完結
 文化祭まであと三日。
 やばい、が口癖となりつつある文化祭実行委員の友人に期間限定のチョコを渡しつつ放課後の教室を出る。
 今日は委員会の仕事をすることになっている。

 文化祭の期間中、多くの人が学園を訪れる。その際、学園そばにある森に立ち寄る人がいるため、森の中に危険な物や場所がないかを確認しなくてはならないのだ。
 オリエンテーリングや部活であったりと、この森を使用することが多いため普段から定期的に危険がないか確認はされているが、何かあってからでは遅いので例年文化祭前にゴミ拾いや安全確認が行われている。それが、私たちの委員会の仕事の一つでもある。

 中等部の委員は学園敷地内の確認、高等部の委員は森周辺の確認をするよう割り当てられている。
 教室から昇降口まで向かうと、慌ただしく動き回っている下級生の姿を見つける。すぐ近くのコンビニへ行ってきたのか段ボールを抱えた男の子たちや、衣装に着替えて楽しそうにはしゃいでいる女の子があちこちにいる。
 もう既に、放課後は文化祭一色であった。


 天気予報によれば文化祭当日は大丈夫そうだが、今日は薄暗い雲に覆われ、今にも雨が降りそうな空模様だ。
 朝から空は雲に覆われ、太陽が姿を見せなかったためか昨日よりも気温も低く、風は少し冷たい。
 風が草木を揺らす。早く終わらせた方がいいかも、なんて思いながら昇降口で待っていると、久々知くんがノートを片手に現れた。

「雨が降りそうだね」
「そうですね。くれぐれも、気を付けてください」
「了解」

 久々知くんは委員がどこに向かったかをノートに書き記す。私の名前を丁寧に書き終えた彼は他の委員を待たなくてはならなかったため、私は一人先に森に向かうと伝えて彼に鞄を差し出した。

「ごめん、久々知くん。久々知くんって今日は最初に引き継ぎの資料確認するんだよね? これ一緒に教室に持っていってくれない?」
「はい、それは構いませんけど……何も持ってかなくて大丈夫ですか?」
「うん。雨降りそうだから、あんま物持ちたくなくて……」

 遠回りをしてでも教室へ寄って行けばよかったのかもしれないが、やっぱり天気の方が気になる。
 明日は一日中雨が降る予報だし、今日のうちにさっさとこの仕事を終わらせた方がよいだろう。ビニール袋と軍手のみを持って昇降口から出ると、後ろから久々知くんが「雨降ったら気にせずに帰ってきてくださいよー」と言った。

「はーい」

 軽く振り返って手を振る。
 裏門へ向かうために軽く走れば、ドレスを着た演劇部の友人が体育館へ向かって駆けていったのを見かけた。
 履いてるのが上履きなのが残念だが、ドレスの裾を持ち上げて駆けていく彼女の後ろには王子様の衣装を着た演劇部員が慌てるようにして追いかけていく。それだけで物語のワンシーンのように見えた。

 お姫様は王子様に追いかけられていたが、残念ながら私を追うのは時間だけのようだ。


   ○


 ぽつぽつと雨が降っている。
 空は相変わらず灰色の雲に覆われ、空を覆うように伸びている緑の葉は、風と雨によってざわざわと揺れている。
 ここはそこまで大きい森ではないため油断していたが、雨が降ると空気は一気に冷たくなった。
 正直、失敗したと思っている。なんか、いろいろと。
 何が一番後悔しているって、連絡手段となるものを一切持ってきていないってことだ。

 大雨ではない。でも、雨は降っている。
 私は、既に十五分くらいは降られ続けていた。



 森の中にゴミはないか、危険な場所はないかと確認しながら歩いていたところ、ハイキングコースから逸れた所に空き缶が捨てられているのを見つけた。
 投げ捨てられたのだろうか、空き缶は落ち葉の隙間から飲み口の部分を覗かせていた。整備されていない場所にローファーで足を踏み入れるのは少し勇気がいるが、まあ仕方がない。斜面になっているから気を付けないと、と思いながらそちらへ向かう。

 そんな頃、雨が降り始めた。

 やっぱり降ってきた。じゃあこれを拾ったら帰ろう。
 そう思って斜面に足をかける。少しだけその斜面を登らないと空き缶には手が届きそうにない。すぐ横に生えている木を支えにするようにしてどうにか左足を踏ん張る。空き缶に手を伸ばし、指の先が缶に触れる。

