夕づく夜小倉の山に鳴く鹿ののうちにや秋は暮るらん




 ゆっくりと目を開けた。視界はゆらゆらと揺れてうまく焦点が定まらない。どこだここは。今何時だろう。ぼんやりとした頭が重い。気怠い体を起こす力も入らなくて、そのままもう一度目を瞑った。

「起きたか」
「・・・わっ! びっくりしたー」
「そんなバケモンみたいな扱いすんな、ずっと居ったで」
「また暇してるんですか」
「阿保か、お前がおかしくなったって聞いたから駆けつけたんやろ。急いで飛んで来てみたらお前倒れて。みんな慌てとったのによく見たらただ眠りこけてるだけやし。全くお騒がせにも程がある」
「俺の知らないうちにそんなことになってたんだ」
「全部お前のことやで、ちゃんとしろ」

 とりあえず腹減っとるやろ、食べるか?と差し出された握り飯を視界に入れた途端に大きく腹が鳴った。なんだか急に腹減ってきた。背中とお腹がくっつきそうってこういうことかと納得できるくらいに。

「お前はどこまで覚えとる?」
「何をです」
「何でもええから、話してみ」

 何でもって、何だよ。もしゃもしゃと握り飯を頬張りながら横を向くと、「ほんまに何も覚えとらんのか」と呆れたような顔をされる。ごくんと勢いよく米を飲み込んだ。何かこの感覚久しぶりな気がするな。久しぶり? ってなんだ。飯は毎日食うものだろ。

「三日三晩食べない寝ないで、狂ったように作業しとったらしいで」
「え、強。全然記憶ないや」
「そんで死んだように倒れて、一日中寝とった」
「充電が切れたんだね」

 あのなぁ、他人事ちゃうねんぞ。前々から不摂生な生活しとんなとは思っとったけど、ほんまに体壊しても知らんからな。と低い声を出したこの人は本気で怒っている様子だ。いつもの圧の強い感じとはまた違う。綺麗な人に睨まれると怖いな。鋭い視線がグサグサと刺さる。記憶も曖昧になるほどに限界までやってたなんて、俺自身も信じらんないんだからちょっとは加減してよ。

「・・・・・・で、これが倒れながらも抱えて離さんかったやつ」

 綺麗にまとめられた紙の束を受け取った。そういえば薄らと記憶にある最後のこの部屋の状態は、とても悲惨なものだったはずだけどどうしたんだろう。部屋の奥に少し視線をずらすと、「地獄みたいに汚かったで、感謝し」とまた鬼のような顔を向けられてしまった。片付けてくれたのか。それは素直に有難い。

 受け取った紙束をはらはらと捲る。さまざまな歌がそこにはあった。その全ての作者が同じ。その事に気がついているのか、また絶妙な歌人選んだなぁと困ったように笑われてしまった。

「この人のこと知ってるの」

 誰、どこの人、どんな人なの、ここにある以外の歌はないの。急にグイグイと詰め寄る俺の肩を持って、「落ち着け」と取り鎮める。男は一息ついた後、言葉を選ぶようにしてゆっくりと口を開いた。

「お前、随分この人に惹かれとんなぁ」
「人っていうか、この人の歌にだけど」
「恋でもしたか」
「和歌に? さすがにそれは馬鹿じゃないですか?」
「まぁ、せやな。和歌でも人でも不毛やしな」
「・・・どういうこと?」

 この歌詠んだやつ、とっくの昔に死んどるわ。

 耳からゆっくりと体内に侵入してきたその言葉は、ぐるぐると全身を駆け巡りながら、身体中を攻撃してきた。そうか。そうだよな。実際にここにある歌を詠んだ人達のほとんどが故人だ。俺だって別に生きていることを望んでいた訳では無い。ただこんな歌を詠んだ人がどういう人なのかが少し知りたかっただけだ。それなのに、チクチクとした鈍い痛みが全身を襲っている。

 目の前が真っ暗になるとは少し違う。明度が少し下がった感じ。この歌を目に入れた瞬間に鮮やかになった視界が途端に元に戻った。いや、もしかしたらそれまでよりも薄暗くなったような気もする。なんとも言えないその感覚が気持ち悪かった。

