世の中は夢かうつつうつつともとも知らずありてなければ




 あれは、ここに来てから二回目の春のことだった。相変わらず俺はのんびりと過ごしながら自由な生活を送っていた。その日はもう桜が咲いているにも関わらず雪が降った。桜隠しなんて言われるその光景は、言葉を失うほどに綺麗だった。雪なんかが降ったらひたすら家の中に篭っていたはずの俺が、わざわざ散歩に出掛けてしまうほどに心を動かされるくらいに。花冷えの季節。安定しない春の気候に悩まされるけれど、それですら日々を彩り楽しむための一つの要素だと思える。

 その年の夏はとにかく猛暑続きで、暑いのが苦手な俺はその太刀打ちできない気温にやられて体調を崩した。ただでさえ地獄の釜の中にいるように感じるのに、熱を放つ体は本当に煮えて溶けてしまうんじゃないかというほど。灼熱地獄ってこんな感じなのかなと弱々しい声で呟いた俺に、「何言ってるん」と言いながら付きっきりで看病してくれてたあの男でさえ、さすがにいつもみたいな厳しいことはそんなに言わなかった。

 三回目の秋。この土地の隅々まで行き尽くした俺は、お気に入りの場所から力強い色に染められた街を見下ろしていた。小倉山からの光景はまさに絶景。この景色を求めてたくさんの人が全国各地からここへとやってくる。赤く染まった常寂光寺じょうじゃっこうじはまるで極楽浄土のように人々の心を潤した。この近辺に住んでいたんだろうあの人も、きっと二百年前にこの景色を見にここへ来たに違いない。

「今年の冬は随分冷えるな」
「凍りつきそう、こんな中外にいるとか馬鹿みたい」
「ほんまにお前は軟弱なやつや」

 ぶるぶると震える俺を笑うこの人は、随分冷えるとか言いながらも余裕そうな顔をしている。おかしいでしょ。俺の体はもう足の先から凍傷になっていきそうなくらいに冷え切ってるっていうのに。昨夜降り積もった雪で真っ白に染まった天龍寺てんりゅうじを歩きながら、ザクザクと風流な音を鳴らして二人分の足跡を残した。

「この時期にこんなにも行動的なお前に未だに慣れんわ」
「たしかに前は完っ全に引きこもってたからね」
「ええもんやろ、冬も」
「寒いのは勘弁してって感じだけど、この景色は一生に一度は見ておきたい光景だよ」

 純白のそれに覆われた庭園を見渡す。全てを飲み込むような白雪の中、ぽっかりと空間が空いたように澄んだ池がゆらゆらとその水面を揺らしている。僅かに覗いた太陽の光をきらきらと乱反射させて、幻想的な空間が創り出されていた。

「ここに住んでりゃまたいつか見れる」
「・・・そうだね。そうだといいな」

 汚れのない白は、純粋な心にもそっと溶けて全てを洗い流していく。誰も踏み込んでいないその空間に足を踏み入れたら、自分の踏みしめたそこから完璧な白が無くなっていってしまうから思うように近づけない。壊すことを躊躇う、綺麗すぎるそれはまるで絶望にも似ている。夢見心地にさせるようでいて、目の前を無に近い真っ白に覆い尽くすから厄介だ。

「いつかまた、ね」
「なんか言ったか?」
「・・・いや、何も言ってないよ」

世の中は 夢かうつつか うつつとも 夢とも知らず ありてなければ

 この世の中は夢なのか現実なのか。自分には現実とも夢とも分らない。存在しているのに存在していないのだから。

 思い浮かんだ言葉を忘れないようにと頭に刻み込んだ。思考まで識別不能になってしまったら、それこそ身動きが取れなくなってしまう。もうほとんど真っ白に囚われかけている頭をどうにか引き戻して、この景色ごと記憶の箱の中に仕舞うようにゆっくりと目を閉じた。


◆◆◆◆◆◆


 新幹線に揺られながらひたすらにぼーっと過ごす。思い起こされる数々の場面と感情を一つずつ整理するには時間がかかりすぎる。スマホのカメラロールに保存された写真みたいに、頭の中に流れてくる記憶も綺麗に直ぐに並べられればいいのにな。

「・・・頭痛ぇ」

 ついさっきまで奈良にいたはずなのに、次はもう家の最寄りだ。京都から奈良に行くのだって相当な時間と体力を要したっていうのに、本当に随分と便利な時代になったもんだ。スマホで彼女の名前を検索すると、これまでに出版した書籍やらインタビュー記事やらがたくさん出て来る。こんなにすぐに知りたい人の情報が片っ端から出て来るんだから、そりゃこの時代には情報屋なんてものはほとんど存在しないはずだよな。

 出てくる記事一つずつに目を通していると、彼女が出版した数冊の書籍の中に見たことのある物があり、目一杯シートを倒しだらけさせていた体をガタッと起こした。

「(北さんが大耳さんから貰ったっていう本じゃん)」

 全く怖いよ。こうなることを読んでいたんだろうか。持っとくだけ持っておけ、いつかきっと開く時が来るから。そう言ったあの人はいつも通りの無表情だったけれど、あの日はいつもよりもどこか楽しそうだった。

 あの人にも一度会いにいかなきゃな。でも、北さんに何て声をかけて顔を合わせたらいいのか。今はまだそれがわからない。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「苗字さん」
「赤葦くん、ごめんね急に呼び出して」
「大丈夫です。何かあったんですか」

