れーくんの好きな人 1
過去の事件をなぞった今回の一件を目にした彼女は気を失った。いつもは、僕のことばかりを見ていたから忘れていられた記憶が、トラウマとしてよみがえってしまったのではないかと思っている。 何せ自分が死んだときの状況を目の前で再現されたのだ。再び命の危機に瀕したのだと脳が判断して逃避の一手を選んだとしても不思議はない。
目を覚ました彼女は、果たして僕を瞳に映してくれるだろうか。 眠る彼女の傍らで、逃げ出したいほどの恐怖が襲ってくる。 面と向かって拒絶されたら……だって僕はそれだけのことをした。嫌われて当然だ。 薄く瞼を開いた彼女が、僕を見た瞬間に嫌忌を滲ませて、『どうしてここにいるの、会いたくなかった』などと言われたら、僕の心は粉々に砕けてしまうかもしれない。 ……ああ、あのとき僕が手を振り払ったときに、彼女はこんな気持ちになっていたのか。今の僕のような想像ではなく、現実として。 罪の重さばかりを噛み締める。 そんな時、前触れもなく彼女は目覚めた。
「……れーくん……?」
不思議そうに周囲を見回した後、ぱちりとこちらを見据えて彼女は呟いた。 彼女が気を失った時のように錯乱している様子もなく、……嫌忌も感じない。 そのことにほっと息をつく暇もなく、突然彼女は花が咲くように笑った。
「大きくなったねえ、れーくん! まえはこーんなにちっちゃかったのに」
『こーんなに』と両手で示した大きさが、寸分たがわず僕の出生時の身長を指していると僕は知っている。
「『ねえさん』……今、何歳?」 「ん? えーとねぇ、」
『ねえさん』は、僕と出逢った時の年齢を口にした。
心因性の逆行性健忘。 トラウマを思い出したことによる強いストレスが原因で、彼女の記憶は『甥のれーくんと出逢った次の日』まで遡っていた。 ……まだ死んだことのない、死の恐怖を知らない頃だ。彼女の脳は逆行することによって心を守っているのだろう。
「よく僕のことがわかったね」
産まれてから何十年も歳を重ねているのだ。面影があったとしても赤子と同一人物などと思えるはずがない。
「……わかるよ。れーくんだもん」
頬を両手で包まれて瞳を覗かれる。 うっとりと目を細めて彼女は微笑んだ。 ……僕は、産まれてすぐの頃からこんなにあたたかな愛情をまっすぐに注がれていたのか。 知っていたはずだったのに、目の前で過去を生きている人から示されて、くすぐったくなる。 頬に触れる掌の優しさは変わらなかった。
複数の検査を済ませて、異常の無いことがわかった彼女はすぐに退院できることになった。 僕の傍で……夫の傍で療養し、記憶が戻るのを待つ方がいいと。命が宿っている身体にも異常が出ていないか、よく見ているようにと。
「行こうか、ねえさん」 「うん!」
僕たちの家へ連れ立てば、一も二もなく頷く。 ……心配になるほど信用されている。いくら僕だと解っているからといって、中身が高校生の彼女が成人男性の家に疑心無く行けるものなのだろうか。あ、いや、今までもそうやってきたか。 けれど、これは盲信というものではないだろうか。 違和感は少しずつ散りばめられていた。
私はどうして眠っていたんだっけ? 周囲を見回して、自分が病院にいることを理解する。びっくりするほど健康体なのに、どうして? ベッドの側に、人がいることに気付く。
ああ、れーくんだ。
理屈も何もかもすっ飛ばして、理解する。 何せこの人に運命ってものを感じてしまったのだから、理屈なんかが通用するわけがない。 昨日出逢ったばかりの赤ちゃんは、随分と大きくなっていた。 どうやら私は、あれから何十年も未来にタイムスリップしてしまったらしい。
私たちはずっと一緒に住んでいたの? と聞けば、そうだよ、と返ってきた。 歳の離れた叔母と同居するものだろうか? れーくんのお嫁さんは? 机にはペアリングの片割れらしき指輪があって、それに気付いたれーくんがすぐに隠していた。叔母と同居していることに耐えられなかったお嫁さんに出ていかれてしまったのかもしれない。 この時代の私だってそれくらいわかりきっているだろうに、どうして一緒に住んでいるのだろう。れーくんの幸せを壊してしまうくらいなら、どうすればいいのか考えればわかることなのに。