「亡くなったって、いつ」
「二百年くらい前やないか」
「・・・そんなに前なの」
宮仕みやづかえしとった 女房にょぼうの一人らしいで。特に詳しいことは知らんし、当時の記録もほとんどなくてな。辞めた後のことなんかはさっぱりや」

 いろんな文献やら記録やらを読み漁って情報収集を主にしているこの人がこう言うんだ。本当にわからないんだろう。めちゃくちゃ有名な人と恋仲になったとか、すげぇ秀でた何かがあって、宮中の噂になったとかがない限り、記録なんてほぼ残らない。

「定かかはわからんけど、生まれは大和で、辞めた後はそっちには帰らんで嵯峨野の方に行ったらしいで。知っとるのはそれだけやな」
「パッとそこまでの情報が出てくるのがすごいや」
「舐めてもらっちゃ困るな」

 大和・・・奈良か。嵯峨野は京の紅葉の名所だ。嵐山や小倉山は今頃もみじが見頃だろう。面倒くさがりの俺は遠出をするのも躊躇ってしまうから、どっちにも行ったことはないんだけど。長いこと歩くのも面倒だし、牛車もあんまり好きじゃないんだよな。いつか訪れてみたいとはずっと思ってた。思い立ったらすぐにその場所に行けるような、そんな便利な乗り物が出来れば良いのに。

「夕づく夜 小倉の山に 鳴く鹿の 声のうちにや 秋は暮るらん」
「紀貫之か」
「そう」
「また寂しそうな歌選んだな」

 夕月夜、暗い小倉山で鹿が寂しそうに鳴いている。あの声と共に秋は暮れていくのだろうか。物悲しい今の季節と、今の俺にはぴったりじゃないですか、なんて少しだけ自虐気味に笑えば、「俺はそんな事言うお前の声を聞いとるこの秋が寂しい」なんて返されてしまった。

「ほら、あったやろ。猿丸太夫の」
「奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の?」
「それやそれ。声聞く時ぞ、秋は悲しき」
「・・・・・・それって俺が鹿って事? 嫌なんだけど」

 ははは、とお互いに笑う。それでもこのモヤモヤは晴れない。そっと伏せられたその目はそんな俺の気持ちも全部見透かしてるんだろう。まったく怖い人だ。隠し事なんてできやしない。

「女房ってことはこの名前も本名じゃないってことか」
「その可能性の方が高いな」

 まぁそんなんだろうとは思った。紫式部や清少納言みたいな有名人でさえ、実際の本名はわからない。今現在残っているのは宮中で呼ばれていた名前、いわゆるあだ名みたいなものだ。なんだ、まじで何もわかんねぇじゃん。唯一残されたのは、このいくつかの和歌だけってことか。

 ・・・いや、本来ならそれで良いはずだ。その歌を詠んだ本人の詳細はわからないのに歌だけが残る。家柄も身分も関係なく、周りからの媚びも気遣いもなく、優秀な歌のみが純粋に評価されて、読み継がれ残っていく。それは歌人にとってこの上ない名誉ではないのか。

「時間とか飛び越えて会いに行けたら良いのに」
「ずいぶん執着しとるやん、珍し」
「その人にってわけじゃないよ。ただこの歌をどういう状況で詠んだのか興味あるだけ」
「それを想像するのが和歌の楽しみ方の一つやないんか」
「・・・・・・・・・確かに、そうだね」

 ゴロンとまた寝転がった。ガンガンと痛む頭が辛い。灰色がかった視界に何も映したくなくて、目を瞑って腕で塞いだ。そんなに乱されとるお前見るのも初めてやな、と静かに笑う声だけが聞こえる。疲れてるだけだよと出した声は、自分でもびっくりするくらいに弱々しかった。

 ほととぎすの鳴き声なんて、この季節じゃ聞こえはしない。


用語
宮仕みやづかえ・・・宮廷で働くこと。
女房にょぼう・・・中宮、皇后に仕えていた女性。主に中級貴族出身で一定の教養があるとされる。


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