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ああ、懐かしいことを思い出したな、でもこれって小学校低学年の頃だった。 母が私を呼ぶ声でぱちりと瞬きすると、私の手にはパレットナイフ、テーブルの上にはデコレーション途中のケーキがあった。背が小さいため椅子の上に膝を立てている。まだ土台のスポンジにクリームを塗っていたところだ。……酷い出来だな、これ。クリームは母が泡立ててくれたから綺麗だけど、私が下手だから表面がガサガサだし、力を入れすぎたのかスポンジが少し抉れている箇所がある。小学生だから仕方ないか。 クリームを塗るときに回転させるターンテーブルはない。一般家庭だからそうそうありはしないだろう。パレットナイフにクリームをとり、側面から整えていく。続いて表面も。表面と側面の継ぎ目である角にはみ出たクリームもパレットナイフを斜めにして取る。ターンテーブルなしでケーキを回しているので少し波立っているけれど、小学生ならこんなもんだろう。 絞り袋を探してテーブルを見回せば、側に置いてあった。口金を付けてクリームを入れ、デコレーションしていく。懐かしいな、あの時はもっと酷い出来だったけど、それを見せる前に本人にひっくり返されちゃったんだっけ。悲しくて悔しくて、ケーキをたくさん練習してそれは夫に食べてもらったなぁ。 ふ、と思考が戻り手を止めると、それなりに見えるケーキが出来上がっていた。以前と遜色は……あるけれど。だって道具は少ないし私が小さいんだもん。弘法筆を選ばずとか知らない。 そっと部屋を見回してカレンダーに目が止まった。日付は幼なじみの彼の誕生日だ。……ああ、やっぱり今日はあの日だったのか。
とっくに成人していたはずの私の身体は小さくなっていた。家の中の様相は幼い頃のもの。テレビで流れる歌はその時の流行りだったもので、カレンダーの西暦は十数年前。 何の因果か、私はこの人生をやり直しているらしい。 つまりこれは、こういうことだ。 ふわふわのスポンジに、真っ白なクリームと、赤い苺をのせたホールケーキ。今日、これは誰の口に入ることもなく床にひっくり返る。
やり直しているからと言って、何かを変えようとは思わない。だってもう私は諦めたのだ。頑張って作ったケーキが崩れた時に。 逆行してすぐに目の前のケーキを全力で仕上げたのは、彼に食べてほしかった、この時の私の気持ちについシンクロしてしまったからだ。この過去を変えようとしたわけじゃない。それに、私が何をしたって、もうこの時点では何もできない。彼からのちょっかいは既に受けているし、だから私は仲直りがしたくて企画したのだ。 今さら何も変えなくたって、私はそのまま生きていて幸せだった。それなのに、どうしてカミサマはやり直しなんてさせるんだろう。
彼の母の協力の下、お隣の家の冷蔵庫にケーキを収め、自宅へ戻った。……おかしいな、前ならとっくに帰ってきているはずなのに。そして、私を視界に入れた彼は驚かしてくるはずだった。 首を傾げていたら、チャイムが鳴った。
「なまえちゃんおまたせ! 準備できたから迎えに来たよ!」
明るく私の名前を呼んだのは彼だった。 チャイムを鳴らして私の家へ? 随分とお行儀のいいことをするものだ。これまで、まともにかまってくれなかったのに。名前なんて彼からは久しぶりに呼ばれたな。
「……どうしたの?」 「……わかんない」
前回とは同じ道を辿っていないらしいその理由も、突然彼が優しくなった理由も。
「っほら、お母さんたちが待ってるよ! 行こ!」 「え、わっ!」
手を引かれて家を飛び出す。 ――ああ、手を繋いだのだって、いつぶりだろうか。こうやって私の手を引く彼の背はいつだって眩しかった。 こんなことを思ってしまうのも、この時期の私にシンクロしてしまっているだけだ。意味のないことなんてやめよう。きっとすぐ、すべて壊れてしまうに決まっている。
「これ食べる? あ、あれも好きだったよね。ジュース注いどくね」
そうして始まった彼の誕生日パーティーでは、どちらが主役なのかわからなくなるほど甲斐甲斐しく世話をされた。接待……いや、シーザーサラダを取り分ける女子かな? 美味しい御馳走をもくもくと食べながらちらりと見ると目が合った。
「おいしい?」 「……うん」 「よかったぁ」
にこにこと嬉しそうに彼は笑う。考えれば考えるほどわからない。そっけなかった彼は今日、掌を返したように構い倒してくる。小学校に上がる前だってここまで引っ付いては来なかった。
「ケーキの前にプレゼント渡しちゃいなさい」 「うん」
母親に促されて前回は渡さなかったプレゼントを渡す。これも以前の幼い私が用意したものだから、相応のものだ。買い換える時間なんてなかったもの。小学生男子向けのかっこいい絵柄のついた文房具セット。 それなのに彼は、ほっとしたように表情が崩れた。泣きそうな笑顔で「ありがとう」と嬉しそうに微笑むものだから、以前の憎らしさを一瞬忘れてしまった。
「今までいじわるしてごめんね、君のことが好きだったから、僕のこと見てほしくて」 でも、いじわるなんかして構ってもらわなくても、君が僕のことを見てくれてたのに気付いたんだ。 手を握られてまっすぐに見つめられる。
「結婚しよう」
小指を絡ませて将来の約束、なんて歳じゃないでしょ、私たち。そういうのはもっとちっちゃい頃にするものじゃん。 母たちは嬉しそうににこにこ笑っている。 どうせこんな日のことは彼も忘れてしまうだろう。子供の時の約束なんてそんなものだ。
「もういじわるしない? ……なら、いいよ」 「やったあ!」
ぎゅっと抱き着かれ、勢いで唇を奪われてしまった。え、私のファーストキス!
「よろしくね、僕のお嫁さん!」
変な夢、変な夢。だってこんなことが起きるはずがないのだ。どうせすぐに覚めてしまう。だから、……だから。絡んだ腕が離れてほしくないと思ってしまうのも、触れた唇を意識してしまうのも、赤く染まった頬も。全部、気のせいなんだ。きっとすぐ、すべて壊れてしまうに決まっている。
ケーキは崩れず、みんなでおいしく食べることができた。 戻る
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