五月来ぬ忘草わすれなぐさもわが恋も今しほのかに匂ひづるらむ




「うっわ、すごい綺麗!」
「ね。いいところでしょ? 私の生まれ故郷なの」

 ひらひらと桜の花びらが舞い散る季節。外出するのにちょうど良い気温だ。桃色に染まった道を進めば、鹿たちが周りを取り囲む。驚いた友人がヒッと短く悲鳴をあげるけれど、この子達は人馴れしているからこちらから危害を加えない限りはほとんど襲ってこない。

「可愛いでしょう」
「そう? いくら大人しくてもこれだけ数いれば怖いわ」

 あをによし 奈良の都は古りぬれど もとほととぎす 鳴かずあらなくに。奈良の都は古めかしくなったけれど、なじみのほととぎすが鳴かないということはない。昔栄えたこの土地は、今は都が移ってしまったけれどその壮大さと神秘さになにも変わりはない。そんな土地に生まれて育った。宮仕えを辞めてこの土地に戻るか迷ったけれど、多くの歌人が過ごした嵐山に私も身を置くことにした。だから今回が最後の里帰りだ。

「あんたにめっちゃ懐いてるわねその子」
「ほんとだねぇ、良い子だ」

 よしよしとまだ子供らしい小さなその鹿の頭を撫でるとキィと元気な鳴き声を上げる。一緒に行こうか、と声をかけて歩き出した。行儀良く私の後をついてくるその姿に、友人は「人の言葉がわかるみたい!」とはしゃいでいた。

 結局最後まで絶えず私たちの後ろを歩いていたその鹿は、帰ろうとした私たちを引き止めるように着物の袖裾を咥えて離さない。

「あんた人間よりも鹿にモテるんじゃない?」
「ええ、でもそうかもしれない」
「否定しなって」

 すりすりと腰に纏わりつくこの子のふわふわの毛を整えるようにゆっくりと撫でると、気持ちがいいのか目を瞑りながら大人しくその行為を受け入れた。

「私がここに来るのはこれで最後かもしれないけど、いつかまた来れたら、その時また会おうね」
「もう来世は鹿にでもなれば? 前言ってたような恋が出来るんじゃない」

 「鹿もいいけど、出来ればまた人がいいなぁ」と腕を組みながら答えると、「また真面目に考え込んでるよ」と友人が揶揄うように笑った。クンクンと悲しそうに鼻を鳴らすその子に視線を合わせるようにしてしゃがみ込む。

「いつか私の運命の人があなたのところに来たら、あなたにはその人と私が出会えるように案内役でも頼もうかな」

 運命の人って、あんたほんと夢見すぎでしょ。と友人がおかしそうに笑うのに「夢くらい見させてよー」と笑い返しながら立ち上がる。よろしくねと声をかければ、先程の弱々しい鳴き声なんて忘れさせるかのようにキィと大きく鳴いた鹿に、「また会おうね」と手を振って、京を目指して歩き出した。


◆◆◆◆◆◆


 たまたま仲良くしている他の作家さんに呼ばれて奈良へと遊びに来ていた。何度かこの土地には来たことがあるけれど、何度訪れてもついため息が漏れてしまうほどにここは美しい。五月の新緑が瑞々しく視界を彩って、初夏の暖かな風が爽快感を運ぶ。

 待ち合わせまではまだ時間がある。早く来て一人ふらふらと散歩をしていると人の居ない広場に出た。緑に囲まれたそこはとても静かで、風の音ひとつしない。くしゃっと地面を踏みしめる自分の足音だけが周りに響く。こんなに緑が生い茂っているのに、風で擦れる葉音さえも耳に入ることはないなんて不思議だ。

 不気味というよりも神秘的だった。サァッと吹いた風に目を閉じる。初夏の涼しさ、というよりも、秋風の肌寒さを感じさせるような冷ややかな空気だった。

「何すんだよいきなり」

 ザッという大きな音と共に聞こえた声に勢いよくその方へと振り向いた。何も聞こえなかったのに、こんなに近くに人がいたなんて。振り向いたその先には一匹の鹿と、少しバランスを崩した一人の男性。キィキィと鳴く鹿が彼を押して、その人がゆっくりと顔を上げた。

 季節外れの紅葉が空を覆うように舞った。あの日、赤葦くんとバレーボールの試合を見に行った時に起こった現象とよく似ている。真っ赤に燃えながらはらはらと紅葉が舞い落ちて次第に姿を消していく。代わりに視界の中へと現れた彼を、私は一度見たことがあった。

