医師のその言葉で、僕の記憶は全て戻った 1


遠い昔に思いを馳せながら、彼が目覚めるのを待っていた。
強く頭を打ったらしい彼は、意識不明のままひっそりと入院していた。いつも詳しい事情は教えてもらえないから、聞かないようにしていた。
病院のベッドの上。私は彼の手を握って、その瞼が綻ぶのを待っていた。
命に別状は無いと聞いていた。それでも、たった一瞬、手から零れ落ちただけで誰かを失ってしまうと私も彼も知っている。だから、私は彼の傍を離れたくなかった。
そしてついに、やっとその瞼が動いたのだ。長い睫毛が縁取る目、その隙間から宝石のように透き通った色をした瞳が見える。眠り姫や白雪姫の目覚めを思わせるような美しい光景だった。

「……誰だ、君は」

歓喜に彼の名前を呼ぼうとした私の喉は凍りついた。
彼の目が覚めて私のことを視認した瞬間、握っていた手を振り払われた。同時に向けられた、猜疑と警戒の視線。そんな目で見られたのは初めてだった。いつだって、とろけるような甘い瞳で私を見ていたのに。
我に帰り、すぐに風見さんに連絡する。きっと数分もしないうちに来てくれるだろう。私は逃げるように病室を出た。

力ずくで振り払われた手が痛かった。


風見さんといくらか質疑を交わした末に、彼に記憶障害が起きていることが判明した。それも特定の人物、……叔母、そしてその生まれ変わりである私のこと。頭を強く打ち付けた際に、すっぽりとその頭から抜けてしまったらしい。

触れた手を払われた、嫌悪の瞳で睨まれた。たったそれだけのこと。それだけのことで、彼と家族でいたいと思った心が揺らいだ。
可愛がってきた甥に拒絶されて、私はそれなりに傷付いたようだ。そんなことを考えて、乾いた笑みが口の端から溢れる。……ああ、もう甥じゃない、血の繋がりなんかとっくに無かったんだった。だから代わりに繋げたはずの、胸元の指輪を握る。

十六で籍を入れ、高校卒業と同時に彼と同じ家に住み始め、私は現在二十歳を迎えていた。
病院から出て、すぐに私は決めた。一緒に住んでいた家を出よう。見知らぬ女が同じ家に居るなど耐えられないだろう。そうでなくとも追い出されるのは目に見えている。……あんな視線で、私を見るくらいだ。きっと私の方が耐えられない。彼との血の繋がりがなければ、彼が私のことを忘れてしまったら、いったい何が私たちを繋いでくれるというのだろう。容易く解消できる戸籍など、目に見えない絆などどうしてそんなものにすがっていられたのだろう。片方が拒絶して振り払ってしまえば、伸ばした手は誰も掴んでくれはしないのに。

一人で生きていくために、前世のツテを使って就職した。街中で遭遇した鈴木相談役に「降谷か?」と声をかけられたのだ。
兄の息子である甥の名字が降谷ということは、兄の妹である私の名字も降谷だった。もちろんそれは前世での名字で、転生した私の名字は違う。彼と結婚したので再び降谷になったのだ。
つまり、私のことを降谷と呼ぶのは、彼と結婚してから知り合った人か、前世の知り合いだ。
前世での知り合いである鈴木相談役は何も聞かずにウインクしていた。前世とは違い高卒の私に、前世と同じ仕事をくれた。ありがたい。しかもなんと次の春から大学に通えるようにしてもらった。曰く「お前ほどの人材を学歴一つで使えなくなるなんぞ、あまりにもデカい損失じゃわい」。彼に出逢っていなければ、鈴木相談役に一生ついていってた。次郎吉様様である。
しかも前世で使っていた社宅も同様に与えられた。彼の家に置いていた荷物をひとつ残らず持って行った。他に行く宛が無かったのだ。結婚して家を出た娘が実家に帰っては、両親にいらぬ心配をかけることになる。そのせいで彼のことを誤解されては困るのだ。

そうして彼と暮らした部屋を出て数週間。
ここ最近、体調が悪いので病院に行ってきた。今はその帰りである。
随分前からいろいろとお世話になっている風見さんとは密に連絡を取り合っている。職権乱用する彼に何かと振り回されているのは合掌ものだが、私も風見さんのことを頼りにしている。仕事中の彼の様子などを教えてもらったりしていたのだ。様子がおかしければケアが必要だったから。
さてその風見さんには、私が別居を始めてからも彼の近状報告をお願いしている。彼が退院してからは「仕事は詰まっていないのに、あまり眠れていないらしい。隈が酷い」と聞いていた。しかし、ここ一週間のまとめとしては「毎晩違う相手とホテルへ行っているらしい」というところだ。曖昧に言葉をぼかしていたけれど、つまりは浮気調査になってしまった。風見さんには申し訳ない。
浮気とは言っても、そもそも彼には「妻がいた」という記憶も無いわけだ。本人には浮気の自覚がない。とはいえ、テキトーにひっかけた女の人を毎晩ヤり捨てているのはいかがなものかと思うけれど。女性に優しくしなさいと教えてきたつもりだったけれど、こうも正反対になってしまうとは思っていなかった。うーむ。まさかこっちが素だろうか。
それでも隈がいくらかマシになっていると言うから、夜の運動の後はよく眠れるとでも言うのだろうか。ほおーう、顔が良いと引く手数多だろう。
病院からの帰路、風見さんからのメールがあった。開けば「すみません」の一言。おや、なにか謝らないといけないことでもしたのだろうか。
歩道を歩きながら首をかしげる私の隣に、白い車が停まった。

「……乗れ」

謝らないといけないこと、したんだなぁ……。
何かあったときのためにと、今住んでいる所を風見さんには伝えてあったのだ。何かがあって、彼にバレたのだろう。それはまだ、いいんだけど。
まさか本人が私の所に来るとは思わないじゃないか。


「風見を使って僕のことを嗅ぎ回ってるのは君だな」

誘拐同然で車に乗せられたのは随分と久しぶりだ。結局彼の部屋に戻ってきてしまった。
確信を持って発せられた言葉に肯定を返す。じっとこちらの瞳を探るように見つめた彼は、机に何かを置いた。シャラ、と小さく音をたてて置かれたのは、チェーンに通された指輪だった。私の胸元にあるものと同じデザインのもの。つまりは、二人の結婚指輪だ。
結婚当時、私は学生だったためあからさまに指輪は着けられなかった。そして彼は結婚指輪を着けられるような仕事ではない。だから二人揃って指輪はネックレスにし、周囲の目から隠していた。卒業してからもその名残でネックレスのままにしている。

「この家からこれが見つかった。この指輪と対になる指輪を持ってるのは、君か」

先ほどよりも確信の色が薄くなった問い掛けに、また肯定を返す。すると、彼はソファに深く腰かけ、天井を仰いで溜め息を吐いた。

「僕は君を知らないのに、籍が入っていた」

片手で顔を覆って考え込んだ彼は、指の隙間から疑念のこもった瞳でこちらを見ていた。

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