逢ふこともに浮かぶわが身には死なぬ薬も何にかはせむ




 くもりのない日に夜空に浮かぶ月が、まるで川を渡るように見えた。

「渡月橋なんて、よく言ったものだね」

 その由来の通りに、この場所からは大きな月が橋をかけるように移動する様をはっきりと見ることができる。水辺の冷たさを僅かに含んだ風が、静かに夏の余韻を感じさせる温い空気を揺らした。

「綺麗やな」
「そうだね。だけど、あんまり見すぎると連れていかれるよ」
「どういうことや」

 月から迎えが来るとでも言うんか。そう笑って答えた隣の男に、「あんたも随分と夢想的だよね」と笑ってみせれば、「お前が言い出したんやろ」と呆れたような声で返される。

「迎えが来てくれるなら、それほど良いことはないよね」
「かぐや姫でも目指しとるんか?」
「馬鹿言わないでよ、鳥肌立った」

 もうすぐここに来てから三度目の秋がやってくる。季節の変わり目特有の名残惜しいこの感覚には、いつまで経っても慣れそうにない。

 何もかもを明るい気持ちにさせるような、熱くて眩しい夏。そこから一気に、ありとあらゆる全てを置いていくような切なさを届けに秋がやってくる。この季節だって色とりどりの豪華さを持っているはずなのに、なぜこんなにも虚しさが響くのだろうか。心にぽっかりと空いた穴を、真上で輝く月がぴったりと蓋をしてくれるようにと願った。

「逢ふことも涙に浮かぶわが身には死なぬ薬も何にかはせむ」
「人のこと夢想的とか言っといて、自分も結局竹取物語やん」
「うるさいな」
「そん中でもまた特別寂しいもん選んだな」

 以前この人に、急に月に帰ってしまったかぐや姫は勝手だという話をした。残された身からすればたまったもんじゃないと言ったら、ひねくれた感想しか言わないと笑われてしまったっけ。この数年間で俺自身のいろんな考え方が変わった。それでもやっぱりその意見は変わらない。

 経験したことがないからその気持ちは実際にはよくわからないと言ったのも覚えている。けれどもそれに関してだけはちょっと違う。

 もうかぐや姫に会うこともないから、こぼす涙にその身が浮かんでしまうほどに悲しい自分には、せっかく貰った不死の薬も何の意味がない。そう嘆き先程の歌を詠んだ男の気持ちが、今じゃ痛いほどによくわかる。想う人がいない世界を長く生きることほど、苦痛なことはないだろう。

「・・・・・・いちいち理由探して逃げんなよ」
「何であんたにそんなこと言われないといけないわけ」

 橋の欄干に肘をつき、仏頂面を披露しながら隣の男の方を向くと、やけに真剣な表情で、有無を言わせない圧の強い視線をこちらへと投げてきた。

「俺がお前の詠む歌が好きやからに決まっとるやろ」
「・・・・・・なに、急に」

 本気にして。馬鹿みたいだ。川のせせらぎのように静か。でも迫力のある確かな強さ。それを持つこの人のこの真っ直ぐな瞳と言葉は、蛇行しながらもがき苦しんできた俺にとっては、いくら親しくなったとしたってやっぱり少し苦手だと思った。

「あと千首は詠め」
「なにそれ、一生かかっても無理じゃん」
「せやから、一生詠んどけって意味やん」

 歌人ならそのくらいの意図は読めなきゃな、だなんて無茶なことを言った男は、月の光に照らされながら大きく笑った。その声が楽しそうでいて、でもどこか切なさを含んだようにも聞こえるのは、やはりこれからどんどんと深まってゆくこの季節が関係しているのだろうか。

「それは無理だよ」

 あの歌集が完成したら、俺はきっともう何も詠まない。せせらぎが掻き消したのか、あえて聞こえないフリをしたのかはわからないが、小さく呟いたその声は、隣にいる男には届かなかった。

 夏の終わり、秋の初め。月が綺麗な夜だった。


◆◆◆◆◆◆



「知らない間にそんなことになってたんですか」
「う、うん」
「・・・まぁ俺には関係ないので、これ以上は口出さないって決めてましたけど」
「・・・・・・・・・」
「・・・苗字さん」
「はい」
「こっちまで恥ずかしくなってくるような空気を醸し出すのはさすがにやめてくれませんか」

 少しだけイラッとした様子を隠し切れていない赤葦くんは、眉間を抑えながら短いため息を吐いた。自分の気持ちを一人では抱えきれず、かといって友人に言うと面白おかしく根掘り葉掘り聞かれそうだったので、角名くんのことも知っている赤葦くんを再度呼び出させてもらったのだ。

「見てるこっちまでそわそわしてくる」
「そんなこと言われても・・・」
「まぁいいんじゃないですか。その今の心境を活かしてばんばん新作作ってもらえるなら、貴女の一ファンとしては嬉しい限りですね」

 好きだと自覚した途端に、自分が自分じゃなくなったみたいに感情のコントロールが効かなくなった。あの日から新着のメッセージ通知が届くたび、飛びつくようにスマホを確認し、彼の名前じゃないと少し落ち込んでみたり。角名くんの名前が表示されれば、すぐに返信をしたい気持ちと、がっついてるようで恥ずかしい気持ちとがぶつかり合ってどうすればいいのかわからなくなる。数年前に流行った曲では、返事はすぐにしちゃダメだなんて歌われていたのを思い出して少し待ってみたりして。早る気持ちを抑えながら、一文字一文字丁寧に届けたい文字を指先で打ちこんでいく。

