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11/7

「……あれ、ない」

夕食の材料を一つ買い忘れてしまった。今夜のために特別な食事にしようと思っていたのに。






『今日、帰ったら大事な話があるから』

朝、玄関で彼がいつになく真剣な表情で私を見た。

『とびきり美味しいケーキを作って待ってて』

その真っ直ぐな瞳は、いつも──私を口説く時の眼だ。好きだよ、と言葉にして、もちろん言葉がなくとも。そのまなざしだけで、焦がれるほどの愛を伝えてくる。
ゆるむ頬もそのままに頷いて、彼を仕事へ送り出した。


彼と付き合い始めてから五年の歳月が経っていた。
彼の気持ちを素直に受け取れるようになるまでに、とても長い時間がかかってしまった。
私から好きと伝えられるようになるまで、前回込みでさらに長い時間があった。けれど、それももう大した問題ではない。これからそれよりももっと長い時間、彼の隣にいることができるのだから。
そう、私は『大事な話がある』と言われて別れ話が出てくると思わないくらい、彼と密度の濃い時間を過ごしてきたのだ。

彼が警察学校を卒業してから、同棲を始めた。
交番勤務を経て、希望した部署にも配属されて、仕事も落ち着いてきたのだろう。
とうとう──プロポーズされるんだ。
えへえへ、と軽い足取りで夕食の買い出しに行った。……そんなふうに浮かれていたから、買い忘れなんてポカをやらかしてしまうのだ。
人間なのだからそういうこともある。けど、メモにだってちゃんと書いていたのに。
しかも、近くのコンビニやスーパーには売っていないのだ。数駅先の大きい店にしか置いていない。
また外に出ないといけないことにうんざりしながらエプロンを外した。今更献立を変えたくないし。ケーキのスポンジを冷ましている間に買いに行こう。


目的の食材を確保し、駅までの道を歩いていた。
いつもであればついでに本屋へ寄ったりしただろうけど、今日の私にはやらなければならないことがあるのだ。
仕事も今日はどうしてもと請われて休みを取っていた。
何かの記念日だった覚えはないから不思議だけれど、問題はない。これから今日、この日が記念日になるだけなのだから。
今日の夕食も、デザートはどうしても私の作ったケーキがいいと言ってくれたのだ。腕によりをかけて作るつもりだ。苺ののったショートケーキを。

──幸せだなぁ。
身に余るほどの幸福を与えたくれた人。私も彼に、同じものを返していきたいと──

「なまえ?」

名前を呼ばれた。
懐かしさすら感じる声だった。

頭が真っ白になって、心臓がバクバクと音をたてる。

足を止めてしまったから、聞こえていないふりもできなかった。

どうして、

「やっと、会えた」

肩を掴まれて振り向くしかなかった。

どうして今更。

「……久しぶり」

優しくほほ笑むその人は、私の夫だった人だった。





話がしたいからどこか入ろう、と言われ頷いた。
断ったら連絡先を交換することになるかもしれない。生肉や冷凍品がないため口実にすることも出来ない。それに、多くの荷物を抱えていたところで、運ぶのを手伝うよ、と言われるのが目に見えている。この人が家まで来てしまったら、彼と鉢合わせるかもしれない。
……それは、あってはならないことだ。
できるだけ後を濁さずにこの人から離れないと。

「そっか、製菓店で働いてる……お菓子作るの、好きだったもんな」
「うん」

鼓動が嫌に煩い。これが恋の高鳴りなんかじゃないことはとっくに知っている。この人に対してそんな感情を抱いたことなんて一度も無かった。
それでもこの人に愛されているのなら、それに報いようと、だから私はずっと……

「……会えて、よかった。これでまた一緒に住めるな」
前よりもっと良い家を建てるし、母さんも一緒に住んでもらうし、もちろん仕事だってしなくていい。

並べ立てられる言葉はどれも私の胸を打たない。
いつ私がそれがいいって言ったの。
そう言ったら私が喜ぶとでも思ったの?
私がどうしたいかなんて聞いてもくれない。

高校生のあの日、研二くんの手を取った時から、自分の気持ちを否定しなくなった。素直に好きと伝えられるようになった。……あの日、もう、過去を振り返ることはしないと決めた。
たとえ盲目的に信じていた赤い糸を断ち切ることになっても。私なんかを選んでくれた人だからじゃなくて、私が選んだ人とこの先を歩いていきたいと思った。
そう思わせてくれたのは研二くんだった。

