医師のその言葉で、僕の記憶は全て戻った 3


また、彼の家での生活が始まった。
彼が可能な限りこの家に帰って来るようにしていることには気付いたけれど、それでも朝帰りなんかしてほしくなかった。帰宅早々お風呂に向かう彼に着替えを渡したとき、気付いたのだ。彼は女性の香水の香りを漂わせていた。そんなことが何度もあった。しかも、毎回違う香りなのだ。風見さんからの報告の通りである。自身に妻がいると知ってからも同じように続けている。まだ、帰宅後すぐにシャワーを浴びて香りを洗い流しているだけマシなのだろうか。
たまに夜帰ってきて自室で朝まで過ごしたと思えば、酷い隈を作っている。私は別室で眠っているのでわからないが、きっと一睡も出来ていないのだろう。

……ああ、前だったら。疲れきって帰ってきた彼は、玄関の扉を抜けてすぐに抱き付いてきて。数日ぶりの帰宅だった日なんかはそのままベッドへ行って。ぐったりと力の入らない彼を抱き締めて一緒に寝るのがお決まりだったのに。


「ぅ、ぉぐっ、ん〜〜っ!」
「は、奥が、締まって……っ、なかなか、っく、ああ、悪くないな」

後頭部を掴まれて、喉の奥を容赦なく突かれる。咥えさせられた剛直に歯を立てないように必死で、息の仕方を忘れそうだ。ガツガツと彼の快感だけを追う動きに翻弄される。息も喉も、心も苦しくて、溢れた涙を彼は見てはくれなかった。

「んぐ、うぅ〜〜っ!」

ドプリ、一際奥に押し付けられた昂りが容赦なく液体を流し込んでくる。私はそれを飲み込む以外に道は無かった。

「ぅあっ……、ゲホッ、う、」

恍惚とした表情で私の頭を解放した彼。口の中から出ていくときに幾らか残っていた精液は、溜まっていると言う彼の言葉通り、濃いものだった。毎晩女と寝ているはずなのに、という疑問は、必死に酸素を求めて咳き込む私には浮かばない。
此方を見もせずに天を仰ぎ、ソファに座って息を整えている彼に、涙が込み上げてくる。……いや、込み上げてきたのは涙だけじゃなかった。

「ぅ、」

両手で口を押さえてトイレへと駆け込む。
ここ数日で何回もあった、未だに慣れないその現象が襲ってくる予感は正しかった。胃が中身を押し上げるように吐き気が込み上げる。先程飲み込んだ白濁液も、胃液もまとめて便器の中に吐き戻した。
まださっきの息も整っていない。はあ、と肩で何度も息をついて、床にへたりこむ。

「……吐くほど嫌だったか? まあ、そういうものか」

開け放した扉の外にはいつの間にか彼がいて、悪びれもせずにこちらを見ていた。
その冷えた瞳、……もう熱のこもっていない瞳を見て、すうっと頭が冷えていく。
━━この人の傍に居ては、どんな扱いを受けるかわからない。
この人は私が知っているれーくんではない。もう私を愛していない。私を守ってはくれない。……それでは、駄目だ。今の私は、全てを擲ってでもれーくんを愛せた頃の私とは違う。
ぐっと歯を噛み締めて、立ち上がる。
彼の横を抜け、リビングに置いていた貴重品や鞄などの最低限の荷物を回収して玄関へ向かった。

「おい、何処へ行く?」
「帰ります」

ここは私の帰る家ではない、と言外に告げる。
腕を掴んできた彼を振り払って、私は家を出た。





「いきなりイマラチオとかありえなくない!? 酷いにもほどかあるでしょ!!!!」
「落ち着きなさいよ、みっともない」

まるで酒に酔ったみたいにまくし立て、乱暴に紅茶のカップをソーサーに置いた。
私はかつての同級生、今では歳上の灰原哀━━宮野志保の家で愚痴を垂れていた。正しくは発明家阿笠博士の家だが。

「珍しくご立腹じゃねえか? そんなに酷いのか、今の安室さん」

喧嘩とか見たことねぇ、と肩をすくめるのは同じくかつての同級生の工藤新一だ。隣の実家から、騒ぎを聞き付けて来ていたようだ。

「なんであんな……あんなグズ男に育てた覚えはないよ……私のれーくんが……」
「はいはい、落ち着いたら帰りなさいよ」

しくしくしく、と泣き真似をするもあしらわれる。

「まぁ、珍しいのは同感ね。 あなた今までなら、彼が幸せならそれで良いって身を引いてたでしょう?」

伏せていた顔を上げて私は眉を寄せる。彼女の言うとおりだ。前までの私なら、彼の幸せを第一に完璧に姿を消すなり、何があってもされても彼の幸せをサポートするために全力で動いていただろう。

