10


「研二くん来てるわよー! 早く起きなさーい!」

母が階下から呼ぶ声が聞こえる。学校に行かなきゃ、そう思うのに身体がうまく動かせない。少し痛いような重いような。頭が鈍く痛みだしていることにも気付く。あ、きつい。
トトトトト、軽い足音が部屋に近付いてくるのが聞こえた。

「おはようなまえちゃん! 今日はお寝坊さんだね! 着替えるの手伝ってあげよっ、か……」

元気よくまくし立てられていた言葉が私の顔を見て止まる。頭を動かすことすら億劫で目線だけで窺うと、「顏、真っ赤だよ」と顔を覗き込んできた。そっと額に手が当てられる。自分より低い体温が心地よかった。

「なまえちゃんのお母さん! なまえちゃん熱出してる!」

ぼんやりとした頭に彼の声が遠く聞こえる。熱。そうか、だから調子がおかしいんだ。

「この子を病院に連れて行くから、研二くんは学校に行ってね」
「あ……う、うん……」
「寒くない? お水飲めそう?」
「ん……」

名残惜しそうな研二くんを見送ってから、母に抱えられて病院に行った。熱はもう上がりきっていて、薬を飲んで休んでいれば大丈夫だそうだ。ただの風邪だ。
薬を飲むために食欲がなくとも食べられそうなゼリーを買ってもらった。
研二くんへあげようと思って昨日はクッキーを焼いたのにな。渡しとこうか、と母に言われたけれど首を横に振った。今日は無理でも、元気になってから自分で渡したかった。






────
『私の話を聞いてよ!』
夢の中の自分が叫んでいる。
そうだ、風邪って症状が似てるんだ。

目を覚ますと外は薄暗くなり始めていた。ずっと眠っていたようだ。なんだか目覚めが悪い。
身体を起こそうとして、手を繋がれていることに気がついた。

「……研二くん」

彼は床に座り、ベッドの上に伏せて眠っていた。傍らにはランドセルが落ちている。学校が終わってまっすぐにここに来たのだろうか。
私の所に来てくれなくてもいいのに。いずれまた夫と出会って、一緒になる。そう決まっている。
ああ、でも、今もこうして違うことが起こっているんだ。
握られた手を握り返した。熱がもう下がっているのか、彼の手がとても温かかった。
握っていた手が動いたことに気付いたのか、彼が目を覚ました。

「あ……おれ、いつのまに……」

目元を擦って顔を上げた彼は、私の顔を見て驚愕した。

「どうしたの!? どこか痛い!?」
「え?」

頬に触れられてはじめて、自分が涙を流していることに気がついた。

「え、あれ……なんで」

とめどなく溢れる雫が布団を濡らしていく。
目覚めた時に研二くんが傍に居てくれた事が嬉しかった? 夫への裏切り行為に胸が傷んだ? 違う未来になっていくことが怖かった? 研二くんが目を覚ましたことにホッとした?
どれも私の中にある感情だ。けれどどれも涙を流す理由になるほどじゃない。
喪失感。
この胸にぽっかりと空いてしまった孔は何なんだろう。
思い出さなければならないこと、けれど思い出してはいけないこと。その欠片をほんの少し、取り戻した気がするのに。夢の内容がもう思い出せない。













彼女が熱を出した。
朝に見た彼女はとても辛そうだった。真っ赤な顔で、動くことすらままならない様子だった。学校を放り出してでも傍に居たかったけれど、そうはさせてもらえない。
放課後、「休みの日も行くのかよ」とクラスメイトに呆れた声をかけられながら、彼女の家へと走った。

ランドセルを放り出し、眠る彼女の手を握る。顔色は幾分か良くなっていた。そのことにほっとしたのか、つい眠りに落ちてしまった。
彼女がうなされ始めたことにも気付かずに。



「あ……おれ、いつのまに……」

握っていた手が動いて、目が覚めた。目を擦って顔を上げた時、見えたものに困惑した。彼女が泣いている。

「え、あれ……なんで」

俺が指摘するまで自分の状態に気付かなかった彼女は、自覚した途端、くしゃりとその表情を崩した。

「う、うっ、ひ……っ」

顔を両手で覆い、押し殺した声。
彼女の泣き顔に、あの日の光景が重なった。

「……っ」

その姿を見ていたくなくて、彼女を抱き締める。バクバクと嫌に鼓動が早くなった。冷や汗が額をつたう。
あの日とは違うと分かっているはずなのに。また彼女から嫌いと言われるのではないかと怖くてたまらない。
俺に「大嫌い」と言ったあの日は、人目も憚らず大泣きしていた。けれど今の彼女は、俺に泣き顔を見せまいと、泣き声を聞かせまいとしているようだった。
……彼女はいつからこんな泣き方をするようになったのだろうか。


