吹けば峯にわかるる白雲の行きめぐりてもあはむとぞ思ふ




「結局最後までお前にひっついとったな」
「俺のどこがそんなに良かったの?」

 スリスリと俺の腰あたりに顔を撫でつけるようにして、気持ちが良さそうに喉を鳴らす鹿に応えるように、わしゃわしゃと毛並みを撫でる。初瀬から帰ってきて、さすがに家の中にあげることは出来ないから軒先で別れを告げて離れたけれど、朝起きてみればこいつは一晩そこにいたままだったのか、昨夜別れた時と同じように佇んでいた。

「春日大社には夫婦大國社めおとだいこくしゃとかもあるし、良縁の神様の使いかもしれんで」
「・・・そうやってからかうのやめてくれない?」
「からかっとるつもりは毛頭ないんやけどな」
「ならもっとタチ悪いわ」

 二人ともー! と朝から元気な声を上げながらドタドタの駆けてくる男の方を向けば、ハイと水と握り飯を手渡される。悪いな、何から何までとの隣の男の言葉に「いえ! 俺も毎回お世話んなっとるし」と裏のない笑顔を見せるから、やっぱりこいつはお人好しだ。

「角名も、また会おうな」
「今度はそっちが京まで来てよ」
「せやな! でもまた奈良も散策しような!」
「えぇ、嫌だよもうここまで歩いて来るの。ちょっとの時間で楽に来れるようになったら検討するよ」

 それでも検討なんか! と笑った男に手を振って、京への帰り道へと足を踏み出した。俺たちの姿が見えなくなるまでずっと大きく手を振り続けている銀は、本当に最後まで良いやつだったな。

「お前も、そろそろこれ以上はついてきちゃダメだよ」
「さすがに神さんの使い連れ帰ったら大変やしな」

 そうは言っても全然離れようとはしてくれない。これまでは人間の言葉がわかるのだろうかというくらいに聞き分けが良かったし、タイミングよく鳴いたりして意思疎通みたいなことが出来ていたというのに。ずいぶんと懐かれたなとこの男もお手上げらしく、どうしようかと目線を合わせるようにして鹿の前に片膝を立ててしゃがんだ。

「お前も良いやつだね」

 長谷寺で急かされた時はすこしイラッとしたけれど、こんなにも人懐こくて、だけど静かで、しっかりした動物なんて他にいるのだろうか。少なくとも今まで出会ったことがない。これが最後だというように目一杯撫で回す。嬉しそうに楽しそうに絶えず鳴く姿に二人で笑って、最後に落ち着かせるようにポンと頭の上に手を置いた。

「また来るよ」

 ジッとこちらを見続けるつぶらな瞳は、相変わらず俺から視線を外すことはない。声をかけた途端にクンと喉を一度鳴らして大人しくなった。まるで俺の言葉を理解して返事をしたみたいに。わしわしともう一度だけ先程と同じように頭を撫でて、そのまま立ち上がる。背を向けてそのまま歩き出した。振り返りはしない。

 少し遠くまで歩いたところでそっと後ろを確認した。そこにはもう、あの鹿の姿はなかった。

◆◆◆◆◆◆


 あれはまだ俺が一年生やった秋のこと。土曜の部活中にガラッと扉が開いて、一人の中学生が顔を出した。噂によると来年入るっていう他県から引き抜かれてくるやつ。一度学校に見学に来たらしい。そいつが今日愛知からやって来ることは朝言われとったから、そんなに驚きはしなかったけれど、その姿を見た途端にドクンと心臓が跳ね上がるみたいに大きく波打って、全速力で走った後みたいに体がカッと熱くなって、息が詰まるように呼吸が浅くなった。

 あの時の変な感覚はまだ覚えとる。当然そいつの名前なんか知らんし、顔やってその時初めて見た。相手ももちろん俺の事なんか見も聞きもしたことないやろう。それでもなぜかあの気だるげな目と、高校生の先輩らに囲まれても物怖じしないあの態度を見とったら、思いっきり駆け寄りたい気分になって、必死で自分をとめた。そんなキャラやないし、いきなり初対面の来年から後輩になるっちゅうやつにそんなことしてみろ、怪しい先輩認定されるか、入学辞退されてまう。