「それに、安室さん怪我してたんだろ? 安室だったら一人でもどうにかするだろうけどさ、」
「だって、」

私の声に、二人がこちらを見てハッとする。私の眼からは止めどなく涙が溢れていた。

「支える、なんて、できないよ。私の方が先に潰れちゃいそうで、どうしたらいいのか、わからないの」

志保ちゃんが私を優しく抱き締めて、背中をとんとんと叩いてくれる。
こんなのはおかしいのだ。以前なら、自分がどうなってしまってもれーくんを優先したはずだ。それなのに、私は今、自分が傷付くことを恐れて彼から逃げ出した。

「……珍しい、どころじゃないわね。随分と自分勝手になったわ」
「ごめ、」
「それでいいのよ、むしろやっと丁度良いくらい。今までが異常だったのよ。自分のために行動して、何が悪いって言うのよ」
「だけど、わたし、私、」

私は欲張りになった。彼に求められて生きるうちに、彼に求められていたいと思うようになった。
私は変わってしまった。彼と一緒に過ごすうちに、二人で幸せになりたいと思うようになった。
何より、私は自分の身を案じなければいけない。他の何よりも優先すべき人間が、彼だけではなくなった。
お腹の前で、拳を握る。

「……あなた、まさか……」

彼女は顔色を変えて息を飲んだ。新一くんも体を乗り出す。
私は強く頷いた。

「それ、安室さんには!?」
「そうよ、彼には話したの!?」
「そ、んなの、」

言ってない。言えるわけがない。言って拒絶されたら。そう、だから彼から逃げたかったんだ。せめて、彼から隠れていなければ。











「Mrs.降谷、もう遅いから帰った方がいい。送っていく」
「おき、……赤井さん」
以前は隣の家に住んでいた彼は、住まいをあっちに戻していたはずだ。いつの間に日本へ来ていたのだろう。
気付けば、窓の外はもう暗い。お言葉に甘えて、車に乗せてもらうことにした。

「……何かあったら、連絡しなさいよ」
「ありがとう、志保ちゃん」




「変わったな、君は。いや、きっと二人とも、だ」

走り出した車の中で、唐突に口を開いたのは赤井さんだった。

「彼と喧嘩は初めてだろう?」
「……はい」
「俺が知っている君達は、二人だけの世界が美しい丸で完結していて、……だがどこか歪だった」

運転している赤井さんは前だけを見ている。

「歪……」
「お互いしか見えていないのに、お互いの事が何も見えてない。少なくとも俺は、そう感じていたな」

言葉がうまく入ってこなかった。反論もできなかった。

「君は、彼のことをどう思っている?」
どう、なんて。そんなこと。
「愛しています」

淀みなく答えられる。これだけは何があっても揺るがない。

「それなら、彼の方はどうだろうか。君のことを」
「……愛して、くれていました」

記憶を失ってしまった彼がどうなのかは、考えたくなかった。

「それだ。君たちの言う愛ってものは、互いに違うものを抱えているのか? そこに行き違いの原因があるように思う」

は盲目と、よく言うだろう。
お互いしか見えていないのに、お互いの事が何も見えてない。そう言った赤井さんの言葉が耳に貼り付いた。







帰り着いたのは社宅である私のマンションだ。建物の前で降ろしてもらう。部屋の前まで行こうか、と提案してくれたが、丁重に断った。噂話の好きな人間はどこにでもいるのだ。お互い、伴侶に誤解されるのは本意ではないだろう。

「赤井さん、彼女に宜しくお伝えください。今度また遊びに行きますね」
「ああ、待ってるよ。今度は、あの子も一緒に」

ありがとうございました、とマンションに入り、エレベーターに乗る。
このマンションはオートロックだから、部屋に入るまでには滅多に危険は無いはずだ。だから自室までの赤井さんの同行を辞退した。さすがに夜道の一人歩きはしたくなかったので車で送ってもらったけど。