「……ごめんね、けんじくん」
「いいんだよ。……落ち着いた? なにかあった……?」

優しい声音を心掛けて問う。

「わかんない……けど、こわい、ゆめを見た気がする……」

要領を得ない答えが返ってきた。けれど、彼女が隠し事をしているようには見えない。
彼女自身も、どうして自分が泣いているのかわからず困惑しているようだった。

「なまえちゃんのお母さん呼んでくるよ。お腹も空いてるよね」
「あ……」

立ち上がろうとしたとき、袖を引かれた。すぐにぱっと離されたけれど、これは引き留めようとしたのだろうか。

「ご、ごめん、なんでもな……」
「お泊まりしてもいいか聞いてくるよ」
「っ!」
「一緒に寝よう。そしたら、きっと怖い夢は見ないよ」
「で、でも……まだ治ってないし、うつしちゃうかもしれないから、お母さんがダメって言うよ……」
「熱は下がってるでしょ? 明日は学校休みだからうつしてもいいよ。……君はどうしたい?」
「え……」
「俺と一緒にいるの、嫌?」
「いや、じゃないけど、だって、こわい夢を見たからって、そんな、子どもみたいに……」
「俺たちは子どもなんだから、たくさんわがまま言っていいんだよ」
「でも、」
「……じゃあ、代わりに俺のわがままを聞いて」

我慢しようとする彼女の手を握る。
この子が頼ってくれないのは、俺が未だ彼女からの信頼を得られていないからだろうか。彼女の夫になるはずの男だったら、彼女は素直に助けを求められるのだろうか。
過ぎった考えを振り払う。
そうだとしても今、目の前のこの子は俺の裾を引いたのだ。

「俺が君と一緒にいたいから、今日は一緒に寝よう?」

首を傾げて問いかける。彼女はまた泣きそうにくしゃりと顔を歪めて、俺の手を握り返してくれた。

「……うん。いいよ」
「お風呂も一緒に入ろうね」
「えっ、それはヤダ」
「ちえーっ」

半分本気のつもりで言った冗談は却下されてしまった。俺と二人きりの時にしていることを思えば当然か。病み上がりの彼女にいたずらしたりはしないけれど、ちょっと触るくらいならいいかな? と思っていたことも黙っておこう。



無事にお泊まりを勝ち取った俺は、一旦自宅へ戻って着替えを持ち出した。
一緒にお風呂に入れないのは少し残念だけど。……まだ心配だからって押し切ってもよかったかもしれないな。
食事をして寝る支度も済ませて、あとはベッドに入るだけ。
それなのに、彼女は部屋の入口でもじもじと足を止めていた。後ろ手に何か隠して持っているようだ。

「どうしたの?」
「えっと……あの……ううん、やっぱり明日でいい!」
「えっちょっとまって待って気になるから!」

踵を返してリビングに戻ろうとした彼女を捕まえて引き留める。彼女の手に握られているのは小さなビニールの包み。中にはクッキーが入っていた。

「昨日作ったから、本当は学校が終わってから渡そうと思ってたの。でも熱出しちゃって」

しどろもどろに綴られる言葉もほとんど頭に入ってこなかった。
だって、これは、

「俺、に、くれるの?」
「っ、うん、……研二くんに、食べてほしくて」

その言葉が、俺にとってどれほど価値があるものなのか、彼女は知らない。好きな人がほんの少し心を傾けてくれただけで、こんなにも嬉しい気持ちになるなんて。
受け取ったクッキーを大切に荷物にしまい、彼女の頬へキスを贈った。

「ありがとう! 大事に食べるね」
「うん」

はにかんだ彼女の手を引いてベッドへ連れて行く。もう子どもは寝る時間だ。

「あ、やっぱりお母さんにお布団出してもらわない? 一緒に寝るのは、」
「いーの!」

電気を消してベッドへ上がる。
今日は彼女が悪い夢を見なくていいように、と約束したのだから。せっかく手に入れた、隣で眠る権利をみすみす逃すつもりはない。もちろん、異性が一緒に寝るのはよくない、と言われる年齢になるまでは強行していくつもりだ。

「今日はいたずらしたりしないから、ね?」
「し、しないんだよね? なら、うん……」

“今日は”って? “今日は”、だ。

ベッドの上で向き合って、手を握って眠りにつく。
小学生になる前なら、こんなこと何回だってしていた。
取り戻したんだ。取り戻せたんだ、俺の行動で、ちゃんと。これから先も、彼女の隣に居られるように。

「おやすみ、良い夢を」

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