医師のその言葉で、僕の記憶は全て戻った 4
まさか自身が反応を示すとは思っていなかった。女との添い寝の際、悪戯に触られた局部はぴくりともしなかったのに。 だから不能になったと思っていたのだ。それなのに、目の前の女━━現在は表向きの妻を前にしてそそり起つとは予測していなかった。 ベルトを外し、取り出されたそれはまだ柔らかく、ああやはり不全になったのだと諦めていた。しかし彼女の唇が触れた瞬間から、むくむくとそれが昂り、困惑した。 自分で彼女を傍に置いたのに、傷付けてしまいたいと……どうにでもなってしまえと、乱暴をした。 だって彼女は僕を見ようとしなかった。 相手からの反応欲しさに傷つけるなんて、子供のような行動をしてしまった。 その結果彼女が出ていってしまうのは当然だとわかっていた。それなのに、赤井の車から降りてきた彼女を見た瞬間、頭が沸騰するようだった。 嫉妬で目の前が真っ赤に染まって、怒りのまま彼女の腕を掴んで――近付いた僕の顔を見た瞬間、彼女は嘔吐した。 これ程ショックを受けることなど、早々無いだろう。それほど酷いことをした自覚はある。心どころか、身体すら拒絶を示したみたいに。
結局お互いの誤解も解けて、また二人で暮らすことになった。まさか、共に寝ることになるなんて、これもまた予想していなかったことだ。 そこらの女など比ではないくらい、穏やかに眠ることができた。 彼女を背中から被さるように抱き込んだ、香りも柔らかさも。全て、この身体が、この心が求めて止まないものだと理解できた。
……僕らが恋愛結婚だったということも、今ならわかる。
けれど、僕らの間にできた溝は簡単には埋まらないようだった。 共に寝るようになって1週間ほどたった頃。彼女の様子を窺いながらそっと服の裾に手を差し入れた。 彼女の心は此処にあると安心したかった。無条件に受け入れてくれる存在がここに有るのだと感じたかった。
「や……っ」
指先に触れた素肌は離れていった。怯えた瞳をして、身を固くして、僕と彼女は交わらなかった。 身を捩って僕の指先から逃れた彼女は、ばつが悪そうに瞳をさ迷わせていた。 彼女をそうさせたのは僕だった。他でもない僕のせいだった。八つ当たりに乱暴したのは僕だ。当然の反応だ。
「ごめ、なさ、…違う、違うんだ、処理のためなんかじゃ……」
あの日彼女は、欲の処理だけなら、と言っていた。今ここで、そらした目にぐるぐると回る感情は、あの日と同じものではないか。 彼女はあの日と同じ言葉を言おうとしていた。
謝罪の言葉が口をついて、すがることでしかそれを止めることはできなかった。
「れい」
彼女の顔を見れなかった僕は、無声音で発せられた言葉を拾うことができなかった。 ふわりと、やわらかい身体に抱き締められる。
「……おやすみなさい」
とん、とん、とゆったりとしたリズムで背を叩かれて、睡魔に導かれる。 ああ違うんだ、ちゃんと謝らないといけないのに。ごめんなさいって、ひどいことしてごめんなさいって言わないといけないのに。 抗うこともできずに、意識は落ちていった。
ピピピピピピ 電子音で目を覚ます。 随分とよく眠っていたようだ。彼女と眠るようになってから睡眠時間が増え、とうとう8時間を越えた。 もう時間だ、行かないといけない。 ベッドから抜け出そうとしたところ、隣の彼女が身じろぎした。
「んん……」 「……いってきます」
そっと身体を離そうとした瞬間、「まって」襟首を引かれた。
「……ぇくん、いってらっしゃい」
唇が離れて、ふにゃりと笑ってまた眠りについた。
「………っ!! ぅっ……」
ベッドに沈んだ彼女をよそに、後ずさりしたらベッドから落ちて頭を打った。 その衝撃で記憶が戻ってしまえば良かったのに。 カッと顔が熱くなって、口を両手で覆う。
「ずるい……」
安らかな寝息が響く室内で、僕は一人頭を抱えた。
「……私のバーボン」 「っ!? ……ああ、これか」
就寝前、戸棚から見つけたウイスキーを呷っていたら掛けられた声に肩が跳ねた。 とっくに壊滅させた組織には関係のない人間だと、事前の調査で知っていても驚いてしまうのは仕方ないだろう。 隠してたのに、と不満そうに呟く彼女にグラスを差し出す。
「君も飲むか?」 「お酒は飲めないから、いいよ」
そう言いながら、向かいの席に座る彼女。 恐らくは彼女のウイスキーなのに、飲めないだなんて変なことを言うものだ。 ……ああ、まただ。懐かしむような瞳で、こちらを見つめている。いや、正しくは記憶のある頃の僕を、なのだろう。 ふとしたとき、些細な仕草や会話の瞬間、彼女はそんな表情を見せる。 興が冷め、グラスを置いた。
「もう飲まないの?」 「ああ、だから……」 「うん、わかってるよ」 一緒に寝ようか。
ベッドにはいつも彼女が先に入る。後から続けて僕も潜り、赤子のように頭を抱き込まれればすぐに睡魔がやってくる。 「……ぇさ、朝まで、ちゃんと、いて……」 薄れる意識のなか、僕の口から言葉が零れた気がした。
彼の手元に居て、望みを受け入れて、愛を享受し愛を返す。 それで良かったはずだった。幸せだった。 「あなたと対等でいたくなった」 一人の人間として、歪んだ愛の形じゃなくて。遥か高くにいる彼の隣に立ちたかった。 目を覚ました彼に手を振り払われたときに、求められることが当然だと、僅かでも慢心していたことに気付いた。彼の一番は私だと、彼を誰よりも理解しているのは私だと、悦に入っていたのだ。 そして彼の一番が私ではなくなったとき、心が彼を求めていることに気付いた。 『れーくん』のことをかわいい甥以上には見れなかったはずだった、のに。 「あなたに、恋をしてしまった……」 以前の私なら、彼の意思を何よりも尊重し、自分を殺してでもその未来を望んだ。 それなのに私は今、自分の意思をもって、彼から逃げ出した。守るべき大切なもののために、なりふり構わず、けれど彼に口を閉ざしたまま。 私を見てほしい。求められたい。私だけを愛してほしい。ずっと傍にいたい。 醜い。狂ってる。可笑しい。ふざけてる。ありえない。こんなの、裏切りだ。
彼は、私が「ねえさん」であることを望んでいるというのに。
……それでも、私はもう手放せない。
――ごめんなさい。私はもう、れーくんの望むねえさんではいられません。
『ねえさん、朝までちゃんと隣に居て』
彼が微睡みながら発した言葉は、確かに私の耳に届いていた。
「うん、いるよ。れーくん」
眠りに落ちた彼の髪をすくように撫でる。 私が眠っている間にいなくなってしまうこともあったくせに。だからこそせめてねえさんはどこにも行かないで、と君は駄々をこねていたっけ。
さらさらの髪にキスをして、私も眠りについた。
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