この時代の私は何処へ行ったのだろう。10年バ○ーカのように、私の居た過去へ入れ違いに飛ばされているのだろうか。それなら、兄さんがいるからきっとなんとかなるだろう。
「れーくん、料理ができるの? すごいねえ、私にも教えて!」 「……え? あ、ああ、うん。一緒に作ろう」
れーくんは驚くほど何でも出来た。料理の手際の良さなんて目を見張るほど。私はずっと実家だったからほとんどしたことないんだ。まだ高校生だし一人暮らしはまだ先だろう。 とはいえアルバイトを始めようと昨日決心したのだ。なんてったってれーくんに貢ぎたいから。料理も追々出来るように努力しなければ。
「……どうしたの?」 「いや、なんでもないよ」
視線に気付いて見上げれば、ぎこちなく笑うれーくんがいた。叔母が突然若くなったら戸惑いもするだろう。 私の手元には皮が厚く可食部の少なくなったじゃがいもがあった。
「いつからここは降谷夫婦のお悩み相談室になったのかしら」
僕は阿笠邸を訪ねていた。 以前彼女が出ていったとき、彼女もここに来ていたようだ。その時のことを思い出したのか、不快そうな顔をされた。 ねえさんのことを相談できるところはここしかない。なにより彼女と友人関係にあったのだから、記憶を戻すための手口が見つかるかもしれない。
「仮死のお姫様を目覚めさせる方法なんて、相場が決まってるじゃない? ま、相手が王子様だったらの場合だけど」 自分が死んだときの事件を追体験したのだもの。それがきっかけだったなら、彼女は今、死んでいるのと同じよ。 「彼女の過去を見られると思っていたらいいんじゃないかしら」 「過去か……」
彼女の言葉に宙を仰ぐ。 思い出すのは昨日の出来事だ。不器用な手先、基礎を知らず傾げる首、けれど懸命に僕の調理を覚えようとしていた。
「……ねえさんが料理できなかったなんて知らなかった」
僕が物心ついたころには既に、台所で色んな料理をしていた。彩りよく豊富な具材と品数、おかげで好き嫌いなく様々な食材を摂取した。 そこまで行き着くのに、どれほどの努力をしたのだろう。 僕は、僕と出逢う前のねえさんを知らない。 その生活が人生が僕で塗り変えられる以前を見たことがない。 望んだって仕様の無いことだから、考えないようにしていた。
「言っとくけど、私はまだあなたのことを許したわけじゃないの。いつまでもここに居る時間があったらちゃんと見ててあげなさいよ」 「そうさせてもらうよ。ああ、あと、頼みがあるんだ」 「……聞いてあげてもいいけど」
「……はじめまして、宮野志保よ。この時代のあなたの友人。今日は一緒に話がしたかったの。よかったら、買い物に付き合ってくれないかしら?」
この時代の私の知り合いに会ったら驚かせてしまうから、あまり外出はしないでほしい、と言ったれーくんの言葉を思い出した。 この時代の私の友人と会わせたということは、外出もしていいということだろうか?
「女同士じゃないと言いにくいこともあるんじゃない?」
友達、なら、ちょっとだけ相談してもいいだろうか。
「実はね、ちょっとだけ、ほんとにちょっとだけなんだけどお腹回りがきつい気がして……新しい服が欲しいんだ」
この時代の私より、今の私の方が太っている……なんてちょっと嫌だった。いや、将来ダイエットに成功すると思っていれば気が楽だろうか? 声をひそめた私に「……そう」と呟いて、宮野さんは私の後ろのれーくんをちらりと見た。
「それならまずはショッピングね。どうせなら下着も新しくしましょ」
いいのかなぁ、私が過去に戻ったら無駄になってしまうものじゃないだろうか。
「いってらっしゃい、ねえさん」 「れーくん、いってきます!」
れーくんは一緒に行かないみたいだ。きっとお仕事だろう。 宮野さんと駅までの道を歩く。
「考えこんでるけど、どうかしたの?」 「え、ううん、随分と歳の離れてる友達なんだなと思って」 「……そうね、確かに歳は離れてたわ。でも、まるで同じ歳みたいに仲良くしてたつもりよ」
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