の初花染めの色深く思ひし心われ忘れめや




「角名、倫太郎さん?」
「・・・・・・・・・」

 驚いた顔でこちらを向いた彼女が俺の名前を口に出した瞬間に、ザァァッと見たことがない光景が頭の中に流れ込んできた。濁流のように溢れるそれは、激しく俺の思考回路に攻め入ってくる。

「あっ、いきなりすみません。以前試合で見たことあって」
「・・・・・・あぁ、そうなんですか」

 なんで俺の名前を? そう思ったけれど、試合を見た事があるなら知っていてもおかしくはないか。けれど何かが引っかかる。それが何なのかを考えたいのに、頭は流れ続けてくるよく分からない映像に支配されていて上手く働かない。

 俺の傍を離れて彼女の方へと移動した鹿を黙って目で見送る。クイっと引っ張られた彼女が力に負けて、こちらへと焦りながら引きずられるように歩いてきた。

「えっと・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・私の顔に何かついてますか?」

 俺はこの人のことを見たことがない。一度だって。見たことがないはずだ。

「あの、どこかで会ったことありますか?」
「無いと思いますけど・・・」

 それでも目が離せなかった。一目惚れとかとはまた違う。そもそもそんなに恋愛に熱を入れるようなタイプでもないし。俺の性格上、素性も知らない相手の見た目だけで好きになるなんて事とは無縁だと思っている。大きな違和感を残しつつも、「そうですよね。じゃあ」とその場を去ろうとした。

 頭の中に流れ込んでくる、靄がかかったように不透明でぼやけている映像が凄まじくて、なんだか頭が痛い。ガンガンと殴られているような鋭い感覚がどんどんと大きくなっていって、これは流石にやばいんじゃないかという焦りを覚えた。その痛みがピークに達したと思われた時、鹿に体を押されたらしい彼女が慌てた声を上げながら倒れ込んできた。

「っあぶな」

 やばい、このままじゃ転ぶ。咄嗟に伸ばした腕で彼女の体を引き寄せた。

 指先が彼女に触れる。がっしりと掴んだ腕から、電流が流れるようにビリビリとしたものが伝わってきた。その衝撃が靄のかかった思考回路を途端にクリアにさせて、ごちゃごちゃとしていた脳内をズァっと整えるように稲妻を走らせた。

 走馬灯なんて見たことないけど、こんな感じなんだろうか。瞬間の早送りのようにドッと押し寄せたその映像の中にいるのは、俺であって俺ではない。この建物はなんだ? ここは京都か? 奈良のここも歩いている。隣にいるのは、もしかして銀? なんだ、これ。真っ赤に染まった橋。嵐山で見る光景。だけれど違う。俺の知っているものとは。電柱も、賑わう観光客もいない。古めかしい格好をした教科書や映画でしか見た事がない服装をした人が歩いている。

 一人の男が、俺に話しかけた。

『お前、また大変なもんに惹かれよったな』
『春されば 野辺にまづ咲く 見れどあかぬ花 まひなしに ただ名のるべき 花の名なれや』

 この感情の答えは自分で導き出せと、意地悪く笑った。

 ああ、思い出した。全部。全部だ。初めてあの歌を目に入れたあの日も、ぐるぐると思い悩んだ日々も、ムカつく双子に揶揄われたことも、珍しく友達だと思える奴が出来た日も、信頼できると思ったあの依頼者も、いつも俺を気にかけて何かとそばにいてくれたあの男も。

 どうしようもない想いを抱えて、どうにもならない現実に抗いながら、このままこの気持ちを手放さなければ、時間も常識も全て飛び越えて、いつか、必ず届くと信じ続けたあの日々を。

 会いたくて会えなくて、触れたくて触れられなくて、姿が見たくて見えなくて、声が聞きたくて聞けなかった。あの時代を生きた俺が、ずっと、焦がれて望んだ、あの人の名前は。

「・・・・・・苗字、なまえさん?」

 ハッとしたような顔をこちらに向けて何かを言おうとした彼女を、堪えきれずに勢いよく引き寄せた。情けない顔をしていると思う。それでもどうしようも出来なかった。

 だって、俺は、ずっと、千年もの長い間、あんたに。

「会いたかった」
「ええ?」
「ずっと、会いたかった・・・!」

 声が震えた。体も震えた。全身が叫んでいた。溢れ出る感情を抑えきれない。もはや抑えたいとも思わなかった。人前で涙を流すような、そんなキャラじゃないけれどどうしたって止められなかった。

