ほととぎす鳴くや五月さつきのあやめ草あやめも知らぬもするかな




 何十、何百、あるいはもっと。膨大な数の句を一気に読んだから頭がガンガンする。締切も言い渡されてないし、もっとゆっくり事を進めても良いんじゃないかとも思う。しかしこんな面倒くさがりの性格のくせに、意外にも拘りが強い俺は、一度やり始めたらやり切るところまでやってしまうという、これまた面倒な性質を同時に持ち合わせていた。

「さすがに少しくらい縛りが欲しかったな」

 例えば季節の歌のみだとか、恋の歌のみだとか。あったらあったで文句は言うだろうけど、無いなら無いで莫大すぎて追い切れない。勝手に絞ればいいじゃんという考えと、せっかくのこんな好条件に自分で縛りを与えていいのか、という考えがせめぎ合う。良いなと思う歌は確かにたくさんあるが、これだと確信出来るようなものにはまだ出会えてなかった。良い歌だけどきっと他の人の目にも止まるだろう、そういうもので溢れている。

 俺が、自ら選んで編纂した。そういうものを作りたいなんて。やっぱりそこまで歌に執着がないなんて嘘じゃないかと自分でも少し呆れてしまうな。この時間が楽しい。だからこそ少し虚しい。

 その瞬間ビュッといきなり突風が吹いた。本当に突然の出来事だった。傍に置いてあったたくさんの紙が舞う。嘘だろ、ここまで仕分けたんだぞ。この前みたいになるのはもう勘弁だからって、今日は作業と同時に整理しつつ進めていたのに。たったの一瞬でバラバラに散っていく和紙たちを絶望の眼差しで眺めた。今日は天気が良くて無風に近かったじゃないか。それなのに何で。意味がわからない。カタカタと屋敷が揺れて、屋根がギシギシと飛んで行ってしまいそうな音を立てる。

 桜吹雪のように舞い上がった無数の歌たちが、ひらひらと左右に揺れながらゆっくりと落ちた。紅葉の絨毯のように綺麗に床を埋めたそれらに頭を抱える。疾風は本当にたった一度だけ吹いて、その後は嘘のようにぱたりと止んでしまった。

「・・・・・・ふざけんなっ」

 ダンッと自分の膝を拳で殴った。この惨状を映したくなくて目をつぶって上を向いた。やってらんねぇ。苛々するとかそう言うレベルじゃない。俺が神かなんかだったら、怒りでこの辺り一体の地形変えてた。そのくらいに憤怒している。

 あーっと全身の力が抜けるような声を出しながら、両手を広げてそのまま後ろに寝転がった。クシャッと背中の下で紙が折れる音がするが無視だ。最悪。人生で一番、いやそれは言い過ぎか。たぶん四番目くらいに最悪だ。

 ゆっくりと目を開けると、ぼやけた視界がはらはらと揺れる何かをとらえた。あっ、と思った時にはそれはもう直ぐ近くまでやって来ていて、そのままふわっと視界を覆う。目の前が真っ暗になった。天井のどこかにでも引っかかってしまっていたのだろうか。一枚だけ遅れて落ちてきたそれを手で摘んだ。少しボロボロになった和紙には、薄く細い字が書いてある。ぼんやりとしたままの頭で歌に目を通した。

 季節外れのほととぎすが、遠くで小さく鳴いた気がした。
 

時鳥ほととぎす 鳴くや五月さつきの あやめ草 あやめも知らぬ 恋もするかな


 ふわっと身体が浮いた気がした。真下から勢いよく風が吹いて心が持ち上がるように。ぼやけていたはずの視界がクリアになって鮮やかに彩られる。物悲しい秋の枯れ葉が散り果てて、初夏を思わせる青々とした緑が頭の中に溢れかえった。

 ほととぎすが鳴く初夏に菖蒲あやめ草は咲く。そのあやめではないけれど、物事の文目あやめを見失うぐらいの恋をしている。

 綺麗だ。とても。彩のある明るい情景が目に浮かぶ。広がる景色は繊細なのに勢いがある。力強く豪快。恋愛の初期に相手を思うあまり、気持ちが昂って物事の分別さえわからなくなってしまう。そんな激しい心情を詠んだ歌。

 騒ぎ立てる心臓が痛い。全身の血液が沸騰してるみたいだ。上手く息が出来ているのか否かでさえも判断がつかなかった。目の前がチカチカする。思考回路が全部持っていかれたみたいに何も考えられなかった。グッと左手で胸を押さえた。気を抜いたらバクバクと勢いを増した心臓が今にも口から飛び出してきそうだ。

 ・・・・・・・・・これだ。

 明確な理由なんて何も無いけれど、単純にそう思った。一目惚れという言葉がわかりやすいかもしれない。この歌だ。俺が探していたのは。こんな風に感情を揺さぶってくるような、そんな歌を探していた。弾みをつけて勢いよく飛び起きる。周りの紙がグシャッと大きな音を立てたが気にもしなかった。

 こんな歌があるのか。一体誰が詠んだんだ。いつ、どこで、どんな状況で、何に、誰に対して。わからない。何度も何度も先程の歌を繰り返した。心の中で、口に出して。何度も何度も。なんでこんな気持ちになっているのか。そんなことは今はどうでもいい。全部後で考えればいい。

 夢中になってその歌人の他の歌を探した。まるで何かに取り憑かれたかのように一心不乱に。これじゃない、これでもないと焦る手が止まらなかった。色んな奴がそろそろ休んだ方がいいんじゃないかと声をかけてきたけれど、何を持ってきても言ってきても聞き入れなかった。うるさい。耳障りだ。残念だけど今はこの事以外に目を向けてる時間も余裕もない。このタイミングを逃せない。

 自分の事にもここにいる他人にもまるで興味がなかった。目の前のこの歌のことしか考えられなかった。夜が明けて、太陽が昇って、また陽が沈んで、月が顔を出す。それを何回か繰り返した。その回数すらもう覚えていない。

 その歌に詠まれたように、まるで物事の分別もつかなくなってしまったようだった。

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