「角名、倫太郎さん?」
「・・・・・・・・・」

 驚いたようにこちらを見るその人は依然として黙ったまま。近くで見ると思っていた以上に背が高いな。赤葦くんも相当大きいのに、きっとそれ以上だ。なんて、頭の中は呑気なことを考えているのに、心臓は壊れてしまったのかというほどの異常な動きを見せている。

「あっ、いきなりすみません。以前試合で見たことあって」
「・・・・・・あぁ、そうなんですか」

 突然話しかけてしまったことに対して恥ずかしさが込み上げてくる。私は彼のことを試合で知っているけれど、彼は私のことを知るはずがないのだ。赤葦くんとの面識はあるかもしれないけれど。

 テトテトと可愛らしい足音を鳴らして近づいてきた鹿が、羽織っていたカーディガンの裾をクイっと引っ張った。そのまま私を引きずるようにして歩き出したその子に、「えぇ?」と戸惑いながらも流されるようについていけば、未だに立ちすくんだままの彼の側でようやく口を離した。

「えっと・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・私の顔に何かついてますか?」

 これだけじっと見つめられると、流石の私も恥ずかしさが込み上げてきてどこかに隠れたくなった。鋭い視線が射抜くように突き刺さる。どうすればいいかわからなくて困り果てていると、「あの」と静かに口を開いた角名さんがゆっくりと言葉を紡いだ。

「どこかで会ったことありますか?」
「無いと思いますけど・・・」

 私が勝手に見たことがあるだけだ。そうですよねと納得のいかなそうな顔をしながら、すみませんと謝られる。角名さんが「じゃあ」とその場を去ろうとした時、いつの間にやら私の後ろへと回っていた鹿がドンっと勢いよく突いてきて、耐えきれず勢い良く前へと倒れ込んだ。

「っあぶな」

 咄嗟に角名さんが手を伸ばして、私の体を支える。

『興味がないわけじゃないよ、いつかしたいって思う』
『いつかなんて言ってたらすぐ乗り遅れるわよ。小町もそう言ってたじゃない』
『うん。だから、来世に期待かなぁ』

 暖かな風がふわりと袖を揺らした。太陽が少しずつ威力を増してきて、冬の間は寂しそうに凍えていた木々も今では立派すぎる程の緑をまとっている。その足元では可憐な菖蒲あやめが気持ち良さそうにそよ風に吹かれて、ほととぎすが奏でる綺麗な音色が燃えるような夏の到来を告げた。

『他に何も考えられなくて物事の分別もつかなくなっちゃうような全力の恋愛とかしてみたいなぁ』
『これまた意外なのが来たわね。あんたの事だからもっとのんびりした答えが返って来ると思ってたわ』
『どうせ恋をするなら激しい方が楽しそうじゃない?』

時鳥ほととぎす 鳴くや五月さつきの あやめ草 あやめも知らぬ 恋もするかな

 今度はぶわっと視界にあやめの花びらが舞った。なんだろうこれは。さっきの会話は何? 記憶にないのに記憶にある。これがなんなのかわからないけれど何故だか涙が出そうで、ツンとする鼻の痛みに耐えた。

 視線を上げると、酷く顔を歪めた角名さんと至近距離で目があって、硬く結ばれたその唇は血が出そうなほどに噛み締められている。

「・・・・・・苗字、なまえさん?」

 ポツリとこぼした彼の言葉は私の名前で、驚くと同時にスルッと素早く背中へと回された腕がきつく私の体を締め付ける。困惑で声も出なかった。突然のことに頭がついていかない。後頭部を支える大きな手はとても暖かくて、震える大きな体は全身で何かを訴えているようだった。初対面の、名前しか知らない人にいきなりこんなことをされているのに不思議と怖くはない。

「会いたかった」
「ええ?」
「ずっと、会いたかった・・・!」

 あの、角名さん?そう口を開こうと思った時、そっと腕の力を緩めた角名さんが少し湿った声を発した。

「・・・種しあれば 岩にも松は 生ひにけり 恋をし恋ひば 逢はざらめやも」
「えっ」

 その歌は、おばあちゃんの家で読んだあの歌集の中の一句だ。どうしてその歌を彼が知っているのか。どうしてこんなにも胸が熱くなるのか。わからないけれど心を打たれた。堪えきれずついに一筋の涙が零れた彼の頬に、自然と手を伸ばしていた。

