奥山に紅葉踏みわけく鹿の声きく時ぞ秋は悲しき




「鹿やー!!
「なぁなぁ早く鹿煎餅買いに行こ」
「小学生かお前ら、少し落ち着け」

 一時間ちょっと電車に揺られ辿り着いた奈良駅。京都ほどではないが、紅葉の季節というのもあってそこそこの人がいる。賑わっている商店街を抜けて、様々な神社仏閣を横目に突き進んで行けば、ちらほらと鹿の姿も確認できた。まだ奈良公園の敷地にも入っていないのにこんなにいるんだ。すごいな。自由に道路を横断する鹿のために、青信号のはずの車が自主的に止まっている。人よりも鹿が優先されているようなこの光景は何だか面白い。

「角名はここに来るのは初めてか?」
「そうだね。京都にしか行ったことないや」
「そうか、なら楽しもうなぁ」

 こいつらには申し訳ないけど、男四人の遠出に心躍るような性格でもないし、昨日はあんなに嫌々だった。神社にも寺にも鹿にも紅葉にも特に興味はない。けれど、まだ着いたばかりなのに既に充分に楽しそうな表情を浮かべる銀を見ていたら、珍しく釣られて笑ってしまった。

 奈良公園に足を踏み入れた途端、先程から見かけていたよりも圧倒的に数が多くなった鹿の集団を目の前にして思わず声が漏れた。ギャーギャーとうるさく騒ぐ双子と銀を馬鹿にしながら、スマホのカメラで記録していく。侑と治が鹿煎餅を買うと同時に、大量の鹿が突撃してくるみたいに一気に駆け寄ってきて、逃げる隙間もないくらいに周りを囲まれたのには、さすがに俺も含めて全員でビビった。

 若干脅えつつ鹿に煎餅をあげる侑を笑いながら動画に収めて、隙あらば鹿煎餅を試しに食おうとする治を銀が止める。凄い勢いで群がってきたくせに、手持ちの煎餅がなくなったとわかった瞬間、興味を失ったかのように鹿たちは俺らから離れていった。なんやアイツら、可愛げないな! と頬をふくらませながら双子が怒る。何言ってんだと呆れながらチラッと視線を外した途端に目に入った光景に、ハッと動きを止めた。

 少し遠くで鹿が鳴いている。寂しそうに、とても小さな声で。集団から離れて一匹でさくさくと落ち葉を掻き分けながら歩いている。そこだけが孤立した空間のようにも思えた。ただそれを見つめた。面白くもなんともないのに。

「角名? どうした?」
「・・・・・・え?」
「ずっとあっちの方見て何かあるんか?」
「いや、特になにも」

 そうか、じゃあ行くか。と歩みを再開した三人の後ろをついて歩く。振り返った視線の先には、もうあの鹿はいなかった。

 おかしな話だ。あんなに距離があるのに、近くで鳴いてるみたいに聞こえた。踏まれて掠れた落ち葉の音も。寂しげなその音色が頭の中に響いた。そういえばこんな感じのことを綴っていた句があったな、なんて少し前の授業の内容を思い出してみる。確かテストにも出ていたはずだ。有名な句だから。
 

奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき


 もう一度そっと振り返った。先程の場所にはもう何もいない。風に吹かれた落ち葉が、ただ舞い上がっているのみだった。


◆◆◆◆◆◆


「全っっっっ然、進まねぇ」

 バタンと床に勢いよく倒れ込んだ。眉間を摘んでギュッと押す。疲れた視界が少しだけスッキリした気がしたが、たぶん気のせいだ。部屋中に散らばる歌を仕分けながら、全然進まない選定作業にため息をついた。

「なんですかこの有様は・・・」
「動かさないでね絶対、触ったらまじで怒る」
「随分苦戦しておりますね」
「数が多すぎだろ」

 差し出されたお茶をありがたく受けとって、体を起こしてズズっと流し込んだ。熱いそれが喉を通って全身を温めていく。このまま寝てぇ。でも寝返りでも打ってせっかく仕分けしたこれがバラバラになるのは絶対に避けたい。

