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「研二くん来てるわよー! 早く起きなさーい!」
母が階下から呼ぶ声が聞こえる。学校に行かなきゃ、そう思うのに身体がうまく動かせない。少し痛いような重いような。頭が鈍く痛みだしていることにも気付く。あ、きつい。 トトトトト、軽い足音が部屋に近付いてくるのが聞こえた。
「おはようなまえちゃん! 今日はお寝坊さんだね! 着替えるの手伝ってあげよっ、か……」
元気よくまくし立てられていた言葉が私の顔を見て止まる。頭を動かすことすら億劫で目線だけで窺うと、「顏、真っ赤だよ」と顔を覗き込んできた。そっと額に手が当てられる。自分より低い体温が心地よかった。
「なまえちゃんのお母さん! なまえちゃん熱出してる!」
ぼんやりとした頭に彼の声が遠く聞こえる。熱。そうか、だから調子がおかしいんだ。
「この子を病院に連れて行くから、研二くんは学校に行ってね」 「あ……う、うん……」 「寒くない? お水飲めそう?」 「ん……」
名残惜しそうな研二くんを見送ってから、母に抱えられて病院に行った。熱はもう上がりきっていて、薬を飲んで休んでいれば大丈夫だそうだ。ただの風邪だ。 薬を飲むために食欲がなくとも食べられそうなゼリーを買ってもらった。 研二くんへあげようと思って昨日はクッキーを焼いたのにな。渡しとこうか、と母に言われたけれど首を横に振った。今日は無理でも、元気になってから自分で渡したかった。
──── 『私の話を聞いてよ!』 夢の中の自分が叫んでいる。 そうだ、風邪って症状が似てるんだ。
目を覚ますと外は薄暗くなり始めていた。ずっと眠っていたようだ。なんだか目覚めが悪い。 身体を起こそうとして、手を繋がれていることに気がついた。
「……研二くん」
彼は床に座り、ベッドの上に伏せて眠っていた。傍らにはランドセルが落ちている。学校が終わってまっすぐにここに来たのだろうか。 私の所に来てくれなくてもいいのに。いずれまた夫と出会って、一緒になる。そう決まっている。 ああ、でも、今もこうして違うことが起こっているんだ。 握られた手を握り返した。熱がもう下がっているのか、彼の手がとても温かかった。 握っていた手が動いたことに気付いたのか、彼が目を覚ました。
「あ……おれ、いつのまに……」
目元を擦って顔を上げた彼は、私の顔を見て驚愕した。
「どうしたの!? どこか痛い!?」 「え?」
頬に触れられてはじめて、自分が涙を流していることに気がついた。
「え、あれ……なんで」
とめどなく溢れる雫が布団を濡らしていく。 目覚めた時に研二くんが傍に居てくれた事が嬉しかった? 夫への裏切り行為に胸が傷んだ? 違う未来になっていくことが怖かった? 研二くんが目を覚ましたことにホッとした? どれも私の中にある感情だ。けれどどれも涙を流す理由になるほどじゃない。 喪失感。 この胸にぽっかりと空いてしまった孔は何なんだろう。 思い出さなければならないこと、けれど思い出してはいけないこと。その欠片をほんの少し、取り戻した気がするのに。夢の内容がもう思い出せない。
彼女が熱を出した。 朝に見た彼女はとても辛そうだった。真っ赤な顔で、動くことすらままならない様子だった。学校を放り出してでも傍に居たかったけれど、そうはさせてもらえない。 放課後、「休みの日も行くのかよ」とクラスメイトに呆れた声をかけられながら、彼女の家へと走った。
ランドセルを放り出し、眠る彼女の手を握る。顔色は幾分か良くなっていた。そのことにほっとしたのか、つい眠りに落ちてしまった。 彼女がうなされ始めたことにも気付かずに。
「あ……おれ、いつのまに……」
握っていた手が動いて、目が覚めた。目を擦って顔を上げた時、見えたものに困惑した。彼女が泣いている。
「え、あれ……なんで」
俺が指摘するまで自分の状態に気付かなかった彼女は、自覚した途端、くしゃりとその表情を崩した。
「う、うっ、ひ……っ」
顔を両手で覆い、押し殺した声。 彼女の泣き顔に、あの日の光景が重なった。
「……っ」
その姿を見ていたくなくて、彼女を抱き締める。バクバクと嫌に鼓動が早くなった。冷や汗が額をつたう。 あの日とは違うと分かっているはずなのに。また彼女から嫌いと言われるのではないかと怖くてたまらない。 俺に「大嫌い」と言ったあの日は、人目も憚らず大泣きしていた。けれど今の彼女は、俺に泣き顔を見せまいと、泣き声を聞かせまいとしているようだった。 ……彼女はいつからこんな泣き方をするようになったのだろうか。
