完結
 放課後、掃除を終えて集合場所である教室へと歩いていた最中、私は偶然、学園近くの森に小さな男の子が入っていくのを見つけた。

 中等部の校舎からは学園の裏手にある森がよく見える。
 ハイキングや昆虫採集など、地元の人がよく立ち入る場所でもあるみたいだけど、草木が生い茂る場所も所々にあり、野生の動物が住んでいることも確認されている。大きな森ではないが、だからといって絶対的に安全だとは言い切れないと、入学式の後に先生がおっしゃっていたことはよく覚えている。

 そんな場所に一人で男の子が入っていくのを見て、心配になった。
 昨日、暗くなってから一雨振ったのも原因の一つで、私は急いで教室ではなく森へ向かうことにした。

「ちょっと気になることがあるので、森へ行きます。何かあったら、連絡してください」

 急ぎ足で昇降口へ向かいながら、皆に連絡をしておいた方がいいだろうと文字を打つ。
 七不思議をすぐにでも解決して、部活へ行きたい彼らのことを思うと胸が痛むが、だからといってあの男の子を見て見ぬふりをすることも出来ないと思った。
 正義感が特別強いわけではないと思っている。でも、何故だか今日は、あのままにしてはいけないような気がした。



 鞄を置いてくれば良かったと後悔をしながら森へと入る。窓から見えた彼は、帽子を被り、緑色の虫かごを首からぶら下げていたように見えた。もしかしたら昆虫採集をしに来たのかもしれない。

 森に入るのは初めてではない。
 入学して早々、体操着でオリエンテーリングを行った。新入生の交流を深めるのが目的だったようで、森の中をハイキングした後、開けた場所でバーベキューをしたのだ。
 ハイキングをしている最中、近くを歩いていた木下先生が虫や鳥の名前を教えてくれたのを思い出す。既にそれらの生き物たちの名前を忘れてしまったが、ハイキングコースの途中にあった案内板を指差し「此処と此処ではちょっと珍しい生き物が見つかっている」と説明してくださったのは不思議と覚えている。


 そこまで大きな森ではないが、急いでいるために息が上がる。
 なんで私がこんなことをしているんだろう。いや、本当に。自分で決めたことなのに、苦しくなる呼吸に少し投げ出したくなってきた。
 ハイキングコースとして整備はされているが、木の根っこがむき出しになっている所もある。平坦な道ばかりでもなく、前日の雨によってぬかるみもあった。

 そもそも、あの男の子を見つけて、私はどうすればいいんだろう。
 見知らぬ中学生が突然追いかけてきて、その上声を掛けてくるなんてあの男の子からしたら怖いかもしれない。でも、ここまで来たのだから安全を確認してから帰ろう。私の勘違いでも何でもいいじゃないか。


 時々ずるっと転びそうになりながらもなんとか踏ん張って歩いていくと、木下先生が案内板で指差していた場所に辿り着く。
 ハイキングコースから少し外れた場所にあるため草木が生い茂っている。辺りを見渡すと、視界の端を何かがごそごそと動き、時々何か聞こえてくる。鳥の鳴き声とは違う、ような気もする。

 この森で生活している動物に特別危険視するものはいないと聞いている。「昆虫類、爬虫類、鳥類、あとは狸かな」と生物委員会の顧問である木下先生も説明してくださった。心配のしすぎはよくないよね、と思いながら様子を確認するために近付こうと草地へ足を踏み入れると、突然「だ、誰かいますか」と、鼻をすする音とともに男の子の声が聞こえた。

   ○

 声の主は、確かにあの森へ入っていった男の子だった。小学校の創立記念日で休みだからと朝から様々なところへ出掛けて昆虫採集をしていたらしい。
 綺麗な蝶がいて、近くで見たくて、と男の子は私に背負われながら説明してくれた。
 私の顔を見た瞬間、彼はうるうると目に溜めていた涙をこぼして泣いた。

 ぬかるんだ土と生い茂った草によって足を滑らせて転んだ彼は、足首を痛め起き上がることが出来なくなってしまったらしい。
 善法寺くんが保健委員だということは知っていたため、とりあえず連絡をしておく。
 すれ違いになるのを避けたいため、ハイキングコースの入口で待っていてくれないかと伝えれば、すぐに返事が返ってきた。とりあえず入口までは私一人で頑張ろうと意気込み、足に注意しながら彼を起き上がらせ、背負う。

