吹く風の色の千種ちくさに見えつるはの木の葉の散ればなりけり




 角名倫太郎。名前も知らなかったはずの男の人。もちろんあの日まで顔も知らなかったし、会ったことすらない。なのに、赤葦くんに誘われてバレーボールの試合を見に行ったあの日からずっと気になっている。

「なまえがそんなこと言い出すの初めてじゃない?」
「そうだっけ?」
「男になんて興味ありませんって感じだったのに」
「えー、でも彼氏いたことあるよ?」
「それ大学時代に二ヶ月だけ付き合ったやつでしょ。しかも結局好きなのかよくわからないとか言ってたじゃない」
「えぇ・・・うん。良く覚えてるね」
「そりゃ小さい頃からその手の話が何もなかったあんたの事なんだから、しっかり覚えてるわよ。ちゃんと俺に興味なさそうだからごめんとか言われて振られてたことまでね」
「それは忘れてくれてもいいのに〜」

 艶のある黒髪を耳にかけながら、まだ湯気のたつ熱々のコーヒーに口をつけ呆れたようにこちらを見る。私とは違っていつだって恋に全力な彼女からすれば、私なんかの考え方は理解ができないのかもしれないけれど、ピンとこないのだ。今まで出会った誰もが。

「直感が大事〜とか言ってだらだらここまで来たんでしょ。乗り遅れるわよ。先輩も言ってたじゃない」
「うーん、そうなんだけどねぇ」
「枯れたらおしまいなの。花があるうちに行動しなきゃ」
「別に今のご時世そんなに急がなくったって・・・」

 早いに越したことはないかもしれないけれど、今の世の中年齢は関係ないじゃないか。そう言っても、「甘いよ! 良い人からどんどんとられていくんだからね!」なんて力説される。とられるだなんて、そんな言い方。

「赤葦は? あんたら仲良いじゃん」
「赤葦くんはそういうんじゃないよ」
「ええー、じゃあやっぱその角名? って人?」
「いやおかしいでしょ・・・会ったこともないのに・・・」

 少し前に他の友達がアイドルに本気で恋をしていたな。普通ならば手の届かない人や、一度も直接は会ったことのない人にも本気の恋はできるのだと驚くとともに、そういう愛し方もあるのだということを教えてもらった。愛しいというこの感情に間違いはないのだ。そして正解もない。対象が何だって、どこの誰だって、例え人ではなくたっていいんだ。

 ただ、今の私が彼に対して抱いている感情は決して恋ではないのだ。でも強く感じる、何か。それがどんなものかはわからないけれど、気になって仕方がない。私が彼を見ているのか、彼が私を見ているのかもわからない。絶対に彼は私のことを認識していないはずだ。あんな大きな会場の、たくさんいる観客の中でこちらを見ることはないし、見ていたとして覚えてなんかいやしないだろう。なのに彼の纏う空気が、私が強く望んでいる何かなのだという、ひどく曖昧で言葉にできない感情として襲いかかってくる。

 一体なんなんだろう。彼とは一度だって出会ったことがないはずなのだ。今も、昔も。

 私は彼を待っていた。だなんて、どうして。


◆◆◆◆◆◆


「おい、そんな急がんでもええやろ」
「何言ってんの、一秒でも惜しいって!」

 バタバタと急ぎ足で駆け抜けた。踏みしめた落ち葉がクシャッと音を立てる。風を切って進むと、絨毯のように敷き詰められた真っ赤な紅葉の葉がふわっと足元を舞った。

「いっつもだらけてばっかのくせに」
「それはそれ! これはこれ!」
「途中でバテても知らんからな」
「もうすぐそこじゃん! 大丈夫だって!」

 川の音が聞こえる。木々がザワザワと揺れて、枯葉が枝からはらはらと舞い落ちて、自然が奏でる綺麗な音色が鼓膜を刺激した。秋は寂しい季節だと、そう語る人が多いけれど、そんなことは決してない。

「これが渡月橋とげつきょう・・・」
「初めてか」
「うん、想像以上だ」

 真紅に染まった山並みをさらに色濃く染める夕陽。照らされた川まで紅く染め上げて、幻想的で絢爛な色彩に包まれている。

「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川たつたがわ から紅に 水くくるとは」
在原業平ありわらのなりひらか。まさにそれやな」
「こんなに綺麗な景色は初めてだよ」
「これは桂川やけどな」
「なんでそういうこと言うかな」

 目を瞑っても、焼き付いた情景は消えることなくしっかりと記憶に存在する。この景色を彼女も見たのだろうか。宮仕えを終えた彼女はこの土地に移り住んだと聞いた。この、ぐるっと一周どこを見渡しても絵画のように綺麗で繊細なこの場所に。ああ、だからか。綺麗で繊細。まるで彼女の詠んだ歌みたいだ。

「にしても、引っ越すなんて突然言い出した時は流石に驚いたわ」
「そう? 特に反応なかったじゃん」
「気狂ったんか思うのと同時に、ついにかとは思ったな」
「ははっ。俺は正気だよ、いつだってね」
「せやな、お前は冗談言わんしな」
「正気だけど、正気じゃいられないんだよ」
「・・・せやな」