 空いてる日があったら聞きたいことがあるから一度会いたい、と赤葦くんに連絡をしたのは一昨日の夜のことだ。

「聞きたいこととは一体何でしょう」
「え・・・えと・・・」
「ここだと話し辛いことですか?」

 それなら場所移動しましょうか? と優しく聞いてくれる赤葦くんに、「大丈夫、大丈夫」と両手を振って制して一度大きく息を吸った。あの・・・角名倫太郎選手についてのことなんだけど、と意を決して口を開いた私に、驚いたように一瞬目を大きく開いた彼は、すぐにまた無表情に戻り「角名・・・」とその名前を繰り返す。

「あの、えっと、赤葦くん?」
「会わせてくれとかですか?」
「ええ! いや、そんな、そこまではまだ・・・!」

 ぶんぶんと慌てながら体の前で手のひらを動かす。納得のいかないような顔をしながらも、とりあえず話を聞きましょうかと、運ばれてきたアイスコーヒーを口に含んだ彼と同じように私もホットコーヒーに口をつけた。

「角名さんって変な人なのかな」
「・・・・・・・・・はい?」
「あっ、ごめんごめん、誤解させたよね! 違くって、あの、この間奈良に行くって話したじゃない? その時にね、現地で角名さんに会って」
「会った? え、本人にですか?」
「うん」

 まずそれを言ってくださいよ、と眉を顰めてハァとため息を吐く。ごめんねと一度軽く謝り、「会った時に、なんか急に抱きつかれて」と続きを話し始めたところで、辺りに響き渡るくらいの勢いで「はぁ?」と彼が珍しく声を荒げた。

「どういうことですか何があったんですか他に何されたんですか」
「えっ、と、あの、赤葦くん」
「いいから、全部話してください」

 ズッ・・・と黒いオーラを後ろに纏うように怖い顔をして圧をかける赤葦くんに若干怯えるも、早くしろという顔を向けられるだけ。恐る恐る私が口を開こうとすると、赤葦くんも冷静さを取り戻すようにして一度深く息を吸った。

「ずっと会いたかったって言われて、私のことを知っているようだったの。あっでも初めましてって言われたから会ったのは本当にそれが初めてで、あの」
「大丈夫です。続けてください」
「急に馴れ馴れしいというか、いきなり口調が砕けたと思ったら、頭の中整理したらまた会いに行くからって。何がなんでも追いかけるって言われて、それで・・・」

 どんどんと顔が険しくなっていく赤葦くんを見て見ぬフリをしながら話し続ける。こういうことを順を追って説明するのが極端に苦手なので、上手く伝わっている気がしなくてヒヤヒヤする。

「私の作品のファンなんですかって聞いてみた」
「なんて言われました?」
「一番のファンだって。誰にも負けない自信あるって」
「・・・・・・・・・」
「千年前から・・・それで、この話はまた今度って」
「・・・・・・それで終わりですか」
「うーん、あとは、えーっと・・・あっ、そうだ、最初に抱きしめられた時、角名さん泣いてた」
「泣いてた・・・?」

 あの角名が? とでも言うように驚愕の表情をする赤葦くんに、でもほんの一瞬だよ? と何故だか私が焦ったように声をかけるけれど、「あの男がそんな風に感情を荒げてるのが不思議すぎる」と赤葦くんはさらに頭を抱えてしまった。

「こんなことを言うのはアレですけど、なまえさん確実にヤバいファンに捕まってんじゃないですか」
「・・・やばいファン」
「わけわかんないこと言われまくって、突然抱きつかれて、千年前? 怖すぎでしょう。何が何でも追いかけるって・・・先輩のチームメイトに対してあまり言いたくないですけど、絶対危ないやつですよそれ」

 そもそも「誰にも負けない自信がある」とかいう言葉は、自意識過剰で過激で危険だと編集部もよく頭を悩ませている、害悪なファンの典型的な台詞ですよ、と両肘をテーブルについて顔面を覆う。全く酷い言われようだ。しかしこれに関しては残念ながら否定もできない。けれども角名さんからはそんなに危険な空気は感じられなかった。それを口に出せば、「あんた本気ですか」と真面目に怒られる。

 以前からなんとなく角名に興味がありそうだったから、あれだったら次はまた別の先輩の試合で一緒になるのでそこでって思ったんですけど、やめましょう。そう言いながら私のことを真っ直ぐに見つめた赤葦くんに、さらに「相手の本心がわかるまでは近づかないこと。俺も先輩たちや知り合いに少し聞いてみるので」と釘を刺され、「目を離したらすぐに厄介ごとに巻き込まれるんだから」ともう一度溜息を吐かれた。

「ねぇ、その次の試合って近くでやるの?」
「・・・まさか行こうとか思ってんじゃないでしょうね」
「えっ! ・・・・・・・・・そんな、ことは」
「なんですかその間は」
「えっと・・・」
「もし、もしですよ。ダメだって言ってんのに行くってんなら絶対に俺を誘ってください。一人にならないこと。あんたは俺の担当作家でもないですし、他社ですが、大事な作家を危険に晒すわけにはいかないですから」
「・・・・・・はい。ありがとう赤葦くん」

 よろしくお願いします。そう言って頭を下げれば、迷いなく行こうとするのやめてくださいと項垂れながら、赤葦くんはスマホを開いてどこかに連絡を入れた。

 こんなに心がふわふわするような感覚は初めてだ。これから何が起こるか、まだ何の予想もつかないけれど、きっと私にとって悪いことではないと思う。そう直感が訴えかけて来る。見たことのない世界。経験したことのない未来。初めてに触れる感覚。パッと彩度の上がった鮮やかな視界は、これから起こることに対しての期待感を膨らませ、そしてその感情をさらに華やかに彩る。

 この季節の太陽のようにぽかぽかとその存在を主張し出す心臓が心地の良いリズムを刻むのを感じながら、手元の珈琲を一気に飲み干した。

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