完結
 梅雨明けしたらしいけれど、今日も雨は降っている。
 昼休み、図書館に行こうとしていたら偶然会った学園長先生に声を掛けられ、ちょっとの間、来客用玄関で忘れ物をした学園長先生をヘムヘムと一緒に待つことになった。

「雨の日も学園長先生と散歩したいの?」
「ヘム!」
「散歩好きなんだね。黄色のレインコート、可愛いよ」

 ヘムヘムは私の言葉を理解しているのか、嬉しそうに答えた。「ワン」でなく「ヘム」と鳴くのが珍しい。白くて可愛らしい犬だが、撫でたのは初めてだった。
 

 例年、会計委員会の徹夜事情は新聞部のニュースになる程なのだが、今年は比較的マシだったようだ。
 予算会議の日は各委員会が予算を得るために大変な騒ぎであったが、それでも時間通りきっちりと終わらせることが出来たのは奇跡であったと、学園長先生が文次郎をいたく褒めていた。そして先生が文次郎を褒めている間、ヘムヘムも前足で文次郎を撫でるようにしていたのを遠目から見てちょっと羨ましかった。
 普段、ヘムヘムは学園長先生と一緒にいる。ヘムヘムを見かけることはあっても、撫でてみたいと思っていたとしても、近くに寄ることはない。学園長先生の突然の思い付きに巻き込まれると大変だからだ。

 ヘムヘムは可愛い。
 私はずっと、ヘムヘムに触ってみたかった。その願いが今、叶っている。
 頭を撫でる時、最初は緊張したが嬉しそうに撫でられているヘムヘムを見て、もっと撫でたいと欲が湧く。

「学園長先生は忘れ物だって。もう少し一緒に待ってようね。あっ、そもそもヘムヘムは私のこと知ってる? 高等部の名字名前って言うんだけど……」
「ヘム〜」

 レインコートの下にトレードマークの青いバンダナを付けているヘムヘムは、私の言葉にも頷くように頭を振った。

「わかるの? すごいなヘムヘムは」
「ヘムッ!!」

 誇らしげなヘムヘムの頭を撫でると、私にもっと撫でろというように頭を擦りつけてきた。
 甘えられているようで胸がきゅんとする。可愛い。可愛いなヘムヘム!!


 学園長先生が来るまでこれでもかと撫でたり話しかけたりしていたが、先生が来るとヘムヘムはすぐに気付いて嬉しそうに吠えた。さっきまであんなに私に甘えていたのに、とちょっと寂しくなる。
 青いレインコートを着て、傘を差して、雨に濡れないようにしながらヘムヘムと散歩に行った学園長先生を見送る。またヘムヘムと話せる機会があればいいなぁ。


 さぁ、目的であった図書館へ行こうと傘を広げようとした時、バシャバシャと誰かが水たまりの上を走る音が聞こえてきた。

「キミコー、太郎ー。どこだぁー」
「ん?」

 どんどんと近付いてくる声には、明らかに人の泣き声が混じっている。こちらが悲しくなるくらいの悲し気な声に、心臓が飛び跳ねるようだった。
 急いで傘を広げ、来客用玄関から出ると、傘も差さずに茂みの近くに屈んでいるジャージ姿の男の子を見つける。

 どうしたのだろう。
 声を掛けた方が良さそうだと彼に近付くと、辺りをキョロキョロと見渡すその男の子の顔がよく見えた。

「伊賀崎くん!!」
「えっ……?」

 少し屈んで声を掛けると、彼はゆっくりと顔を上げた。
 声を掛けたのが私だと気付くと、驚いたのか目を見開く。雨なのか、それとも涙なのか、頬は濡れていて、鼻の頭は少しだけ赤くなり、髪は湿っていた。
 彼は何度か瞬きを繰り返す。雨が降り続ける中、彼は口を少し開け、何も言わずにぼーっと私を見上げた。私が「伊賀崎くん」と、もう一度彼の名を呼べば、ハッとしたような顔をした後、ゆっくりと私の名前を呟く。