「部活のことで何か質問あったら、俺かあっちに居る北に聞け」

 監督がこっちを指さして俺の事を紹介した。えっと、来年からお世話になります。角名倫太郎です、と特に表情も声色も変えずにありきたりな挨拶をした男に、自分の名前を告げて同じような簡単な挨拶をするので精一杯やった。

 紅葉が赤く染まる季節。暑い夏はとっくに過ぎ去って、本格的な冬がやってくる前。肌寒いその季節にこいつは現れた。頭の中のどこか遠くで、懐かしい声が聞こえたような気がした。

『俺はね、あんたにももう一回会いたいって思ってるんだ』

 少しだけ、頭が痛んだ。いつの記憶なのか夢なのか、その言葉が誰のものなのかもわからん。その顔は塗りつぶされたように黒くなって見えん。ぼんやりと浮かぶシルエットの後ろには綺麗な紅葉が舞っていて、俺は「そんな最期の言葉みたいな事言うなや」と弱々しく声をかけた。それは確かに俺の声やった。でも知らん。わからん。

「・・・北、先輩?」

 黙り込む俺のことを、怪しいもんを見るように眉間にしわを寄せて見つめたその瞳が、どこか懐かしかった。体育館に紅葉なんぞは舞っとらんのに、ブワッと視界いっぱいに真っ赤なそれが散らばった。ヒラヒラと舞い落ちるそれらは、掴めそうでうまく掴めない。あの男みたいに。不思議そうな顔で俺を見続ける角名と名乗ったこいつに、俺はどっかで会ったことがある。そんな阿呆みたいなことを考えてしまった。

 やっとまた会えた。なんて、そんなことを。

「懐かしいなぁ」
「何がです?」
「お前に初めて会った時のこと」
「・・・まだ俺が中学の時の? よく覚えてますねそんなの」

 胸元に付けた花が小さく揺れる。他の奴らはきっとまだ教室やら校庭やらで写真を撮ったり、騒いだりしとるんやろう。そのせいか俺以外の同学年の奴らはまだここには来とらん。こいつはきっと周りの騒ぎには乗らずに逃げてきたとかで、今この部室には俺とこいつの二人きり。

「もう悩んでないか?」
「まぁ、完全にスッキリはしてないですけど」
「溜め込みすぎるとお前は変な方向き始めるからな、何かあったらすぐ周りに頼るなりせぇよ。俺もいつでも話聞くし」
「・・・ずっと思ってたんですけど、北さんはなんで俺にそんなに構うんですか」
「そう見えるか?」
「双子とかならわかるけど、あんなに手かかるつもりないし」

 真剣な表情でそう言うこいつに、思わず吹き出して腹を抱えて笑った。北さんが、爆笑・・・? と、驚いたように角名は固まりながらこっちを見続けていて、頭の周りにははてなマークがたくさん飛んでるように見えた。

「確かにあの双子はとんでもなく手かかる奴らやな。せやけどお前も相当やぞ」
「えっ」

 銀は銀でしっかりはしとるけど、正義感が強すぎて押し潰されんかたまに心配になる。双子は言わずもがな。せやけどあいつらは、自分の本心を隠そうとはせんからわかりやすくて良え。それが結構な確率でいざこざの元になるっちゅう面倒なところもあるけどな。

 角名は、一番手がかからなさそうでいて一番見とかないといかん。何かに躓いても、思うことがあっても、調子悪くても、誰にも何も言わないぶん、目を離したら知らぬ間に深い所まで陥っとることがある。ある意味一番面倒で厄介なタイプや。本人に自覚がないらしいのがまた。俺の後輩は一人残らず放っておけん。

「角名」

 手を伸ばして、ポンと撫でるようにその頭に手を置いた。ビックリしたような顔が俺を見下ろす。デカい後輩や。なのにこんなにも世話が焼ける。

「卒業しても何かあったらすぐ頼ってきてええからな」

 蚊の鳴くような、下手したら聞き逃してしまうかもしれんくらいの小さな声で「はい」と呟いたこいつは、昔よりかは幾分か素直になっとるのかもしれんな。

 ― 
戻る


- ナノ -