逢はむ日をその日と知らず常闇とこやみにいづれの日まであれひ居らむ




 風が、吹いた気がした。

 おかしい。こんなところでどうして。そう思ったけれど今確かに、暖かな空気が俺の頬を撫でた。会場の熱気に包まれた湿気ったものではなく、例えるならば春が夏に近づいて、これからの季節に対して心を弾ませているような、そんな熱を持った初夏の風。

 吹いてきた方向に視線を向ける。今までにも何回も試合をしたことがある通い慣れた会場の、いつもと変わらない観客席。試合直前でザワザワとしている様子も至っていつも通りだ。

「どうかした?」
「いや・・・」
「珍しいな会場見渡してるの。誰か来てんの?」
「特に誰も」

 いないはずだ。なのに、どうしてか心がザワザワとした。試合前だからという理由とはまた違う感情で心臓が騒いでいる。いけない、集中しろ。そう思ってまたもう一度コートへと目線を戻した時、目の前にひらりと紫色の花びらが落ちてきたような気がして思わず動きを止めた。

 花びらのつけ根の部分に、網目模様と黄色い斑がある。これは、あやめか? 花びらがふわふわと風に舞って足元に落ちた。それを拾い上げようと手を伸ばすと、指先に触れる前にそれは消えてしまった。なんだ、今の。今は冬だぞ。あやめの花が満開に咲くのは春の終わり、もうすぐ夏がやってくる頃のはずだ。

「角名さん、どうしたんすか?」
「何でもないよ。ごめん、集中する」

 試合が始まるまであと数分。不思議な現象の事はひとまず置いといて、目の前のことに集中しろ。そうは思っても僅かに香る独特な花の匂いが気になって仕方がない。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「久しぶりだな、赤葦」
「お疲れ様です鷲尾さん、試合良かったです」

 試合後のストレッチを念入りにする。雑念が頭から離れていかない。なのに俺の調子はすこぶる良かった。視界がクリアで、後ろから強い風に押されているような感じがして何をするにも体が軽かった。こんなにコンディションが良いこともなかなかない。

 ふわ。と、またあの独特な香りがした。どこだ。一体どこから。先ほどより強いそれの元を辿る。スッと吹いた風が髪の毛先を揺らした。

「・・・・・・」
「・・・・・・凄く見られてる気がする」
「どうした・・・角名、何かあったか」

 あれは梟谷の元セッターだ。たまに鷲尾さんに会いに来てる。無意識に睨みつけてしまっていたのか、少し硬い表情をした二人がこちらを見る。慌てて立ち上がって「すみません」と謝れば、ホッとしたような鷲尾さんが「角名のそういう顔は圧が強いから」と場を和ませるように笑ってくれた。

「で、俺に何か用ですか?」
「いや、そういうんじゃ・・・てか同い年だよね?」
「うん」
「・・・あのさ、ここに来る前にどっかであやめの匂いとか纏ってきた?」
「あやめ? は、解らないな。ごめん。というか俺、あやめがどんな匂いなのか知らないや」

 くんくんと自分の服を嗅いだ赤葦は、鷲尾さんにも俺から何か匂いしますか? と確認をしている。同じように鼻を近づけ確かめる鷲尾さんも特にわからないと首を傾げていた。

 あやめの、花の、独特な香り。赤葦に言われて気づく。俺だってそんな香りは知らない。あやめってあの紫の変な形してる花だよな・・・というのは何となくわかるけれど、匂いまではさすがにわからない。特に花に興味があるわけではないし。見た目を知っていたことがもはや奇跡だ。

 それでも目の前の赤葦から僅かに香るその香りが、確かにずっと俺の鼻腔をくすぐっている。ふわ、とまた風が吹いた気がした。しかしそれは目の前から吹いているわけではなく、別の方向から届いたものだった。

「・・・・・・」
「どうしたの、急にあっちの方見て」
「赤葦今日一人で来た?」
「いや、今日は知り合いの先輩と来たよ。急に用事ができて先に帰っちゃったんだけど」

 その同行者には会った事はないはずだけれど、どうしようもなく引っかかってしまった。それが表情へと滲み出ていたのか、「なに、気になるの」と少しだけおもしろそうにした赤葦が「苗字さんもそんなこと言ってたよ」と言葉を続ける。

「急にあの選手は誰だって名前聞いてきたよ。苗字さんに会ったことあるの?」
「ないけど」

 知らない名前だ。知らない、はず。なのに。

「その人の、本名は」
「・・・あんまり簡単に広めたくはないんだけど、苗字さんも珍しく興味持ってたっぽいから教えてあげる。苗字なまえさん。作家活動してる、歌人だよ」

 彼女の名前を耳に入れた途端に、ぶわっっっと紫の花びらが視界を覆った。急な突風で舞い上がったように個性的な紫が舞い踊る。ひらひらと揺れるそれに手を伸ばそうとしても体はうまく動かなくて、大量に視界に散らばるそれを一枚も手にすることは出来なかった。

 あやめが咲くには季節外れの冬。締め切られた会場のフロア内には吹くはずもない風。出処のわからないあやめの独特な香り。掴めない花びら、舞い上がる紫。耳鳴りがするみたいに耳の奥がキンっと痛かった。

「苗字、なまえ」
「大きい本屋にはきっと彼女の本も置いてあると思うよ」

 バクバクと心臓がうるさい。何だこれ。全身の血液が沸騰して、騒がしい心拍と共に身体中を駆け巡って発熱させているような。息が苦しい。激しい運動をしたあととも違う、不思議な感覚。

『種しあれば 岩にも松はひにけり 恋をし恋ひば 逢はざらめやも』

 なんだ、今の。俺の声だった。でもこんなことを言った覚えはない。和歌? わかんねぇ。たしかに学生時代は無駄に古典の点数はよかった。それでも別に得意教科だとか好きな教科だとかそんなんじゃなかったから、百人一首の中でも特に有名な出だしくらいしか覚えてないはずなのに。種さえあれば岩にさえも松は生える。恋しい気持ちを貫けば、いつか。逢えないなんてことがあるものか。意味だってしっかりわかった。一体どうして。

 頭の中にグァっと何かが押し寄せてくる。掻き回されるように思考がごちゃごちゃになって思わずしゃがみ込んだ。くらくらと目眩がするみたいに視界が揺れる。どうした角名!? と慌てた鷲尾さんと赤葦が背中をさするけれど、それに返事も出来なかった。

 苗字なまえ。その名前が頭から離れなくて、心の中で繰り返すたびに心臓が抉れそうになる。止まっていた時間が動き出したみたいだ。ドクドクと急激に暴れる心臓が苦しい。

「本当に大丈夫か!?
「平気、です」
「そうは見えないけど」
「大丈夫」

 痛い、苦しい、しんどい、辛い。そんな中で僅かに感じる、愛しさ。その感情の意味が理解できなくて胸の中がもやもやした。その人に会ったことなんてないはずなのに。本を読んだ覚えさえない。なのに、なんで。

 やっと、また。

 そう思った途端に涙が出そうだった。


和歌
逢はむ日を その日と知らず 常闇とこやみに いづれの日まで あれ恋ひ居らむ
・・・もう一度あなたに逢える日がいつの日とは知らないが、永遠に続く暗闇の中にあなたを見る日まで、わたしはあなたに恋をし続けていることだろう。


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