来ぬ人を帆の浦の夕凪に焼くや藻塩の身もこがれつつ




「ぐああああ! ダメや、全然あかん!」
「うるさいな、少しは静かにしとけや阿呆ツム」
「そういうお前はどうやったん!?
「赤点はたぶん免れられるはずや」
「基準が赤点やのにドヤれるのが不思議なんやけど」
「ほんとにね」

 数日間に渡って行われた期末試験が全て終わった午後のこと。何日かぶりの部活だと盛り上がる銀たちのテンションにはついていけない。バレーが出来るのは嬉しいけれど、俺にはあの元気は出せない。侑はテストの最後の教科だった古典が全然解らなかったらしくずっと喚いている。いつまでも続くその嘆きを聞いているのも、そろそろ煩わしくなってきた。

「何でなん・・・みんなアレまじで解けとんの?」
「古文なんてほとんど暗記じゃん」
「ありをりはべりいまそかり、やで」
「なんやっけそれ」
「嘘でしょ治、ラ行変格活用もわからずにドヤってたの?」

 流石にこれわからないと点数相当ヤバいんじゃないと言えば、まじか、と落ち込み始める。馬鹿でしょ。基礎中の基礎の存在もわからないようなやつには赤点回避すらも危うすぎる。俺だって殆どの科目が平均そこそこ。苦手な教科は平均ちょい下。特別悪くもないけど特別良くもない。けれど、さすがにこれくらいならわかる。

 でもなぜか古文だけは、昔からほかの科目よりも少しだけ良い成績が取れた。決して得意科目という訳でも、好きな教科だという訳でもないんだけど。むしろ同じ日本人が書いたもののくせに、なんでこんな解読しなきゃわからないような文章作ってんだよ、なんてイラつくレベルだ。あなやとか響きがアホっぽいし、途中途中で出てくる和歌とかも遠回しすぎてよく分からない。だけどなぜか成績は良かった。

「赤点だったら危ういって北さんも言ってたじゃん」
「それが問題なんやって! なぁ、頼む、なぁ〜」
「知らねぇよ。頭下げるのは勝手にやりなよ双子で」
「俺はまだ赤点と決まったわけではないやろ!」
「残念やけど高確率で赤点やと思うで・・・今から土下座のイメトレしとき」

 悔しそうに地団駄を踏み嘆く双子を置いて部室のドアを開けた。もう既に着替えを始めている先輩たちに挨拶をして、いつも通り俺たちも部活の準備を始める。

「どうした?」
「・・・・・・・・・何がですか」
「元気ないなと思って。双子みたいに赤点で落ち込んどるとかやないんやろ」
「はぁ、まぁ。落ち込んでるように見えます?」
「落ち込んどるというか、えらいぼーっとしとった」
「あー、テスト勉強で睡眠時間削ったからですかね」
「しっかりせぇや」

 それだけ言うとスタスタと体育館へと向かって行ってしまう主将の背中に目を向けた。俺のテンションが低いのなんて今に始まったことじゃねぇのに。憂鬱なテストも終わって、バレーも出来る。なのに心が晴れなかった。何故だろうか、問題の最後に出てきた百人一首の一つの句が、頭から離れない。
 

来ぬ人を 松帆まつほの浦の 夕凪に 焼くや藻塩もしおの 身もこがれつつ


 藤原定家の、いくら待っても来てはくれない人を待ち続けて恋い焦がれているやつだ。テストのために身につけた知識だからそれ以上は知らねぇ。なのになぜかこの歌がずっと心に残っている。モヤモヤしているわけでもなく、ただストンと落ちてきてそこに定着してしまったように。

 ジリジリと太陽が肌を刺激する。まだ夏が始まったばかりの七月。それなのに、体育館までのたった数分外を歩くだけでも焼かれるように痛い。いつの間に日光はこんなに強くなったんだろう。昔は暑いといえどもこんな風に刺すように痛いほどの威力ではなかったはずだ。そこまで考えてフッと思考を引き戻した。

 昔、って、一体いつの話だ。

 俺が小さい頃も、たしかにここまで日光は強くなかった気がしなくもない。けど当時はそんな事を考えることなんか無かったしな。昔と言うほど前の事でもないし、たったの十年程で変わるわけもない。

「角名。暑いやろ、そんなところにいて」

 もう少しで体育館へと到着するというのに、立ち止まりぼーっと突っ立っていた俺を不思議に思ったのか、扉からヒョコっと顔を出した北さんに名前を呼ばれる。ジッとこちらを見る目は今日も圧が強い。何をしても見透かされているみたいに思うから、少しこの目が苦手だったりする。

「お前は昔から暑いの苦手なんやから、早よ入り」

 その言葉に導かれるままに体育館へと足を踏み入れた。心の奥に沈む何かはより一層深さを増した。「運動する前でもこの暑さじゃ倒れてもおかしくないからな。水分はしっかりとっとけ」という北さんの言葉に頷いて、早々に喉に水を流した。

 もやもやと靄のかかる体の内側を洗い流すように。


◆◆◆◆◆◆◆


「ホンマにだらしのないやつやな」
「再会早々に言う言葉がそれって酷くないですか」

 早よ起きろ、だなんていつも通り表情の無い顔をしながら手を伸ばされる。その手を掴んでグッと力を込めて起き上がると、パサっと頭の上から何かが降ってきた。

「何ですかこれ」
「口で言うよりまとめてあるそれ読んだ方が早いやろ」
「説明放棄じゃん」
「良えから早よ読めや」

 少しだけ崩れた独特の字は、ここにいる男のものではなかった。一体誰からのだと思いながら、隣に腰掛けたその顔の方を見ると、「読んだか」なんて急かすように確認される。「読みましたけど」と少し納得していない返事をすると「なんやその顔は。良え話やろ」と力の強い大きな双眼が少しだけ細められた。

「確かに良い話ですね。俺の好きなように編纂へんさんして良い歌集ですか」
「お前よく言うとるやん、上の顔伺いながら選ぶ意味がわからんって」
「そりゃそうですよ。俺は別にそれを良いとは思ってないのに、相手の事は立てなきゃだから選ばなきゃならないし。別に必要ないかなって思う歌まで集めなきゃなんねぇ。でもそれで提出すると、これ選んだのかって微妙な顔されるし、選ばなければ選ばないで立場考えろとか言ってくるし」
「それが無いんやで? 個人的な歌集やから大々的に発表されるやつやないけど、俺は良えと思うんやけどなぁ」

 一から十までお前の好きなもん作れるんや、そんな贅沢があるか。と純粋な目を向けられてしまえば、そうですねと頷くしかない。誰にも指図されず、誰の機嫌も取らなくても良いというのは、それ以上ない程の好条件だという事に間違いはないのだ。

「やるんか、やらんのか。はっきりせぇ」
「やりますやります。どうせ暇だし。断る権利なさそうだし」
「一言多いなお前は、素直に面白そうやって言えへんのか」

 じゃあまた話が進んだら顔見がてら来たるわ。そう言って今日もニコリともせずに帰っていった。責められている気持ちになるようなあの眼差しは苦手だが、あの人の纏っている雰囲気は嫌いじゃない。退屈はしなさそうだし、まぁ楽しみにしておくかとまたゴロンと寝転んだ。

 変わりばえのないこの生活を一変させる、そんな刺激的な何かが欲しいものだ。

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