 大耳さんのところを尋ねた春、あの日誓った決意は俺を大きく変えた。行動あるのみ。だなんて、少し前の俺に言ったら笑われるだろうか。周りを説得するのには根気がいった。ここに移り住むということは、つまり家を出るということ。もちろん家の者には反対され何度も衝突した。それでも頑なに折れない俺に根負けして、せめて秋までは待てといわれたが無事にこっちへと来ることが出来た。

 元の家からここに来ることは容易い。確かにすげぇ離れてるって訳では決してない。定期的に訪れれば、わざわざ移り住まなくてもいいんじゃないかといろんなやつらに言われたけれど、唯一この男は何も言わなかった。いつかそんなこと言い出すと思っとっただなんて言って笑って、当たり前のように受け入れたのだ。考えが読まれているような気がして、「こわすぎでしょ」と小さく呟くと、「なんと言われてもええよ」と言いながらまた柔らかく笑った。

「もう日が暮れるのも早いから、早よせんと真っ暗になるで」
「そりゃ大変だ」
「小倉山の方って言ったな」
「ここからすぐだよ、ほんとに小さいとこ」

 竹林の道を歩く。きっと晴れている昼間にここに来たらとても綺麗なんだろうな。いや、雨の上がった午後が一番美しいかもしれない。濡れた緑は鮮やかだ。雲が過ぎ去って太陽が顔を出し、陽に照らされた雨上がりが一番豊かな色を放つ。涼を感じるサワサワとした竹の葉の揺れる音を聞きながら、竹林を縫うように伸びる小径を進んだ。

「ここ抜ければ紅葉の名所続きやな」
「うん」

 会話通りに緑に囲まれた細道を抜けると、視界は一気に真っ赤へと塗り替えられた。ひらひらと踊るそれはとても優美だ。空気には色なんて無いはずなのに、まるで風自体が赤く染め上げられてしまっているかのようにさえ感じる。力強い赤に混じって黄色、さらに緑、茶、他にも様々な色が混ざり合って、奥行きのある壮大な世界を作り出していた。

 吹く風が様々な色に見えるのは、秋の木の葉が散っているからだ。そんな明るい歌を思わず詠んでしまいたくなるくらいに。

吹く風の 色の千種ちくさに 見えつるは 秋の木の葉の 散ればなりけり

 はらりゆらりと優雅に舞い降りてくる。手のひらのように独特な形をしたその葉を自分のそれで掴んだ。

「ずいぶん珍しいもん詠んだな」
「たまには楽しくいかなきゃね」
「お前からそんな言葉が出てくるなんてな」

 去年の今頃、俺のことを悲しそうな声で鳴く鹿みたいだなんて言った男が声を上げて嬉しそうに笑った。あんたも怖くて読めなくて無表情の人だと思ってたけど、思ってたよりも我が強くて面白くて、良く笑う人だってことに今になって気がついたよ。

「ここか」
「そう。ここが今日から俺の家。たまには遊びに来てもいいよ」
「お前と違って俺は忙しい言うとるやろ」
「こんなに頻繁に会ってるのに?」
「お前がいらん心配ばっかかけるからや」

 もう大丈夫だよ。と、そう言っても疑わしそうにほんまかなんて眉を寄せる。信頼ないなぁ。それがなんだか面白くてハハッと声をあげて笑った。珍しいなぁとこちらを見ながら目を見開く男にもう一度微笑みかける。

「すぐに行くから」
「どこに」
「えー、どこにしようかな。あぁそうだ、月とか?」

 かぐや姫的な? なんて笑えば、むっとしたような顔をしながら「何言うとんの」なんてさらに眉間の皺を深くした。

「本当に大丈夫だって。見てよ今日の俺、ずいぶん楽しそうでしょ」
「自分で言うな」

 まぁ、たしかに今日はいつもの倍喋るし声もでかいし、よう笑うな。なんて言いながら縁側に腰をかけた男の横に座って、薄らと存在を主張し始めた月を見上げた。

「いいね、生命力がみなぎるって感じ」
「随分アホみたいなこと言っとるな」
「思わずまた詠みたくなるよ」
「そら良えことや」
「でもやめとこうかな」
「どっちやねん。ま、これから毎年見れるもんな」

 そうだね。というより毎年見にくるつもりなの? なんてちょっとふざけて引いたように声をかければ、「こんな良え景色独り占めしようなんて、神さんからバチが当たるで」なんて軽く肩を小突かれた。たしかに、一人よりは例えあんただろうが誰かと一緒に見る方が良いかもしれないね。

 毎年見れるとは言うけれど、今日のこの光景は今この瞬間にしか見られない。彼女のいた二百年前のこの場所とは、似ているようできっと違う。全く同じなんて一つもないんだ。明日もまた少し変わるんだろう。千年も経てば、全く違う風景になってしまう可能性だってある。確かめる事はできないけれど、こんなに素敵な眺めなんだ。せめて面影くらいは残っていて欲しい。絶妙なバランスで季節も気持ちも日々移ろいでいく。けれど、変わってほしくない光景と気持ちが、今ここに存在している。

 視界を覆う紅が闇に呑まれるその前に、今日のこの景色を記憶に留めておきたい。

 ― 
戻る


- ナノ -