れーくんの好きな人 ねえさんの過去遊泳
ここは水の中だろうか。 身体がふわふわと漂いながら下へ沈んでいく。上手く息はできなかったけれど、不思議と苦しくはない。こぽり、肺から息を吐き切れば、やっとのことで湖の底に下りることができた。柔らかい泥を踏みしめて、私はそっとあたりを見渡す。……あれは蜃気楼だろうか。誰よりも愛しい人の姿が遠くに見えた。 あの人のところに行かなきゃいけない。 強くそう思った私は、その背を追いかけた。
部屋の中、彼は一人で泣いていた。 彼の職場だろうか。椅子の上で背中を小さく丸めて、その手には何かを握りしめている。昔、私の家の玄関前に座っていた幼い彼を彷彿とさせた。
「なんで……っ、こんな……」
ぼろぼろと零れる涙を乱暴に拭いながら困惑している。自分がどうして泣いているのかわからないようだった。 ……ああ、彼は、私を忘れてしまった彼だ。
「ずっと空っぽだ、虚しい、苦しいのになんで……っ、こんなもの、が、少しだけ埋めてくれるような気がする、なんて」
彼が握っているものを覗きこむ。……私が、ずっとずっと前にあげた押し花。 まだ、持っていてくれていたの。
『れい』
声が出なかった。彼に触れようとした手は、透明で見えなくなっていた。 当然彼は、この部屋にいる私のことに気付いていない。
静かな夜の山の中。 彼は一人で火を焚いていた。その始末のためだろう、川がそばにあった。次々に火にくべられていくのは、彼が運んできたもの…私が生前積み重ねた、彼の成長アルバムやビデオテープの山だった。一つずつ、時間をかけて火の中へ入れていく。 全ての思い出を手放してから、彼はその場にしゃがみこんだ。
「ごめんなさい」
ぽつり、と呟く。 「記録が残ってたらいけないんだ。僕が警察官になるために必要なことなんだ」 自分に言い聞かせるみたいに。もしくは、私への懺悔、だろうか。
「なくたって、ねえさんの声も、顔も、全部忘れたりなんかしない。大丈夫、覚えてる。……でも」
その手には写真が一枚握られている。
「これだけ、この一枚だけ、残しててもいいかなぁ……」
それは、れーくんが初めて撮った写真だった。私が写っているそれは、降谷零に繋がるものは何もない。故人だけが写っているその写真を見て、咎めるような人はいないだろう。
「降谷、お前彼女作らないのか?」 「それなりにモテてんのに勿体なくね?」
扉の向こうから声が漏れ聞こえる。薄く開いた隙間から、彼らの様子を伺うことができた。 先程から見える風景は、知らないものばかりだ。初めは走馬灯だと思っていたけれど、違うのだろう。
「……心に決めた人がいるから、絶対に作らない」 「へえ、降谷クンったら純愛ってやつ?」 「それは俺も気になるな。どんな人なんだ?」 「あっおい伊達やめとけって……」 「なんだよ諸伏」 「出逢いからでいいか? といっても、初めは僕が産まれたばかりの頃だったから記憶はないんだけど……」 「……一生ぶん聞かされるぞ」
語り始めた彼に肩をすくめたのは、彼の幼なじみの、……ヒロくん、だったっけ。数回だけ会ったことがある。そのたびにれーくんが「ねえさんはやらないからな!」と釘を指していたのはいい思い出だ。 ふふ、と思わず笑みをこぼせば、それに気付いたのかヒロくんと目が合った。
「………!」
あ、と此方を指摘しそうになったヒロくんを、唇に人差し指を当てるジェスチャーで必死に止める。そっと口を閉じたヒロくんは、「悪いけどトイレ。ほどほどにしとけよ、ゼロ」と言い置いて此方へ来た。 私は彼らから見えないように扉の影に隠れて、扉をきっちりと閉めたヒロくんを見届ける。
「幽霊……で合ってるのかな。ゼロの『ねえさん』は亡くなってるから」
その言葉に自分の身体を見下ろせば、先ほどまでと違い薄らと透けていた。なるほど幽霊と言われても仕方がない。それに恐らくそれほど間違ってもいないのだ。
「なんで隠れてたんだ? 俺じゃなくてゼロに会ってやってくれよ。絶対に喜ぶのに」 「……できないよ」
今、こんな姿の私を見たら、れーくんは私を離そうとしないだろう。今みたいに笑えるようになったれーくんに、影を落としたくない。
「……ゼロはずっとあなたを待ってるのに」
自慢気なれーくんの声が部屋から漏れ聞こえてくる。彼に胸を張れるような生き方ができていたみたいで、良かった。
「そうだね、でも、また会えるから」
内緒にしてね、と微笑む。 おまわりさんになるんだ、と言うれーくんのために、警察官になる方法を調べたことがあるのだ。ここが警察学校だとしたら、彼らは二十二歳。生まれ変わった私がそろそろ産まれる頃だろう。 そうしたら、待っていればすぐ会える。