「そろそろ時間だし、行きましょうか」

 腕時計で時間を確認した赤葦くんに続いて席を立った。残暑はいつ去るのだろうかとため息を吐きたくなるほどに、九月になっても相変わらず蒸し暑い。すぐ近くの体育館では今日もバレーボールの試合が行われていた。

 しなやかな体捌き。ぶれることのない体幹。捉えたと思っても捉えられない。軸がしっかりとしたその強さは、基本を何度も繰り返し、緻密に創り上げられてきた繊細かつ大胆な強さだと素人ながらに思った。

 まるであの歌達のような。

 よそ見をすることなく真っ直ぐに前を見続け、何度も強い意志を詠みあげた、名前も知らないいつかの歌人。言葉はあんなにも繊細なのに、込められた感情はあまりにも大胆。いつかその人に届けと願って、一人がむしゃらにもがき続けた幼い日々を思い出させるような彼のプレーは、バレーボールのことを何も知らない私でさえもどんどんと惹き込んでいってしまう。

「あやめの花」
「あやめ?」
「・・・・・・角名くんを見てると思い出す」

 そういえば、前回赤葦くんと試合を見に来た帰り道でもあの花が咲いていたような気がする。季節外れだったし、二回目に振り向いた時にはもうそこにはなかった。けれどはっきりと記憶には残っている、紫色の独特な花びら。

「角名も一番最初にあやめの匂いがどうとか言ってましたね」
「そうなの?」
「俺には何のことだかさっぱりわかりませんでしたけど」

 脳内にあの歌が奏でられる。美しく響く言葉の旋律が心を彩り明るくさせた。物事の分別もつかなくなってしまうような全力の恋愛に悩まされる。まるで今の私そのものだと思った。

「試合、終わりましたけど下行きますか?」
「ううん、今日は平気」
「そうですか」
「この後外で会う約束してるから」
「・・・・・・あぁ、そういうこと」

 良かったですね。なんて言いながら全然その言葉と合っていない表情を向け、「恋の始まりが一番盛り上がるところですけど、あまり流されすぎないように気をつけてくださいよ」と一言残して去っていった赤葦くんに手を振った。

「今日も来てくれてありがとう」
「ううん、お疲れ様」

 疲れてるのにこっちこそわざわざごめんね。そう言うと、そんなことないよとポスンと頭に手を乗せた角名くんが流れるように私の手を取り、そのまま「お腹空いてない?」と言いながら歩き出す。驚いて目を見開くも、あまりにも自然な一連の動作に何も言えずに「ほどほどに・・・角名くんはどう?」と、投げかけられた質問にただ答えることしか出来なかった。

「・・・・・・・・・」
「角名くん?」
「・・・・・・ふっ、ごめん、堪えられない」
「え!?」
「ははっ、流されすぎ。心配になるくらい」

 そう言って繋がれたそこを持ち上げた角名くんが、「このままでもいい?」なんて愉快そうに声を潜めて確認してくるから、私はまた言葉を詰まらせながら、「っ良い、です」と首を縦に振ることしかできなかった。

「そうだ、この近くに大きい公園があるの知ってる?」
「うん」
「その中にあるレストランが結構良い感じでさ、この気温ならテラス席でも良いかもって思うんだけどどう? 今日は月も綺麗だし」
「良いね」
「じゃあそうしよう」

 ふわふわと風が肌の表面を撫でる。ぬるま湯みたいなその温度は、私の落ち着かない心を表しているようでなんだかくすぐったかった。広い公園は街灯も少なく、街よりもだいぶ暗闇が広がっている。こんな時間では人も僅かで、隣を歩く角名くんが地面を踏みしめる音だけが聴覚を支配した。

 不意にキュッと力の込められた手のひらにピクッと反応してしまって、恐る恐る彼の顔を見上げる。悪戯が成功したのを楽しむように目を細めた角名くんの後ろには、ぽっかりと浮かんだ大きな十六夜の月が自らの存在を主張していた。

「角名くんは、さ」
「ん?」
「夜が似合うね」
「どういうこと?」

 ゆらゆらと昇ったそれは、雲間から少しずつその存在を浮かび上がらせる。淡い月影に照らされた彼の姿は、どこか現実離れした神秘さを持ち合わせていて、目に映る全てを呑み込むように高い位置から見下ろすのだ。

 月ははるか昔から現代に受け継がれた形見のようなもので、月を見れば昔のことがしのばれると言う。百年前に誰かが恋しく思った月も、千年前に想いを馳せた月も、今私たちが見上げているものと変わらない姿形でそこに在るのだ。角名くんを見ていると、どうしてかその言葉を思い出す。

「時間に少し余裕ができたら、一緒に行きたい場所があるんだ」
「行きたい場所?」
「うん」
「どこ?」
「京都」

 サァっと涼しい風が吹いて髪の毛をサラサラと揺らした。それに乗って一枚の紅葉がひらひらと視界を遮る。まだ葉が色付くまでは程遠い秋の初め。こくりとゆっくり頷いた私に、にこりと笑った角名くんの顔は、今までのどの表情よりも穏やかだった。

 これから徐々に、そして確実に、秋が深まっていく。

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