医師のその言葉で、僕の記憶は全て戻った 2
僕には何一つ不足など無いはずなのに、どうして僕は泣いているのだろう。
入院生活を終えて自宅に帰ったとき、空白があることに気がついた。 空いた靴棚や食器棚の中身。飾り棚に残った不自然な埃の跡。買った覚えの無い家具が納められた部屋には、使った形跡があるのに中身は空っぽの衣装ケースがあった。 まるで、そこにいたはずの誰かが消えてしまったみたいに。入院前と同じように暮らすほど不自然な痕跡が見つかる。 そもそも、この家は単身の僕一人で住むには広すぎる。セーフハウスはいくつもあるというのに、いつの間にか帰る足はこの家へ向いていた。
退院してから変わったことと言えば、睡眠障害を発症したことだ。一人だとうまく眠れなくなったのだ。やっと眠りについても浅く、すぐに目が覚めてしまったり。まあそれについては、適当な女を見繕って傍で眠ると改善された。どうやら女の肌が近くにあると深く眠れるらしいのだ。潜入任務でターゲットの女に取り入ろうとしているうちに、うっかり眠りに落ちてしまったのだ。薬を盛られているわけでもなかった。その時は結果的に、気を許されていると勘違いした女を巧く使うことができたが。 しかし、どの女も抱いていない。本来の僕なら女に触れるなど怖気がする。もちろん勃ちやしない。
━━誰か、たった一人、大切な人がいたから、その人以外の女を避けていたはずだったのに。
はっと我に帰る。 僕は今何を考えたのだろう。たった一人など僕にはいなかった。昔から僕は女嫌いだったじゃないか。その目に情欲を灯してすり寄ってくる女達を、心底軽蔑していた。しかしその肌が無いとろくに眠れなくなっているのも事実で。
集中できなくなり手にしていた書類を机上に投げる。はあ、と溜め息を吐いて眉間を押さえていれば、風見が口を開いた。
「降谷さんは最近、それを使わなくなりましたね」
それ、という言葉と共に、風見はとんとんと胸ポケットを指で叩いてみせる。視線を追って自身の胸ポケットを見る。そこに入っているものは、手帳だった。 こんなもの、入れた覚えがない。薄いそれの表紙を見てから無造作に開けば、隙間からひらりと何かが落ちた。 風見はいつの間にか退席していた。床に落ちたそれを拾い上げて、しげしげと眺める。 何の変哲もない、押し花の栞だ。ラミネート加工されたそれは、僕の目と同じ蒼色をしているように見えた。光に翳しても、他には何も入っていない。
「……あれ」
気付けば目から滴が溢れていた。あとからあとからあふれでてくるそれは、どうしてか止まりそうにない。どうして、どうして。……なんで。
なんでこんなに、胸が空っぽなんだろう。
いつからか、僕の心には空虚だけがあった。何処へ行っても世界は灰色で、何を見ても心は動かない。こうじゃなかったはずだ。世界の彩りは、この胸の孔は。 止めどなく溢れる涙を流しながら、栞を握り締める。
「ぅ、……ああ、っ、く、うっ」
かなしい。くるしい。むなしい。さみしい。 どうしてあの人はここにいない。世界から色が消え去ってしまった。 溢れ出る感情に戸惑うことしかできない。 涙腺すら痛むほど涙を流していたとき、ふと、頭をよぎった。それは、僕が入院していたとき、一度だけ見たあの顔。 喉のかわいた人が水をほしがるように。舌に載せられた水を今すぐに飲み込もうとするように。 僕はその人を渇望している。 ━━彼女は、誰だ?