「・・・種しあれば 岩にも松は 生ひにけり 恋をし恋ひば 逢はざらめやも」
「えっ」

 彼女は驚いたように俺を見上げながら、戸惑いつつも俺の頬に触れた。零れ落ちた涙を優しく掬う。その指先は柔らかく、触れたそこに花が咲くように、陽だまりのような暖かさを運ぶ。彼女に、触れている。彼女が、俺に触れている。

 全部はっきりと思い出せるんだ。本当だよ。空気、匂い、感動、熱い気持ち、光景、決意、悔しさ、喜び、悲しさ、楽しさ、やるせなさ、託した希望。全部全部。

「大丈夫、ですか」
「ごめんね、いきなりこんな」

 俺だけがこの気持ちを持っていて、今彼女は何も知らずに本気で困惑しているだけだろう。それもそうだよね。だって前世の記憶だなんて信じられる? 俺だってそんな事言われても馬鹿じゃないのって笑うと思うよ。非現実的すぎる。そんな事いきなり言われても普通は信じられないだろ。それに記憶がもしも彼女に残っていたとして、俺を残して二百年も先に死んじゃったんだから俺のことなんて知らないんだよね。笑っちゃうよ。

 だからやっと、この長い長い時を超えて、俺たちは初めて出会えたんだよ。この時代で。

「初めまして。知ってるかもしれないけど、俺は角名倫太郎」
「はぁ。はじめまして。苗字なまえ、です・・・?」
「ふふっ」
「えぇ? 何? なんですか?」
「ふはは」
「角名さん?」

 キョトンとした顔で俺を見るその顔は、なんだか阿保っぽくてすげぇ笑える。いろんな想像をした。宮仕えをしてたっていうし、厳格な人なんだろうかとか、無口なのかなとか、会ってみたらどうしようもないダメ人間な可能性だってあるぞなんて。

 一体どうしたんですかと怪しむ態度を隠そうともせずに聞いてくる。その度胸と素直さに気分がさらに高まった。思ってた以上だよと笑いかけると、意味がわかりませんとでも言うように首をかしげた彼女が、またぽわんとした顔で俺の顔を見上げた。

「うん。そんな人だったんだねあんた。思ってること全部顔に出る。わかりやすくていいよ。あと見た目も想像通りだ。でも思ってたよりも頭は弱そうだな」

 素直な人なんだろうなとは思っていた。歌から滲み出る人柄がそう俺に訴えていたから。優しい人なんだと思う。だって綺麗な心がないとあの歌は詠めない。彼女が残した言葉たちは、全てが透明で、汚れがなく、そして眩い光を放っていた。

 きっとこういう人だろう、こんな人であればいい。そう望んだ通りの彼女が、今、俺の目の前に確かに存在している。

 そんな彼女はムッとしながらも、まだよくわかりませんと言った表情で俺の腕の中で立ちすくんでいた。初対面の男にいきなり抱きしめられて、特別抵抗もせずに静かに収まってるってどうなの? 今の状況のみを考えると俺は嬉しいけど、そこはしっかりしたほうがいいよ。少し心配になる。

 ごめんごめんとそっと腕を解いて一歩距離を取った。しっかりと彼女の顔を見つめる。同じように目を逸らさずにこちらを見る彼女の瞳は、やはりとても澄んでいて綺麗だった。

「今日はどうしてここに?」
「えっと、知り合いの作家さんに呼ばれてて」
「なるほどね」
「でももうすぐ待ち合わせの時間だから行かなきゃ」
「それは残念だな。もう少し一緒にいたかったんだけど」
「・・・・・・角名さんってそんな感じなんですか?」

 疑うような目を向けられて嬉しくなった。そう言うと何かいらぬ誤解を生みそうだけれど、俺を不審な目で見る彼女は男慣れしてなさそうで安心した。今俺すげぇテンション高いの。わかるでしょと笑いかけてみても、だからなにという素直な表情を向けられるだけなので、それにさえも面白くなってしまう。

「なまえさん」
「は、はい」
「ちゃんと頭ん中整理したらまた会いに行くから」
「え? あの・・・」
「いきなりこんなこと言われても困るだろうけど、俺はあんたのこと何がなんでも追いかけ続けるからね」
「ん、んん? どういうことですか? なんか怖い」
「ははっ」
「また笑った・・・」

 まだ俺もこの情報量を整理するには時間がかかるし、いくら俺が会いたかったからって、彼女のことも考えなきゃいけない。何がなんでも最終的には絶対に俺のところに来てもらうけど、今はそこまで焦りすぎなくたって良い。