 だりぃ〜と心の底から面倒くさいとでも言うような低い声で唸ると、「手伝いましょうか」とさすがにこの散らかり具合に同情したのか自ら申し出てきた。まじ? ラッキー。だるい態度はやっぱり隠しておくもんじゃないな、と脳内を覗かれたらキレられるだろうことを考えるが、もちろん表には絶対に出さない。

 起き上がって、よしやるか。という態度だけはちゃんと見せて、片付け関係はほとんどやってもらおうと企んでいた時、庭の奥から聞きなれた声がした。ゲッ。なんでまたこのタイミングで。

「やっとるか」
「やってたんですけど、今ちょうどやる気が薄れました」
「・・・とんでもなく散らかっとるな」

 あら、いらしたんですね、では私は少し席を外しましょう。と去ってしまった後ろ姿に、手伝うって言ったのはお前じゃんと視線を飛ばす。が、全く気づかれることなく消えていった。まじかー。恨むねこれは。俺一人で片付けんの?

「これは何を基準に分けとるん?」
「んー、有名な歌や有名な作者のは全部外そうと思って」
「なんでや」
「だってそれはいずれ他の人もまとめるでしょ? 読む機会もいくらでもあるし。埋もれちゃいそうな所から掘り出してきた方が面白いじゃないですか。在り来りなのはつまんないじゃん」
「ひねくれた理由やな」
「性格がひねくれてるので」

 今のは自分で言うたんやぞ、と怪訝な目を向けられるが、その視線には気付かないふりをして目の前の句を目で追った。こっちにあるのはもう要らんやつか? との質問に、そうですね、そっちはもう使いません。とぶっきらぼうに答えると、「そうか」と言ってそれらを手際よくまとめていく。え、なに、あんたが片付けてくれるの。

 驚いてその姿を見ていれば、「手止まっとるで、やらんのならお前がこっちやるか?」と忙しなく動く手は止めずに話しかけてきた。怖。目たくさんあんのかよ。と馬鹿なことを考えながら中断していた作業を再開する。全てを終えた頃にはもう日も落ちて、辺りは真っ暗になっていた。

「疲れた。もう無理。動けない」
「お疲れさん、ようやったな」
「もっと褒めて欲しい」
「これ今は歌人で仕分けただけやろ? この次は内容で振り分けるん?」
「何で次の話に移っちゃうのかな、もう良いでしょ今は」

 勘弁してくれと音を上げると、さすがに今日ばかりは俺の気持ちを汲んだのか、「せやな」と素直に話をやめた。ふぅと一息ついて二人して空を見上げる。夜空には、掴めるのではないかと錯覚してしまいそうなくらいに大きな満月が光り輝いていた。

「竹取物語にでも出てきそうな月やな」
「あの話も勝手だよね、急に月に帰っちゃうなんてさ」
「またそうやってひねくれた感想しか言わん」
「残された身からすればたまったもんじゃないよきっと。まぁ、俺にはそんな経験ないからわかんないけど」

 ははっと珍しく笑う声が聞こえてきて、思わず横を向いた。ニヤリという企みの含んだ怪しい笑みではなく、少し上を向きながら楽しそうに目を細めている。こんな風に笑うこの男の姿は初めて見たかもしれない。

 この人、こんなに綺麗に笑うんだ。思わず言葉を失った。月明かりに照らされて銀色がかった髪の毛が煌めく。それが風に吹かれて揺れる度に蛍のようにちかちかと輝いた。眩い光に包まれたその姿を見ていると胸がつかえる。どこかに消えていってしまいそうな、どこか儚い雰囲気がある。

 綺麗なものほどすぐに壊れてしまいそうで、不器用な俺にはそれに触れるのはおろか、近くにいる事さえ怖く感じた。

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