 空き缶に指の先が触れ、もう少しと足に力を入れる。ぐっと体を伸ばし、どうにか掴んだその時、ずるっと足元が滑った。

「うっ、わぁあ!?」

 

 勢いよく、斜面を転がり落ちた。
 膝の辺りを擦ってしまったようで、痛い。制服は土と葉で汚れている。だが、運が良かったのか、木に体を打ち付けることも、石で怪我をすることも無かった。まぁ、落とし穴に落ちて全く身動きが取れないのだけど。

 ハイキングコースの脇に、高等部の綾部くんが穴を掘っていたらしい。
 敷地内は危ないからと仙蔵に注意されていたが、まさかここに穴を掘っていたとは知らなかった。ご丁寧に落ち葉で敷き詰められた落とし穴は、クッションの役割をしたのか痛い思いをすることはなかったが……。

 怪我をしなかったのは有り難い。だが、困ってしまうことに入った体制が悪かったらしい。
 綾部くんが今回作った落とし穴は比較的底が浅かった。穴の中に上半身が入り、膝から上だけが穴から出ている。傍から見たら、ちょっと恥ずかしい体制だ。
 そんな恥ずかしい体制な上、底が浅く、細長の穴の中に上半身が落ちてしまったために、手で踏ん張って穴から出ることが出来ない。それに追い打ちをかけるような雨である。ああ、とても困った。

 もうずっと雨が降り続いてくる空ばかり見るというのも辛いものがある。
 持っているのは空き缶と軍手、ゴミが入っているビニール袋のみだ。
 泣きそうになる絶望感しかない。

 膝から先を地面に出し、捲れてしまったスカートを一度整える。
 雨音と風の音しか聞こえない。


 雨が降っているため、委員の子も学園に戻っているだろう。
 私を見つけてくれる人はいるだろうか。私がいないことに誰か気付いてくれるだろうか。誰か探してくれるだろうか。ずっと、このままなのだろうか。

 さすがに、さすがにずっとこのままではないだろう、と思う。
 悪いことばかり考えては駄目だ。今は腰が抜けているだけで、力が入らないだけで、私自身でなんとか穴から抜け出せるかもしれない。頑張れば、頑張れば、大丈夫。大丈夫。……火事場の馬鹿力的なものが出てくれるかもしれない。希望を持とう――なんて無駄に自分を励まし続けるけれど、むなしくなるばかり。


 両手に上手く力が入らなくて、穴から出られない。
 穴の中から見上げると空はさっきよりもずっと黒くなっているように見えた。
 雨は変わらずに降り続けている。寒さなのか、それとも恐怖心からか、手が震える。



 視界が少し、ぼやける。
 こういう時に弱気になるな、と胸の辺りをぎゅっと抑える。どくどくとうるさい心臓の音を感じながらワイシャツをぎゅっと握る。大丈夫。大丈夫。
 ちょっく暗いけど、さすがに私がいないことに久々知くんは気付いてくれるだろう。一応、先輩だし、さっき会ったし、多分、慕ってくれてるし……。

 鼻の奥がつーんとするような感覚と共に、泣きそうになるのをこらえる。ゆっくりと息を吐いて心を落ち着かせようとした時、雨音と共に何かが聞こえた気がした。

「名字先輩!」

 遠くから、名前を呼ぶ声が聞こえる。
 心が寂しくなって幻聴でも聞こえているのだろうか、なんて最初は思ったけど、三度目に名前を呼ばれた時、私は「こっち!!」と出来る限り大きな声で叫んだ。笑っちゃうくらい、弱々しく震えた声だった。


「名字先輩」
「い、いがざきぐん」

 顔を覗かせたのは雨に濡れて髪を濡らした伊賀崎くんだった。
 良かった、と安心したように呟いた彼は「皆、心配してましたよ。本当に、良かった」と困ったような顔をした。

「今、助けますから!!」
「う、うん」

 鼻の奥が痛い。口からは震えた声が漏れる。
 スカートを片手で抑えて、その反対手を差し出せば、彼は「脱臼しちゃいませんか?」とちょっと怖い顔をする。
 脱臼した経験がないため「わからない」と返したものの、とりあえずスカートを腿で挟んで両手を差し出せば「痛かったら、言ってください」とまだ少し不安そうな顔をして伊賀崎くんは私の手を掴んだ。