 俺がこんなことを考えているなんて思ってもないだろう彼女は、真面目な顔をしながら「よくわかんないですけど、もしかして私の作品のファンだったりするんですか?」と問いかけてきた。そんなことを言われるとは思ってなくて驚く。ふつふつと湧き上がってきた笑いがまた止まらなくなった。

「そうだよ。ファンだよ、一番の。誰にも負けない自信ある」
「いちばん・・・」
「疑ってる?」
「いや、疑うとか疑わないとかでは・・・」
「俺はあんたの詠んだ歌に惹かれたんだ」
「ありがとうございます・・・?」

 喜んでいいのかどうかわからない、なんて顔をしている。うん、その表情も良いね。

「千年前のあの日から、ずっと囚われてたんだよ俺は」

 馬鹿みたいでしょ。本当に。自分でもそう思うよ。

「ん? うん?」
「この話はまた今度ね。そろそろ時間じゃないの?」
「うわわわ、遅刻だ! 遅刻!」
「あらら、やっちゃったね」
「すみません、ここで失礼します!」

 うん、またね。そう言って手を振ってみれば、控えめながらにもきちんと振り返してくれた。きっとこういうのを無視できない性格なんだろうな。お人好しそうだし。

 苗字なまえ。俺の好きな人。まだ会ったばっかじゃんって? 会わなくったってあれだけ好きだったんだ。それこそ人生賭けるくらい。大袈裟かな。でも、本気で焦がれた。やっと会えたんだ。前世とか、過去だとか現在だとか関係ない。それにきっと俺は彼女のことをたとえ前世の記憶がなかったって気にいる自信がある。

 今まで付き合ってきた女の子も何人かいたけど、いまいち踏み込めなかった。だけどこの子は、過去の記憶の贔屓目をなしにしても気になってしまうと思えた。あぁそうだ。彼女は今でも歌を詠んでいるんだっけ。帰ったらすぐにでも本を買ってみよう。

 初夏の清らかな青い空を見上げた。薄い雲が楽しそうに泳いでいる。銀に会いにここに来たあの冬も、こうして空を見上げていた。彼女のことを想いながら。頬を撫でる風が涼しさとともに希望を運んでくる。こんなにも明るい気持ちになるのはいつぶりだろうか。

 ブルッと震えたスマホを確認すればものすごい数の通知が来ていた。あいつらがまだか、どこにいるんだと何通ものメッセージを絶えず送ってくる。今から行くよ、どこにいる? と返すとすぐに場所が送られてきた。

 ゆっくりと歩き出した。その足取りは今までにないくらいにとても軽い。後ろを着いて歩く鹿に、「隣歩きなよ」と声をかける。嬉しそうに駆け寄ってくるその頭を撫でてやると、嬉しそうに鼻を鳴らした。

「おっっっそ!」
「いつまで追っかけとんねん」

 ブーブーと文句を言う双子は、次はここ行くで! と食べかけのアイスを一気に口へと突っ込んで、張り切りながら再び歩き出した。俺の横へと並んだ銀が「ちゃんと見つかったか?」と声をかけてくる。それに「うん」と頷くと、また夏の太陽みたいな笑顔で「良かったな」と笑った。

「銀」
「ん? どうした?」
「ありがとう」

 突然のことに驚いたのか、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。その様子がおかしくてククッと喉を鳴らすと、少し照れたようにしながら「なんやいきなり」なんて鼻の頭をかく。角名は昔っから心配ばっかかけよる。なんかほっとけないんよなぁ。な? と銀が反対隣を歩く鹿に声をかけて、言葉を理解しているのかしていないのかわからないこいつはキィなんてまた大きく鳴いた。

「なにその問題児みたいな扱い」
「自覚ないかもしれんけどお前も結構な問題児やぞ」
「ええ。でも北さんにも似たようなこと言われたな確か」
「はは、北さんも昔っからお前のこと心配してばっかやもんな」

 二人とも歩くの遅すぎやー! と少し離れた場所で双子が騒ぐ。あいつらこそ昔っから問題児でしょと笑いながら二人と一匹で速度を早めた。今日は、やっぱり体が軽い。


和歌
・紅の初花染めの色深く思ひし心われ忘れめや
・・・初咲きの紅花で染めると色が深くなるように、心を深く染めたこの恋を私が忘れることがあるでしょうか。忘れるはずがありません。


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