「名字、先輩……?」
「うん、どうしたの? 何かあった?」

 何かあったのかと尋ねれば、彼は学園で飼っている蛙が逃げ出したのだと言って再び辺りの茂みを掻き分け、蛙を探し出した。
 蛙を飼育していた水槽を一人で掃除していた時にぴょんと跳ねてどこかへ逃げていったらしく、彼は随分と焦っているように見える。

「キミコ、太郎……」
「二匹いなくなったの?」
「はい……」
「わ、私も探すから、一緒に見つけようよ、ね?」

 悲しそうに眉を下げ、今にも泣き出しそうな伊賀崎くんに動揺しながらもそう言えば、小さく頷いて彼は蛙の名を叫んだ。
 蛙を触ったことはないが、見つけることは出来るだろう。そう思って伊賀崎くんと一緒に蛙がいそうな場所を探していく。私だけ傘を差して探すのもどうなんだ、と思ったのだが、彼は私の傘に入ることはなかった。


 雨に濡れた草木を掻き分け、物陰になっている所を確認していくも、なかなか蛙は見つからない。
 花壇近くにあった水が溜まったバケツの周りを探しても見つからない。
 紫陽花が咲いている図書館裏の階段も、校舎の案内板の周りにも、自動販売機の近くにもいなかった。
 そもそも私は、伊賀崎くんが探している蛙がどういった場所を好むのかすら知らない。それでも雨に濡れたまま一生懸命に探す彼を見ていると、言葉を発するよりもまず目を動かして蛙の有無を確認することに集中した方がいいのではないかと思った。

 校舎裏の、高等部から中等部へと繋がる道を腰を屈めながらゆっくりと歩く。
 集中して目を凝らしていたため眉間に皺が寄っているのがわかる。腰が痛くなってきたために一度腰を戻して伸びをする。
 探す前に大きさくらいは聞いとけばよかった。そう思いながら一度ゆっくりと目を閉じ、眉間の皺を伸ばすようにすると、また耳に伊賀崎くんの蛙を探す声が聞こえた。

 伊賀崎くんはさっきよりも悲しみでいっぱいになっている。
 それに、もうすぐ予鈴が鳴る時刻になってしまう。
 ああ、どうしよう。困ったな。

 見落とさないように慎重に探していた時、雨音と共に蛙の鳴き声が微かに聞こえた。どこからだろう、と近くにある花壇へと近寄れば、桔梗の花のすぐ近くに二匹の蛙がじっとしているのを見つけた。

「い、伊賀崎くん!!」

 逃げられないよう目を離さずに伊賀崎くんの名前を呼べば、彼はすぐに駆け寄ってくる。私が蛙を指差せば、彼は瞳に溜めこんでいた涙をこぼして蛙に触れる。

「ああ、キミコ、太郎!! 良かったぁ。先輩、有り難うございます。本当に、本当に……良かったぁ」

 ぽろぽろと涙を流しながら嬉しそうに笑う伊賀崎くんに傘を差してあげれば、彼は再び私にお礼を言った。
 早く水槽に戻してあげなくちゃと小走りに走る彼の後を追って、彼が濡れないように傘を差す。


 今度はあの時と真逆だ。私が彼に傘を差そうと必死なのだ。残念なことに、今回は私も彼も雨に濡れてしまっているのだけど。
 この間程ひどくないが、今日も雨は降っている。びしゃびしゃと濡れている靴下も構わずに私は彼の後を追った。
 濡れるのは構わなかった。彼が以前してくれたように、私は彼の役に立ちたかったのだ。


 伊賀崎くんは変わっている。でも、だからといって嫌な印象を持ったことはなかった。むしろ私よりもしっかりとしているところを見てはすごい子だなと思っていた。
 でも、今日の伊賀崎くんは普通の中学生の男の子だった。泣いて、笑って、年相応の男の子だった。
 蛙が見つかって嬉しそうな顔をした伊賀崎くんは、紛れもなく中学三年生の男の子だった。

20170505

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