「……過去の経歴に不審な点は無かった。周囲に怪しい人間もいない。現在の職もシロ」
ゼロの協力者でもなく、監視対象でもない。平凡な、普通の人間。そんな女が、戸籍を勝手に弄ったなどとは考えられない。
「僕が記憶障害を起こしていることは、風見を問い詰めて吐かせた」
目の前の彼女が長らくこの家に住んでいたことは、このマンションのエントランスに設置された監視カメラからわかっている。彼女が住んでいて荷物を運び出したとすれば、不自然な空白にも納得がいく。自分がそこにいた証拠を消せるほどの技術も余裕も持っていないのだろう。
「君が、僕の妻なのか」
調べたところ、出会いは彼女がまだ小学生の時らしい。事故に合いかけた彼女を僕が助けて、それから交流が始まったのだと。
「気味が悪いなら籍を戻してもらってもかまいませんよ」 戸籍の操作くらい容易いことでしょう? と弱々しく笑う。 「いや、君にはここに居てもらう。荷物を戻しておけ」
彼女はぱちりと瞬きをして目を見開いた。予想だにしていなかったのだろう。 公安にも組織にも関係の無い平凡な人間なら、……記憶をなくす前の僕が本当に愛した人間ならば。傍に置くことでこの現状を変えられる筈だ。記憶を取り戻す手掛かりになるかもしれない。たとえ、彼女の記憶を無くしたことで仕事に支障が無かったとしても……いや、支障はもう、出ているのだが。
「……い、嫌」 「何?」 「この部屋にはもう戻らない……っ」
絞り出した声に耳を疑う。
「君は僕と出会って長いんだろう? 妻としての情もあるはずだ。記憶が戻るように手伝おうだとか、生活を支えようとは思わないのか?」 「情……っ? あなたは、私のことを妻だなんて思ってないでしょう!? それに、支えるなんて、」
張り上げた声はすぐに萎む。
「……私の方が潰れてしまいそうなのに」 苦虫を噛むような表情で、細く呟いた。
「監禁してでも、ここに居てもらう。監禁が嫌なら大人しく従ってくれ」 「……あなたは、私をどうしたいの?」 「僕は……」
「記憶を、取り戻したいだけだ」
その家には可能な限り帰るように努めた。そうでなければ、出ていこうとする彼女をわざわざ引き留めた意味がない。
彼女は仕事を続けていた。社宅に運び出していた荷物は戻さず、最低限の着替えのみをこの部屋に置いているようだった。
「おかえりなさい」 「……」
珍しく夕方に帰宅すれば、リビングでスーツのジャケットを脱いでいる彼女がいた。彼女も仕事帰りなのだろう。
ふと、彼女の鞄に付いているパスケースが目に入った。 惹き込まれるように手に取り、中身を取り出して見る。 透明なフィルムでラミネートされた、何か、だった。ぱっと見では中身を判別することができない。恐らくは、もともとラミネートしてあったものをもう一度被うように加工したのだろう。内側には溶けて歪んだフィルムの痕があった。 そして、焼け焦げた植物のようなこれは何だ。 黒く変色した押し花のような。 一見、おぞましいものに見えるのに、なぜ彼女はこんなものを持ち歩いているのだろう。 「なにをしてるの」
淡々とした声に顔を上げる。咎めるような色は無く、彼女はじっとこちらを見ている。 「っ……いや、なんでもない。……夕食は」
……まあ、僕には関係無いか。似たものを、見た気がするんだが。 思考を隅に追いやり、パスケースを元に戻す。
彼女は居を移さず、いつでも出ていけるようにしているようだ。仮にも夫婦だというのに。まあ、初日の様子からすれば当然か。彼女は、僕に対して一線を引いた態度をとっている。
「ごめんなさい、すぐに用意しますから」
夕食の準備を始めた背中を見つめながら考える。 夫婦ということは、男女の営みもあったのだろうか? 形だけの契約結婚なら全く無かったのかもしれない。しかし、彼女が小学生の頃からの知り合いというのは、契約結婚の表向きの設定としてはあまりにも不自然だ。信じられないことだが、僕と彼女はお互い愛し合って結婚したのだろう。 けれど、まるで家政婦のように立ち回る彼女からは、女の劣情を匂わされたことがない。 夫婦なら、身体を求めることがあってもおかしくないんじゃないか。 脳内にかかった靄は晴れず、眉を寄せる。
「なあ」 「はい、どうかしました?」
呼べば、作業の手を止めてこちらに近付く。相変わらず一歩引くような敬語に苛々する。首を傾げた彼女の腕を引いてソファに身を倒させた。
「……溜まってるんだ。これも妻の務めだろ?」
彼女の表情が固まる。迷うように視線を揺らして、決心したように見上げてきた。瞳に怯えは浮かんでいなかった。
「欲の処理だけなら、付き合います」
伸ばされた手は僕のベルトにかかる。 戻る
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