「……ごめんね、けんじくん」 「いいんだよ。……落ち着いた? なにかあった……?」
優しい声音を心掛けて問う。
「わかんない……けど、こわい、ゆめを見た気がする……」
要領を得ない答えが返ってきた。けれど、彼女が隠し事をしているようには見えない。 彼女自身も、どうして自分が泣いているのかわからず困惑しているようだった。
「なまえちゃんのお母さん呼んでくるよ。お腹も空いてるよね」 「あ……」
立ち上がろうとしたとき、袖を引かれた。すぐにぱっと離されたけれど、これは引き留めようとしたのだろうか。
「ご、ごめん、なんでもな……」 「お泊まりしてもいいか聞いてくるよ」 「っ!」 「一緒に寝よう。そしたら、きっと怖い夢は見ないよ」 「で、でも……まだ治ってないし、うつしちゃうかもしれないから、お母さんがダメって言うよ……」 「熱は下がってるでしょ? 明日は学校休みだからうつしてもいいよ。……君はどうしたい?」 「え……」 「俺と一緒にいるの、嫌?」 「いや、じゃないけど、だって、こわい夢を見たからって、そんな、子どもみたいに……」 「俺たちは子どもなんだから、たくさんわがまま言っていいんだよ」 「でも、」 「……じゃあ、代わりに俺のわがままを聞いて」
我慢しようとする彼女の手を握る。 この子が頼ってくれないのは、俺が未だ彼女からの信頼を得られていないからだろうか。彼女の夫になるはずの男だったら、彼女は素直に助けを求められるのだろうか。 過ぎった考えを振り払う。 そうだとしても今、目の前のこの子は俺の裾を引いたのだ。
「俺が君と一緒にいたいから、今日は一緒に寝よう?」
首を傾げて問いかける。彼女はまた泣きそうにくしゃりと顔を歪めて、俺の手を握り返してくれた。
「……うん。いいよ」 「お風呂も一緒に入ろうね」 「えっ、それはヤダ」 「ちえーっ」
半分本気のつもりで言った冗談は却下されてしまった。俺と二人きりの時にしていることを思えば当然か。病み上がりの彼女にいたずらしたりはしないけれど、ちょっと触るくらいならいいかな? と思っていたことも黙っておこう。
無事にお泊まりを勝ち取った俺は、一旦自宅へ戻って着替えを持ち出した。 一緒にお風呂に入れないのは少し残念だけど。……まだ心配だからって押し切ってもよかったかもしれないな。 食事をして寝る支度も済ませて、あとはベッドに入るだけ。 それなのに、彼女は部屋の入口でもじもじと足を止めていた。後ろ手に何か隠して持っているようだ。
「どうしたの?」 「えっと……あの……ううん、やっぱり明日でいい!」 「えっちょっとまって待って気になるから!」
踵を返してリビングに戻ろうとした彼女を捕まえて引き留める。彼女の手に握られているのは小さなビニールの包み。中にはクッキーが入っていた。
「昨日作ったから、本当は学校が終わってから渡そうと思ってたの。でも熱出しちゃって」
しどろもどろに綴られる言葉もほとんど頭に入ってこなかった。 だって、これは、
「俺、に、くれるの?」 「っ、うん、……研二くんに、食べてほしくて」
その言葉が、俺にとってどれほど価値があるものなのか、彼女は知らない。好きな人がほんの少し心を傾けてくれただけで、こんなにも嬉しい気持ちになるなんて。 受け取ったクッキーを大切に荷物にしまい、彼女の頬へキスを贈った。
「ありがとう! 大事に食べるね」 「うん」
はにかんだ彼女の手を引いてベッドへ連れて行く。もう子どもは寝る時間だ。
「あ、やっぱりお母さんにお布団出してもらわない? 一緒に寝るのは、」 「いーの!」
電気を消してベッドへ上がる。 今日は彼女が悪い夢を見なくていいように、と約束したのだから。せっかく手に入れた、隣で眠る権利をみすみす逃すつもりはない。もちろん、異性が一緒に寝るのはよくない、と言われる年齢になるまでは強行していくつもりだ。
「今日はいたずらしたりしないから、ね?」 「し、しないんだよね? なら、うん……」
“今日は”って? “今日は”、だ。
ベッドの上で向き合って、手を握って眠りにつく。 小学生になる前なら、こんなこと何回だってしていた。 取り戻したんだ。取り戻せたんだ、俺の行動で、ちゃんと。これから先も、彼女の隣に居られるように。
「おやすみ、良い夢を」 戻る
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