「大丈夫、ですか」
「ごめんね、いきなりこんな」

 急に砕けた口調になった彼は涙を拭ってフッと口角を上げる。その笑顔が綺麗で見惚れてしまいそうになった。トクトクと心地の良い音色を放つ心臓の音が頭に響く。

「初めまして。知ってるかもしれないけど、俺は角名倫太郎」
「はぁ。はじめまして。苗字なまえ、です・・・?」
「ふふっ」
「えぇ? 何? なんですか?」
「ふはは」
「角名さん?」

 ケラケラと急に笑い始めた彼についていくことが出来ない。えぇ、ほんとに何なんだろ。良い人そうだし素敵な見た目をしているのに、さすがのこれはなんだか怖い。そう思いながら眉を顰めるとより一層大きく笑い出す。一体どうしたんですかと恐る恐る、少し引いたような怪しむ声を出せば、「思ってた以上だよ」なんてまたよくわからない言葉が返ってきた。

「思ってた以上?」
「うん。そんな人だったんだねあんた。思ってること全部顔に出る。わかりやすくていいよ。あと見た目も想像通りだ」

 でも思ってたよりも頭は弱そうだな。なんて失礼な言葉を添えながら、ペラペラと意味不明なことを話し続ける角名さんは、ここでようやく私が全然ついていけてないという事に気が付いたらしい。ごめんごめんとそっと腕を解いて、一歩距離を取った。真剣な瞳がこちらを向く。どこか気怠げで、涼しい瞳だと思っていたのに、こちらに向けられたその瞳の奥には静かに燃える青い炎が見えるようだった。

「今日はどうしてここに?」
「えっと、知り合いの作家さんに呼ばれてて」
「なるほどね」
「でももうすぐ待ち合わせの時間だから行かなきゃ」
「それは残念だな。もう少し一緒にいたかったんだけど」
「・・・・・・角名さんってそんな感じなんですか?」

 初対面でいきなり距離を詰めすぎじゃない? 戸惑う私に構わずグイグイくる彼は、どこか余裕そうな顔をしながらまたハハッと笑って、「今俺すげぇテンション高いの。わかるでしょ」なんてまたも馴れ馴れしく言ってくる。

「なまえさん」
「は、はい」
「ちゃんと頭ん中整理したらまた会いに行くから」
「え? あの・・・」
「いきなりこんなこと言われても困るだろうけど、俺はあんたのこと何がなんでも追いかけ続けるからね」
「ん、んん? どういうことですか? なんか怖い」
「ははっ」
「また笑った・・・」

 赤葦くんは角名さんがこんな感じの性格だなんて言ってなかったはずだけどな。なんて思いながら、「よくわかんないですけど、もしかして私の作品のファンだったりするんですか?」と一つの可能性を問いかけてみる。角名さんは数回瞬きを繰り返してポカンとした後に、「そうだよ」とまたお腹を抱えて笑って、苦しそうな声で告げた。

「ファンだよ、一番の。誰にも負けない自信ある」
「いちばん・・・」
「疑ってる?」
「いや、疑うとか疑わないとかでは・・・」
「俺はあんたの詠んだ歌に惹かれたんだ」
「ありがとうございます・・・?」
「千年前のあの日から、ずっと囚われてたんだよ俺は」
「ん? うん?」
「この話はまた今度ね。そろそろ時間じゃないの?」

 意味深な言葉を残した角名さんはスマホを取り出して時間を確認した。一緒になって覗き込むと、待ち合わせの時間まであと五分を切っていた。しかしここからその場所へと向かうには全力で走っても十分近くはかかる。

「うわわわ、遅刻だ! 遅刻!」
「あらら、やっちゃったね」
「すみません、ここで失礼します!」

 うん、またね。そう言って呑気に手を振った角名さんに、一応少しだけ私からも手を振り返した。待ち合わせの場所へと走りながら、先程のことを思い返す。

 角名さん。バレーボールの選手。赤葦くんの先輩のチームメイト。それしか情報はないのに。初対面であんなことをされているのに。本当にどうしてだろうか。心臓がバクバクどきどきと高鳴っているのは、きっと今こうして走っているからという理由ではない。この高揚感は。体がふっと軽いのは。心が叫びたがっているのは。こんなにも顔が熱くなるのは。

 彼の笑顔が、言葉が、温もりが、記憶の奥の奥まで刻み込まれて頭から離れない。


和歌
・五月来ぬ わすれな草もわが恋も 今しほのかに にほひづるらむ
・・・五月が訪れた。忘れな草がほのかに香りを漂わせるように、私の恋も今まさに、咲きほころぶように心に生まれてきたようだ。


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