式場の入口では、両親や兄が参列者と昔話をしている。花に飾られた式場の、椅子には彼がぽつんと座っていた。親族席、だ。 私はその隣に腰掛ける。彼は、今日の主役の写真を見つめていたが、こちらに気付いてか俯いた。私の姿は、彼の歳と同じくらいだ。
「将来の約束もしてくれなかったんだ」
黒の学ランの膝で拳を固く握りしめている。
「ぼくのこと、いつも、大好き、愛してるって言ってくれてたのに。それだけは結局、貰えなかった」
声が、震えている。
「その前の日には笑って一緒に居たのに。ばいばい、またねって言ってくれたのに」
決して涙は流さなかった。それとも、もう涸れてしまったのかもしれない。
「どうして、手の届かない人になっちゃったんだよ」
私の遺影を見つめるれーくんは、まるで脱け殻のようだ。きっと胸にはぽっかりと穴が空いてしまった。
「君は、今でもあの人が好き?」 「ああ」 「この先も、ずっと?」 「当たり前だ。一生忘れない」 「……そう」
知ってるよ、私と再会するまでもずっと想っていてくれたんだもんね。
「私もね、とても後悔したよ。もっと抱き締めてあげればよかった、愛してるって伝えてあげたかった、ずっとずっと大好きだよって、この先も一緒にいようねって約束したかった。でもその頃の私は、それが君の幸せになるのかどうか自信がなかった。私が君を縛ることで、不幸になる可能性が少しでもあるならしたくなかった。君が幸せなら、君の隣に素敵なお嫁さんがいる未来を見てみたかった。それでよかった。……れーくんがこんなに哀しむことになるなら、一緒に居ないほうが良かったのかもしれない、って思った」
でも、今は、 「れーくん」
顔を上げた彼の目を見つめる。 「目指したものを決して見失わないで。私のことを忘れてもいい、でもお願い、その心の熱を消さないで」
また、会えるから。 最後は言葉にしなかった。
「あいしてる」
--------
「……ずるいよ、ねえさん。わすれられるわけ、ないだろ」 一人、ぽつりと呟いた。隣には誰もいない。
見慣れていたマンションの廊下。そこは前世の私が住んでいた所で、部屋の扉の前には小さな男の子が座り込んでいた。
「どうしたの?」
声をかけて隣に座る。冬の空気は冷たく、コンクリートの床と金属の扉はひやりと体温を奪った。
「……だれ?」
ああ、私のことがわからないか。 自分の体を見下ろしてみれば、記憶にあるよりも随分と小さくなっていた。目の前にいる彼と同じくらいだろうか。私のことがわからないのも当然だろう。
「ここの隣に住んでるの。寒くないの? ここのおうちの人は?」
小さな嘘を吐く。扉の前に座り込む彼の姿は、見たことがあった。
「さむいよ。ねえさんはもうすぐ帰ってくるから、待ってる」
彼の吐き出す息が白く消える。
「……父さんと喧嘩したんだ」
そう、知っている。だから家を飛び出してきたのだと、言っていたのだ。けれど、その詳細は聞かせてくれなかった。
「何度もねえさんのところに行くのはやめなさいって言われたんだ」 「どうして?」 「わかんないよ。父さんがそんなことを言ったのは初めてだ」
彼の手が震えていた。寒さに凍えているのか、怒りのせいなのかはわからない。
「…みんな心配してるよ。『ねえさん』も、すぐここに来てくれるわけじゃないんでしょ?」 「……わかってる」
ぽろり、宝石みたいな瞳から涙が落ちた。
「勝手にここに来たことも、ねえさんに何の連絡もしてないことも、きっとすごく怒られる。でもそれと同じくらい心配してくれてるからで、僕のことを嫌いなわけじゃないって」
「父さんに言われたんだ、結婚も出来ないんだよって。わかってるよ、そんなこと。でも、ぼく、こんなにねえさんのことが」 ねえさんのことがだいすきなのに。結婚なんて出来なくたって、そんなの国の決まりでしかないじゃないか。僕がねえさんのことを好きで、ねえさんも僕のことを好きで、ずっと一緒に居られるなら何だって良いのに。父さんはそんなことを僕に言うんだ。
「わかってる、全部、ぼく、わかってるのに……」
膝に顔を埋めて、懸命に泣き声を抑えている。 私が叔母である間は、彼の気持ちを受け入れることはしないと兄はわかっていたのだろう。きっとその時に二人とも苦しむことになる。 でも今はもう、違う。
「れーくん」
彼を包むように抱き締める。少しでも私の体温が移ったらいい。君がさむくないように。
「どうして、ぼくの名前……」
「君が、その気持ちを忘れないでいてくれたら、」
きっと私もそれに応えられる日が来るよ。
--------
「……れーくん?」 「ねえさん、ごめんなさい」 「っ、寒かったでしょう! 早く中に入って! ああ、れーくんのメールを見逃してたかな……っ」 「約束やぶって、ごめんなさい」 戻る
|
|