 正直重いと思った。戻れるか心配にもなったが、どうにか足を踏み出す。男の子に鞄を持ってもらい、自分も足を滑らせないように気を付けながら歩く。男の子は、私に何度も「ごめんなさい」と謝った。


 入口近くには善法寺くんを始め皆が勢ぞろいしており、校医である新野先生や木下先生もいた。男の子はすぐに木下先生に抱えられ、新野先生と共に行ってしまう。

「うちの生徒じゃないけど、新野先生が様子を見てくださるみたい」

 善法寺くんは私に怪我はないか声を掛けてからそう言った。
 男の子から受け取った鞄には、少し泥が付着していた。制服も所々汚れている。新品なのにな、と思わなくもないが、とりあえず無事ここまで帰ってこれたことに安心して大きなため息をついた。

「疲れたー」
「しかし、やはり最後は名字が解決したようだな」

 立花くんが私に綺麗なハンカチを差し出しながらそう言った。なんのことだろうと思っていると、中在家くんが「七不思議」と、もそりと呟く。

「七不思議?」
「七つ目は、『学園には、ヒーローがいる』だっただろう?」

 七松くんがガハハと笑いながら私の顔を覗き込んだ。

「名字は、あいつにとってのヒーローだったに違いないからな!!」
「敷地外の森での出来事だったけど……」
「細かいことは気にするな!!」
「えぇー」

 立花くんの綺麗なハンカチを使うのに躊躇していると、彼は少し苛立ったような顔をしてハンカチを私の頬に押し付けてきた。力が強くてちょっと痛い。
 食満くんは「まあ、森で怪我人見つけたって連絡は本当に驚いたけどな」と言う。


「で、誰だったんだ? あいつは」

 とりあえず教室に戻ろうと皆で学園へ戻っている最中、隣を歩いていた食満くんが首を傾げてそう言った。

「ああ、えっと小学生で、名前は確か――」

   ○

 その後、教室でノートをまとめてから七人で学園長室へ行くと、学園長先生は待ってましたと言わんばかりの顔で私たちを迎え入れてくれた。
 最後は名字だったから、と皆から背中を押されながら学園長先生にノートを渡せば「ご苦労じゃった」と学園長先生は皆の頭を撫でた。


 その後、学園長先生とヘムヘムが写ったブロマイド(立花くんが昨日言っていたもの)を受け取った。手渡しされたブロマイドには学園長先生のサインらしきものと私の名前が書かれていてちょっとびっくりした。
 学園長室を出ると、皆一気に肩の荷が下りたようだった。

「あれだけ頑張ってこれか」
「まあ、仕方ないよ。そういうものだよ」

 潮江くんが肩を落として残念そうに言うため、そう慰めると「そうだな」と言いながら彼は遠い目をする。

「でも、私は楽しかったぞ!! そうだ!! これから私はお前たちのことを名前で呼ぶことにする!!」

 突然、一番前を歩いていた七松くんが両手を上げて言った。中在家くんが「うるさい」と言ったものの、その声には優しさが含まれている。

「これも何かの縁だからな」
「偶然、じゃなくな」

 立花くんと潮江くんがそう言って私をちらりと見る。ちょっと恥ずかしいな、と思いながら私も頷くと、皆一様に笑い出した。


 その後、皆と別れた後に少し心配になって保健室へ向かえば、新野先生が一人で保健室内の片付けをしていた。

「あの子なら、お母さまがいらして先ほど一緒に帰られましたよ。念のために病院で見てもらうそうなので、安心してください。お母さまは名字さんのこと、とても感謝していました。ご迷惑を掛けてすみません、とも」
「ああ、いえ、私が勝手にやったことだったし……」

 新野先生に言っても意味はないのに、恥ずかしくてついそんなことを言ってしまう。

「でも、名字さん。あまり無茶をしてはいけませんよ。名字さんの姿が見えるまで、あそこにいた全員がとても心配そうな顔をしていました」
「はい」

 胸の辺りが苦しくて、でもやっぱり嬉しかった。

   ○

 私はあの男の子の名前をもう忘れてしまった。
 既に様々な部分がおぼろげになっている。ただ、あの男の子のうるうるとした目は、なんとなく覚えている。
 彼の目は、とても綺麗だった。



「で、一年生は学園長先生の突然の思い付きで何をしたの?」
「学園長先生の新しいブロマイドを作ろうってので、写真大会をしたらしい」
「私たちが一年生のころにやった思い付きと、どっちが良いと思う?」
「どっちもどっちだろ」

20170705

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