完結
 顔を上げて伊賀崎くんを見ると、綺麗でまっすぐな瞳が私を見ていた。


「雨の日。キミコと太郎を探していた時、先輩が声を掛けてくれたあの時に、上から覗き込む先輩の顔を見て、あれって思って思いました」

 伊賀崎くんは少し首を傾げ、すっと目を細めた。頬はうっすらと染まっている。

「前にもあったなって思い出したんです。昔、ぼくを助けてくれた人と同じ顔をしてるって。まさかなって思いました。でも、やっぱり先輩でした」

 この間、学園七不思議のノートを校長先生に見せてもらった時、びっくりしました。
 そう言った伊賀崎くんの声は随分と優しい。細められた彼の目も恥ずかしくなるくらい優しくて、今の伊賀崎くんは、今まで見たこともない表情をしている。

「驚きました。先輩がぼくを助けてくれたあの人なんだって気付いた時、すごく嬉しかったんです」
「うん」

 未だ、頭の中は上手く働いてくれない。驚くような展開が立て続けに起きている。
 あの出来事は、学園に入学して間もなかった頃のことである。七不思議の思い出は断片的にしか思い出せない。
 同学年の彼らと親しくなったきっかけであるから忘れることはないだろう。けれど、大切な友人たちとの思い出の中に伊賀崎くんとの関わりがあったなんて考えたこともなかった。

「全然、気付かなかった」
「あの時のぼくは、先輩よりも小さかったから……」

 伊賀崎くんがあの時助けた小学生だったなんて。
 あの時の記憶は断片的だけど、助けた子が綺麗な目をしていたことは覚えていた。そして、伊賀崎くんが綺麗な目をしていることも、よく知っている。

「ね、名字先輩。ぼくがどうして先輩を助けたくてこの森にやってきたかわかりますか?」
「……恩返し、みたいな?」
「ふふっ、そうですね。それも確かにあります」

 昔話の「鶴の恩返し」を思い返しながらそう返せば、彼は小さく笑った。既に平坦な道が続き、あと少しで森を出ることが出来る。

「でも、私、本当に全然たいしたことしてないと思ってる。熊から伊賀崎くんを助けたわけでもないし、崖から落ちそうになった伊賀崎くんを助けたわけでもない」
「確かに、その例を取り上げたらそうかもしれません。でも、一人森の中に入って、周りに人がいなくて起き上がれない状態の中、ぼくを探して見つけてくれた先輩に対して何も思わないわけありません」

   ○

 その後、森を出たところで待っていた委員会の皆と再会した。皆、良かったと安心した顔をして私を待っており、久々知くんはすぐに保健室に行きましょうと私の膝の擦り傷を見ながら早口で言った。
 学園まで戻ると伊賀崎くんは部活に向かうようだったため、去ろうとする彼にお礼を言うと、気にしないでくださいと笑うだけだった。


 委員会のメンバーに心配させたことを謝りながら保健室の扉を開ければ、中で待っていた伊作に小言を言われる。
 困った顔をした久々知くんに心配しなくて大丈夫だと伝えると、彼は静かに保健室から出ていった。

 新野先生に異常がないか確認してもらった後、運動部が部活後に使っているシャワー室を利用することにした。
 髪や制服は泥や落ち葉で汚れている。一秒でも早く汚れを落として着替えたかったのだ。
 伊作に指摘された擦り傷が痛むものの、シャワーのお湯を浴びるとなんだかホッとする。そんなに大したことのない傷で良かった。蛇口を捻り、髪の毛をまとめてジャージへ着替えたら再び保健室に向かって傷の手当てをしてもらおう。

「もう、本当に心配したんだからね!!」
「はい」
「小平太と長次は買い出しに行ってるし、仙蔵は委員会。探せる人数の少なさといったら!!」
「すみません」
「連絡手段を持ってないって本当にどうかしてるよ。君、今時の女子高生でしょ?」
「一応」
「一応じゃないよ!! 馬鹿!!」

 本当に心配してくれたのだとわかるから、本当に申し訳なくなった。擦り傷と切り傷に消毒液を吹き付け、ぷんぷんと怒りながら伊作は手当てをしてくれる。
 いつも以上に注意を受けていると、突然ガラッと保健室のドアが開き、仙蔵と高等部一年の綾部くんが保健室に入ってきた。

「名前、大丈夫か?」
「うん」
「次からは気を付けてくれよ、本当に」
「うん、ごめんね。あと、心配してくれて有り難う」

 私がそう言うと、仙蔵は「あぁ」と小さなため息。
 本当に、いろんな人に心配をかけてしまったんだなと思いながら、もう一度「ごめん」と言えば、仙蔵は静かに頷いた。

「名字先輩、トシちゃんに落ちてしまったんですねぇ」
「喜八郎……」
「ああ、はい。すみません」

 仙蔵に小突かれて綾部くんはゆっくりと頭を下げる。仙蔵は、私が綾部くんの穴に落ちたと聞いたのだろう。

「ううん。大丈夫。確かに出れなかったのはそうなんだけど、綾部くんの穴があったから助かった部分も結構あって……」
「どういうことだ?」
「実はね、穴から出てわかったんだけど、もし穴にはまってなかったら、木で出来たベンチに体ぶつけてたかなーって。周りにちょっと大きな石もあったから、この程度の怪我で済んだのは綾部くんの落とし穴のおかげかもしれない」
「なら、作ってて良かったです」
「そういうことではないだろう……」

 仙蔵は頭を抱えてもう一度ため息をつく。綾部くんは少しだけ安心したような顔をして「でも、あそこに掘った穴は全て埋め直しときます。先輩がまた落ちたら大変なようですし」と言って保健室を出ていった。

「どう反応すればいいのかわからないけど、まあ仙蔵も顔を上げて」
「ああ」

 なんとも言えない顔をした仙蔵は「何ともなかったのだから良かった、のだろうか」と言った。

「うん。平気。運よく捻挫も無かったし、文化祭も問題無し」
「運が良かったのか悪かったのか、わからないけどね」

 伊作は手当てに使った際に出たゴミを捨て、片付けながら棘のある言い方をした。
 腕に貼られた絆創膏に気を付けながらジャージを羽織って保健室を出る。久々知くんが預かってくれているであろう鞄を思い出し、委員会の皆が仕事をしている教室へ向かおうとした所で一緒に保健室を出た仙蔵が話しかけてきた。

「名前、一人で大丈夫か?」
「えっ? ああ、うん。もう大丈夫だよ」
「そうか、わかった。今度は気を付けてくれよ。文化祭前で皆忙しいんだ」

 言葉だけだときつく捉えられそうなものだが、仙蔵の声色は随分と落ち着いていて優しかった。
 じゃあな、と言って仙蔵は去っていく。彼の背中に向かってお礼を言えば、一度振り返った仙蔵は少し呆れたような顔をしたが、すぐに笑って「何もなくて、本当によかったよ」と言った。

「本当に有り難う!!」

 もう一度、仙蔵の背中に向かってお礼を言う。お手本のように綺麗な歩き方の仙蔵は今度は振り向くことはなく、軽く手をひらりと振り廊下の角に曲がった。

 保健室前の廊下はずいぶん静かだ。けれども、少しも寂しくはなかった。

20171019

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