医師のその言葉で、僕の記憶は全て戻った 5


いつも通り出勤する。今日はたしか避難訓練があったはずだ。
彼と日々を過ごすようになってからも、異動の話は着々と進んでいる。地方に転勤して、隠れることにしたのだ。幸い支援も充実している。私の身体の変化に彼が気づく前に、裏で静かに準備をしていた。

彼が私の身体を求めようとしてきた日があった。まだ膨らみのない肌を撫でられて、血の気が引いた。
もし、気付かれてしまったら。
咄嗟にその腕から逃げて、思考を巡らせた。
今、肌を重ねることは出来ない。それを上手く説明する言葉が見つからない。彼自身を拒絶しているわけじゃない。じゃあせめて、手か、口か、どうにかして、処理だけなら……

「ごめ、なさ、…違う、違うんだ、処理のためなんかじゃ……」

そう言ってすがり情けなく許しを乞う姿は、れーくんそのもので。

今ここにいる彼はきっと、『私に出会わずに生きてきた彼』じゃない。
彼の中には、私の形そのままにぽっかりと穴があいているのだろう。
私はその穴を埋めることはしない。






非常ベルの音が鳴り響く。
「……もうそんな時間だっけ」
パスケースを服のポケットに入れて、デスクを離れる。
前世の私が死んだあの事件から、この職場では様々な非常事態に備える避難訓練が増えたようだ。そうでなくともこの街では、避難が必要になる事件が度々起こる。備えていて損はない。
前を歩く人に続いて非常階段を降りる。
ビルの側の開けた場所に、皆が整列する。

喧騒を切り裂くような咆哮があたりに響いた。






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それはずっと昔のこと。
『私』が働いているビルに、爆弾が仕掛けられていると言われて皆で避難していた。

皆、落ち着いて避難していたのに。
大声をあげて体に巻き付けた爆弾を見せた犯人に、パニックを起こした人々は走り出す。
混乱した人の波に流されて、私も同じ方向に動かされる。犯人の、反対方向に。
ああでも待って、そっちには、爆弾が仕掛けられた、大きなビルが……━━

そうして、『私』は死んだ。
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今、その時の、痛みが、後悔が、苦しさが、悲しみが、記憶の蓋が開いて沸き出てくる。

だってあの時と同じだ。避難した先に待ち構えていた犯人、声と共に爆弾をアピールして、遠隔操作で爆発させるビル、大勢が心中させられて。

目の前の光景に、力の入らなくなった膝がかくりと折れて、へたり込む。チカチカと視界が点滅する。ポケットのパスケースをお守りのように握り込んだ。

嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!“また”死にたくない!! 爆風と破片に身を千切られるなんて、瓦礫に押し潰されるなんて、動けない足先から熱い火に焼かれていくなんて、身体についた傷から血が流れて冷たくなっていくなんて、またあんな思いをするなんて嫌だ!!

…誰か、

……━━━━

……れーくん、助けて……







「……気を失っているだけのようです」


鈴木財閥のオフィスビルを狙った自爆テロ。
その手口は、30年近く前の事件と似通っていた。なにしろ、その犯人の思想を継いだ、と宣っているのだ。動機自体は財閥への逆怨みでしかないが。
しかし、犯人の奔走も虚しく、爆弾を抱えた犯人はあっさりと取り押さえられた。
そもそも爆薬の入手経路に足がついている。公安が爆薬盗難の犯人を特定するのに時間はかからなかったし、あらかじめ設置されていた爆弾は早々に撤去した。
そして、前回の事件で多くの人間を喪った鈴木財閥の人間は、尋常でないほど訓練されていた。
押さえ込まれた犯人は自爆することは叶わず、ビルに仕掛けた爆弾も作動せず、その口から呪詛だけ撒き散らしながら連行されていった。


その最中、一人倒れたのは彼女だった。
まさか毒物でも蒔かれていたか、とすぐに病院へ搬送された。

「降谷なまえさんのご家族の方ですか?」
「ええ、そうです」
「検査の結果、どこも異常はありません。強いストレスがかかったようですが……」

目を覚まさない彼女のベッドの傍ら、医師に声をかけられて肯定を返す。あとは彼女が目覚めるのを待つだけだった。
そうしたら、もう大丈夫だと抱きしめたい。ああでも、また振り払われてしまうだろうか。少しずつ、溝を埋めていけたらと思う。



「お腹のお子さんも無事ですよ」

「……………………は?」

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