完結
 六月に入り、制服が夏服になった。梅雨も近いらしく、念のためにロッカーには傘を入れっぱなしにしてある。これで突然雨が降っても大丈夫だ。伊作の不運に巻き込まれたことが何度かあったため、何かあっても困らないようにすることはとても大切なことなのだ。
 空は灰色に曇り、雨が降りそうだなーなんて思いながら校舎裏を歩く。部活が終わった時にどうなっているだろうか。降らないうちに帰れたらいいけど。

 体育祭は終わったが今日も私は校舎周りを見回っていた。
 生物委員から、近くの森から動物が侵入している形跡があったと連絡がきたからだ。
 学園で飼育している生き物たちに危害は無かったが、授業で耕している畑が荒らされていたらしい。校舎を見回り、もし侵入口を確認出来たら、用具委員に連絡して補修してもらわなければならない。なるべく早く対応しなければならないようだったため、昼休みを使って見回っていた。久々知くんと斉藤くんはグラウンド周辺を、池田くんと二郭くんは中等部の校舎周りを確認している。今日すぐに連絡が取れた委員はそれだけだった。

 校舎裏を見回っていると、空からぽろんぽろんとピアノの音が降ってきた。そういえばあそこは音楽室か、と窓が開いている教室を見上げる。
 敷地周りを囲むネットや金網、コンクリートの塀などを確認する。確認のためにネットを持ち上げたり草木を掻き分けたりするため、軍手を持ってきた方が良かったかもしれないと後悔してきた。
 蒸し暑いため自然とため息をついてしまう。委員会の人数が他の委員会より少ないとはいえ、一人での見回りほど空しく、面白くないものはない。

 先生ではなく、生徒が弾いているのだろう。たどたどしくも、一生懸命なピアノを聞いていると見知らぬ弾き手に心の中で応援してしまう。なんの曲かはわからないけれど、可愛らしい音だ。
 侵入口を探すためにゆっくり足を進めていくと、ピアノの音はどんどん離れていく――と、その時地面に近い部分の金網がぐにゃりと広げられているのを見つけた。
 人間が入ることは到底出来ないが、小動物なら可能だろうか。いや、でもどうだろう……。
 侵入出来るのかどうかは私には判断出来ないが、一応このままにしておくわけにはいかないだろうと、しっかりと写真を撮っておく。
 久々知くんにそれを連絡すれば、彼はすぐに生物委員へ連絡してくれたようだ。生物委員がそちらに向かいます、という連絡を受け、ピアノの音を聴いて待っていると少しして誰かが駆けてくる音に気付いた。

「名字先輩、いらっしゃいますか?」
「はーい」

 走ってやってきたのは伊賀崎くんだった。

「あれ、伊賀崎くん?」
「はい。竹谷先輩は用具委員長に説明しに行ったので、高等部の金魚の餌やりをしていたぼくが代わりに……」
「そっか。じゃあ、ちょっと確認してもらってもいい?」


 変形した金網まで案内すれば、伊賀崎くんはじっと金網を見る。地面を触ったり、金網の穴の大きさを確認した後「ちょっと小さいかなと思わなくもないですが、塞いだ方がいいと思います」と言った。

「わかった。久々知くんに伝えるね。でも、そうなるとまだ他に侵入口がある可能性があるね」
「はい。ぼくも放課後、畑近くを探してみるつもりです」
「おお、伊賀崎くんは偉いね」
「そんなことはないです。だって、何かあったら大変でしょう? 先輩が体育祭で未然に問題を起こさないための巡回をしていたのと一緒です。もう、畑は荒らされてしまいましたが……」

 しゅんと肩を落として伊賀崎くんは地面へ視線を落とした。
 穴の確認のために私と伊賀崎くんは二人して屈んでいたが、彼の背中は丸まり、とても悲しそうに思えた。思わず彼の背中に手をやり、励ましたくなった。
 そう、無意識だった。無意識で彼の背中まで手を伸ばした――が、彼は途中で私のその行動に気付き、顔を上げた。

「先輩?」
「あっ、えーっと……。でも、畑の被害は残念だけど、生物委員会が飼育している生き物たちに何もなくて良かった、よね」

 背中へと伸ばしていた、宙に浮いた私の手を伊賀崎くんはきょとんとした顔で見つめる。自分が何をしようとしていたのかに気付き、顔に熱が集まった。
 苦し紛れにそれらしい言葉を掛けたが、恥ずかしくてたまらない。伊賀崎くんは、私の未だ微妙に挙げたまま固まっている手と、真っ赤になっているであろう私の顔を交互に見ている。
 まだ数回あっただけの男の子に、私は何をしようとしていたのだろう!!

「……慰めようとしてくれたんですか?」
「ごめん」
「どうして謝るんですか?」
「よく知りもしないのに、変だったなって」
「そんなことありませんよ」

 嬉しそうに笑った彼は金網に手を掛け、ゆっくりと立ち上がる。ピアノの音がぽろんぽろんと空から降ってくる。

「名字先輩は優しいですね」

 立ち上がった伊賀崎くんが手を差し出した。
 差し出された手に、少し戸惑いながらも私は自分の手を重ねる。彼の手に触れた時、ピアノの音がいつの間にか消えていることに気が付いた。

「それでは、そろそろ予鈴が鳴りそうなので中等部に戻ります」
「ああ、うん。わざわざ有り難う」
「いいえ、名字先輩、さようなら」

 手を引いて私が立ち上がったことを確認すると、彼は腕時計で時刻を確認して去っていった。
 伊賀崎くんが校舎の角を曲がり、姿が見えなくなると予鈴が鳴った。さっきまでは空からピアノの音が降ってきたが、今度はチャイムの音である。
 いつの間にか久々知くんから連絡が入っていた。彼の方も侵入口になりえる穴を見つけたらしい。大きさからいって本命だろうという話になったらしく、留三郎へ連絡を済ましたことが書かれていた。

「はぁー」

 なんだかよくわからないけれど、無駄に緊張をした。
 伊賀崎くんに何てことをしてしまったのだろう。結局私の方が慰められてしまった。委員会や部活の後輩でないから、どう接すればいいのかよくわからないのだろうか。……いやいや、そんなまさか。さすがに高三でそれはない。
 伊賀崎くんにおかしな先輩だと思われてたら嫌だな。
 教室に戻るために軽く走っていると、雨が降る前の独特な匂いが鼻をかすめた。

20170403

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