貴様ら、この裏切り者め! 全員壊れてしまえばいい!!」
「もう破壊の世界は要らないのです……! 平和を……お父様も平和を望んでらっしゃいますわ!」
 テイルが叫び返した。しかし、ドグラスの打ちつける強い力に、テイルの腕が大きく震える。
 まるで血管がはじけるように、テイルの肌に亀裂が入った。
 ぼくは慌てて立ち上がり、テイルの腕を押さえた。
「テイル! もういい、もういいよ! ぼくが守るから……!」
「嫌ですわ! もう誰も壊させません……! わたくしが……あ……あなたを……!」
 必死に声を絞るテイルに、ぼくも力を貸そうとした。しかし、遅かった。
 ドグラスの圧倒的な力に、テイルの力が負け、ぼくらは何メートルも吹き飛ばされた。
 公司館の壁に打ちつけられ、その衝撃にテイルが気を失う。
 ぼくはとっさに滑り落ちるテイルに手を伸ばし、片手でなんとか受け止めた。
 しかしその直後、地面へ崩れ落ちたぼくらに、再びドグラスの攻撃が向かってきた。
 GX唯一の人とは思えないその速さに、ぼくは思わずぎゅっと目をつむる。
 頭を貫かれてしまう――!

 ――しかし、ぼくの頭に届いたのは、苦痛でも、衝撃でもなかった。


「い……嫌な予感が……したんだよ……」

 歯を食いしばったような声。そして――目の前に広がる、闇夜のような真っ黒の服。
 それを貫いたドグラスの腕。痛々しい、漏電の音がする。
 ぼくの目の前で止まった鋭い爪から、ぼくはゆっくりと、見開いた目を上げた。
 大きく手を広げ、ぼくらを守ってくれた。

 ヴォルトが、居た。



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