「大丈夫、だよ」
「先輩は、女の人だから」

 彼はぐっと私の体を引っ張った。上半身がぐっと起き上がって久しぶりに地面よりも上に顔が出たところで、彼は両手で私を抱きしめた。

「ああ、良かった!!」

 良かった、と彼はもう一度嬉しそうに言った。
 濡れるのも、汚れるのも構わないというようにぎゅっと力強く抱きしめられる。

「ちょっ!?」

 嬉しい。良かった。見つけてもらえた。
 安心した気持ちが今度は一気にドキドキと別の感情へと変わっていく。私の頬は彼の首の辺りにぴったりとつき、濡れてしまったワイシャツも肌に張り付いてくる。

「い、伊賀崎くん、有り難う」
「いいえ」

 ぺたりと土の上に座り込んだまま伊賀崎くんは私を抱きしめる。温かい彼の体温に安心してしまったのか、私はしばらく涙が止まらなかった。

   ○

 伊賀崎くんが久々知くんに連絡をしてくれている間に雨が小雨へと変わっていった。今のうちに戻ろうと、彼は私をゆっくりと立ち上がらせるように支えてくれる。

「大丈夫ですか?」
「う、うん。擦り傷くらいで、痛めてるところはないみたい」

 伊賀崎くんの顔を見るのを避けて、私は自分の足の具合を確認するように顔を下へと向ける。

「さあ戻りましょう。雨が降ったせいで足下が悪いので、ぼくの腕を掴んでくださいね」
「……うん」

 伊賀崎くんの左腕に手を触れ、ゆっくりと足を踏み出す。まだ力が上手く入らないけど、ゆっくりと歩けば一応大丈夫そうだ。

 足下を気を付けるようなふりをして、ずっと下ばかり見ている。恥ずかしいのだ。私の体を支えようとしている腕とか、私に合わせてくれている歩幅とかが、全てが恥ずかしくて、たまらなく嬉しいと思ってしまう。

 ふと、前に傘が壊れて彼の傘の中に入れてもらった時のことを思い出した。これで、助けてもらったのは二度目だ。
 それにしても、どうして彼が助けてきてくれたんだろう。
 今の私は頭の中が伊賀崎くんのことでいっぱいだった。


 ゆっくりと歩いている最中、伊賀崎くんは「久々知先輩、すごく心配してました」と、彼がここに来るまでの経緯を語ってくれた。

 雨が降っても一向に私が帰ってこないことに、委員会の皆が心配してくれたらしい。学園の中を探してもいない。近くで雨宿りをしている様子もない。
 じゃあまだ森の中にいるのだろうかと委員の子たちが深刻そうな顔をして話し合っていたところ、伊賀崎くんが不思議に思って声を掛けたのだという。

「久々知先輩も斉藤先輩もこの森に探しに入ったんですが、さっき連絡したので入口の所に戻っているかと……」
「そっか、申し訳ないなぁ」
「先輩のこと見つけられて、本当に良かったです」
「私、伊賀崎くんに助けられてばかりだね」
「そんなことないです」

 だって、前に雨の日に傘差してくれたでしょ。
 私がそう言えば、彼はゆっくりと息を吐いて「あんなの、全然たいしたことないです」と呟いた。
 謙遜ではない、といったような表情である。

「名字先輩、ぼく、この森で、あなたに助けてもらったことがあるんです。その時のことに比べたら、全然、なんですよ」
「えっ?」

 伊賀崎くんは表情を和らげ、優しい声で私に囁いた。
 この森には私たちしかいないのに、誰にも聞かれないように、秘密の話をするように彼は言うのである。

「ぼくが小学生の頃のことです。先輩が、中等部の一年生だった頃。あなたが、ヒーローになった日のことですよ」
「えっ!?」

 思わず足をとめ、伊賀崎くんの顔を見る。優しい表情をした伊賀崎くんが私をじっと見つめていた。

「ぼくは、蝶を捕まえようとして怪我をしたんです。草むらの中で起き上がれなかったぼくを見つけて背負ってくれたのは……名字先輩、あなたです」

20170924

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