れーくんの好きな人 心因性の逆行性健忘 序


叔母であるねえさんと甥の僕の間に横たわる障害は、血の繋がりかと言えばそうでもなかった。結婚をゴールとするならば壁となったかもしれない。しかし、ずっと一緒にいた僕らは結婚なんてせずとも共に居れると知っていたし、何よりねえさんは僕のことがだいすきで、僕もねえさんのことが大好きだったからだ。
血の繋がりを失った今、障害となっているのは感情の色の相違だった。
僕の気持ちを受け入れてくれる、ねえさんが今ここに居てくれるならそれでいい。……そう思っていたのは嘘じゃない。けれど、ねえさんにまた逢えて、その全てを貰った僕は欲張りになってしまった。
僕に向けるその愛情が、僕と同じ色をしていてほしいと感じるようになった。



「ん、は……っ」
「あっう、れー、く」

一か月ぶりに隠れるように帰宅した僕は、溺れるみたいにその身体をかき抱いた。これだけ長い間会えなかったのは久しぶりで、渇きを満たすために唇を重ねる。本当なら、この歳、今の役職なら潜入任務なんかする必要なかったのに。後任が育ってないわけじゃない。僕の周りに役立たずは置いていない。問題は、未だに押さえつけてくる『上』の存在だった。まぁその『上』の人間も、潜入が始まってしばらく後に居なくなったのだが。
二人、睦み合う寝室に、ピリリリリ、と電子音が響いた。
彼女に覆い被さっていた体を起こし、ヘッドボードで鳴るスマホを取る。

「……もしもし、…………ああわかった、すぐ行く」

プツリ、僕が通話を終えたのを確認してから、ねえさんがもぞりと身じろぎしてこちらを見上げる。
僕は黙ったままその柔らかな胸に顔を埋めて抱き付いた。その肌には真新しい紅い華が散っている。

「ね、出ないといけないんでしょう?」
「……うん」

離れがたくて頬をすり寄せれば優しく僕の背を撫で、頭頂部にキスを落としてくれた。
支度を済ませ、靴を履き終えた僕の袖を彼女が引く。肩が冷えないようにブランケットを纏った彼女は、屈んだ僕の唇にキスをした。まるで悪戯が成功した子供みたいに、へへ、と笑みを溢している。

「いってらっしゃい、れーくん」
「……うん、いってきます」

行かないで、と言われてみたかった。ここにいて、離れないで、と求められたかった。
ねえさんは、仕事をする僕のことが好きだ。仕事に打ち込む僕のことが好きだ。スーツも、エプロンも、黒ずくめの時も。「行かないでって言ってほしい」と情けなく真正面から伝えたとしても、そんな僕のことも大好きだと言ってくれるだろう。行かないでと言われたからって、仕事を投げ出してここに居るわけでもないくせに。

でも、そうじゃあないんだ。
『かわいい甥』を見つめる瞳に、どんどん苦しくなっていく。あれほど喜んでいたはずのねえさんからのキスも、今では少し空しいだけだった。
渇きを潤したいと水を欲するように、焦がれた胸を癒したいと望むように、僕のことを好いてほしい。
欲張りな僕は、ねえさんからの愛だけじゃなくて、恋も欲しがった。

その報いだったのだろうか。僕は彼女の記憶を失った。

叔母だった『ねえさん』が死んだ事件は、自爆テロだった。
その事件を防げていたら。今度こそ、ねえさんを守るために。事件が起こる前に、防いでいたら。
ねえさんが好きだった日本を、この国に生きる人々を守れたら。
この世にいないねえさんを、今度こそ守れると思ったんだ。

そうして、ねえさんのいない日本で警察官になった。
心を預けた友人は次々に消えていった。
もう守るべき人のいないこの世で、それでも僕は生きていた。
事件が起きないように。誰かの大切な人が喪われないように。
それだけが僕を此処に繋いでいた。

『ねえさん』を殺した事件は、時を経て誰かの命を守るための仕組みを作り、ねえさんの命を守った。
『ねえさん』が死んだときに無力だった僕は、警察官、公安としてねえさんを助けることができた。
それなのに、僕の心には虚しさが残っていた。


彼女に関する記憶をなくした僕は、目の前に突然現れた彼女を前にして困惑し、彼女を傷付けた。その手を振り払った。乱暴をして、泣かせて、苦しませた。そんな酷いことをしたくせに。僕は酷い思い上がりをしていた。彼女の目が覚めたら『もう大丈夫だと抱きしめたい』だなんて。『また振り払われてしまうだろうか』? 振り払ったのは僕の方だった。僕が病院で目覚めたときに傍に居てくれた彼女の手を払ったのは僕だったくせに。『溝を埋めていけたら』? 亀裂を拡げたのは自分だろう。虫がよすぎる。
そんな僕に、ねえさんも呆れてしまったのだろう。妊娠していたという事実を、ねえさんは僕に告げることはなかった。しかも、異動のために引き継ぎをしていたので、彼女が入院することになっても仕事に穴が空くことはなかったようだ。……そう、彼女は遠い地へと異動しようとしていた。僕は、何も聞いていない。彼女は僕の前から消えるつもりだった。

今までさんざん甘えさせてもらって許してもらってきた僕は、とうとう彼女に見放された。

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