「……浮気ですか、よりによってあの男と」

扉の前に佇む彼。オートロックってなんだっけ。
……予想の範囲内だ。
はあ、とため息を吐いて、扉の鍵を開ける。片手で追い払うように彼を退かした。

「浮気を咎められるような立場なの? 朝帰りなんて、夫の振る舞いとは思えないけど」

近所迷惑になるので彼も玄関の中に入れる。ここは鈴木財閥で働く人間が住んでいる社宅なのだ。職場で変な噂を立てられたくない。

「浮気を認めるのか?」
「あなたこそ、否定もしないんですね。気付かないと思いました? 女ものの香水ってわかりやすいんですよ」

荷物をソファの上に置く。
ああ、そうだ、こんなのは可笑しいんだ。だって以前の私なら嫉妬の念なんか抱いたりしなかった。

距離を詰めてきた彼を見上げれば、苛々とした表情で私の腕を掴んだ。
今は香水の匂いはしない。彼の香りだけだ。

「……う、」

突然襲ってきた不快感に、ぐるぐると目が回り口許を手で押さえる。咄嗟に走り出そうとしたが掴まれた腕に阻まれて動けなかった。

「はなし、て」
「また逃げるつもりか? 話を聞けと、うわっ!?」

我慢できずにまた吐いてしまった。今度は逃げ場もなく、目の前の彼の服を汚して。



「ごめんなさい、スーツ、高いのに」

もしかして体調でも悪かったのか、とベッドに押し込まれた私はワイシャツ姿の彼に謝る。スーツのジャケットは駄目になった。

「僕が引き留めたせいもあるだろう。もういい。それより、胃を悪くしているんだろう? 食べられそうか?」

ベッドのサイドテーブルに置かれたのは出来立ての玉子粥。湯気がほかほかとたちのぼるそれは、今しがた彼が作ったものだ。消化しやすいように軟らかく炊かれたご飯に、ふわふわに溶かれた玉子。表面には刻まれたネギが散らされていて、鮮やかな緑色がアクセントになっている。

昔、れーくんが風邪を引いたときに作ったことがあった。れーくんは鼻が詰まって味もよく分からなかっただろうに、美味しい、おいしいと言って食べてくれたのだ。元気になってから、僕も作れるようになりたいと言うれーくんと一緒に初めて台所に立ったんだっけ。何度もお粥を作るものだから、明太子を入れたりしてアレンジを加えて食べたのを覚えている。
目の前のお粥は、絶対に美味しいのだろう。彼が作ったのだから間違いない。現に、空っぽの胃が音を鳴らしてしまいそうなほど食欲を誘う香りがしている。
けれど、私はそれを食べることができなかった。先程戻してしまって何も入っていないのに、胃がひっくり返されるみたいに吐き気がこみ上げる。
その私の様子を見た彼は肩をすくめる。

「……無理そうだな」
「後で、たべるから置いておいて」

肩で息をしながら告げる。せっかくの彼の料理を逃してしまうのは惜しい。
日に何度も吐いて消耗した体力を取り戻すように、ゆるく深呼吸して息を整える。

「他に食べられそうなものは?」
「……台所に、フルーツがいくつか」

お粥を持って部屋を出ていった彼は、綺麗に切られた果実を持って戻ってきた。
どうしてこんなことをするのだろう。今さら私に優しくするなんて。

「ありがとう」

少しずつ口へ運べば、胃酸で傷んだ喉も潤っていく。

「さっきの話なんだが」

手元から視線を上げれば、言い淀む彼がいた。

「赤井さんは送ってくれただけだよ。彼とは何もない」
「……それにしては、随分と親しそうに見えたが」
「そう? あの人には家庭もあるし、間違いを起こそうなんてお互い思わないよ」
「…………は? 誰が家庭だって?」
「赤井さん。私も一緒に結婚式行ったし、この前お子さんが産まれたって話、……覚えてないか」

面食らっている彼をよそに、赤井さんのお宅を思い出す。
奥さんの実家のある日本に本宅を置いて、赤井さん自身は単身赴任の形でアメリカにいる。しばらくしたら赤井さんもこっちに住むか、子育てが落ち着いたら奥さんも向こうに渡るか考え中だそうだ。赤井さんも子供が可愛いようで頻繁に日本に来ている。

はーっ、と長く大きい溜め息をついて、彼は椅子に沈む。呆れ、脱力、そしてほんの少しの安堵。……それは、私の願望が入りすぎているだろうか。



ふと、彼の顔の違和感に気付いた私は、そっと手を伸ばして頬に触れた。

「……っ!」
「ねむれてないの?」

私の突然の行動に息を飲んだ彼は、そっと視線をさ迷わせた。コンシーラーで隠しきれていない隈を親指でそっとなぞる。

「た、ぶん、あなたがいなくなってから、ずっと、ずっと眠れていないんだ。やっと眠りにつけるのは、女の体が側にあるときで。でも、身体が反応しないから抱いたことなんかない」
「反応……」
「その、つまり、起たないんだ」

今の私にはその言葉すら疑わしい、と言ってしまいたいのに、それができなかった。
彼は叱られた子犬みたいに俯いて、目線をそらす。その姿が、れーくんと重なったからだ。記憶を無くしても、同じ彼だとわかっているのに。
しどろもどろに言葉を詰まらせながら、彼は弁明する。

曰く、不眠症ぎみなのだと。
女の肌があると、眠れる。惚れ込まれても困るから、毎晩違う相手を見繕う。

「眠れてないって、いつもそう言ってる」

立場上、とても危険なことをしているのはわかっているはずだ。それでも、睡眠時間が短ければ脳の動きは鈍り、仕事に支障が出てしまうから。
私が、おしえたこと。

「それ、私じゃだめかな」

れーくんとは必ずと言っていいほど一緒に寝ていた。僕のライナスの毛布、と言っていたことがある。
それによる弊害ならば、解消も私がすればいい。

「貴方にとっては表向きでも、私という妻がいるのだから、利用すればいいよ」

もし彼の記憶が戻らなかったとしても、私は彼を愛する。

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