「ひとまずこれから──」
「わたしっ、今、付き合ってる人がいるの」

相手の言葉を遮って絞り出す。
固く握った拳が冷たい。

「今はその人と住んでて、だから……っ」
「そっか」

穏やかな声が耳に届いて、ぱっと顔を上げる。

「わかったよ」

困ったような表情で笑っていた。
わかって、もらえた……?
拍子抜けするほどにあっさりと、相手は引いてくれた。そうだきっと、この人も別の人生を歩んできたんだ。私のように。考え方が変わることだってあるかもしれない。

「そろそろ出ようか。買い物、途中だったんだろ?」
「あ、う、うん」

自分のコーヒー代くらいは払いたかったが「女性にお金を出させるなんてみっともないことさせないでくれよ」と言われてしまえば何も言えなかった。こういうところは全然変わってないんだね。

「それじゃあまた。気をつけて」
「……? うん、ありがとう」
私はまた会うつもりはないけど。そんな冷たいことをわざわざ伝える必要は無い。
駅まで送ってもらい、彼とは反対方向の電車に乗って別れた。










電車に乗り込んだ妻をホームで見送った。
少しずつ地面がズレていく。笑顔で送り出した。

「……また、後で」












夕食の準備を済ませた頃、今から帰るから、と研二くんからメッセージが入った。
外はもう真っ暗だ。不測の事態はあったけれど、もう終わったことだし。
メインの仕上げは彼が帰ってきてからにしよう。スープはこれから温めれば間に合うかな。サラダも盛り付けたし、ケーキも万全の状態で箱に入れた。
子どもの頃に作ったものとは違って完璧の仕上がりだ。綺麗な円と、華やかなクリームで飾り付けて、真っ赤な苺が輝いて。
彼の喜ぶ顔を思い浮かべて頬がゆるんだ。いつものようにキスの雨を降らせてくるだろうか。「大好きだよ」って言うから私も「大好きだよ」って返すんだ。
にへにへと笑いながらスープを温めていたら、後ろから抱きしめられた。

「きゃっ」

嗅ぎなれた香りに振り向くと、今一番愛しく思っていた人だった。

「研二くん、おかえりなさい」
「……ただいま」

コンロの火を止める。肩に彼の額が埋められて、お疲れ様の気持ちを込めて少しだけ擦り寄る。
買い忘れをした話がしたい。これを作ったんだよって話をしたい。研二くんが好きなメニューだよって。メインを仕上げておくから手を洗っておいでって。今日も研二くんが無事に帰ってきてくれて嬉しいって。

「今日さ、誰かと会ったりした?」

──頭が真っ白になった。

先程までの浮かれていた気持ちは全て吹き飛んで、心の臓まで冷たくなるような心地だった。

「……な、んで、そんなこと聞くの?」

見られていた? 聞かれていた? 人から聞いた?
会話の内容まで知られてしまったのだろうか、いや、内容もなにも、近況を話して、一緒に住もうと言われて断った。疚しいことなんてひとつもない。

「聞き方を変える。今日一緒に居たの、誰?」
「同じ高校だった人だよ」

嘘だ。元夫と同級生だったのは前回だけで、今は別の高校を選んだのだから。

「そいつと仲良かったんだね。知らなかった」

抱きしめられていた腕が解けて彼と向き合う。目を合わせられるはずもなかった。


「たまたま会って少し話しただけ。黙ってたわけじゃ……」
「黙ってるつもりだったんだろ。現に今、ずっと言葉を探してる」

そうだよ、だって過去のせいで今の幸せが壊れてしまうのが怖かったの。

私が、違う人生を歩んだことがあると言ったら、彼は何を言うのだろうか。大嫌いと突き放したと知ったら、どんな顔をするのだろうか。他の人と結婚していたと知ったら、彼は何を思うのだろうか。
恥ずべき過去を無かったことにして生きてきた私に、全てを打ち明けるなんて勇気はこれっぽっちもなかった。

「言いたくなかったんだろ! 俺には!」

ぐしゃ。
聞いたことのある音。
もう一度真っ白になった頭の中に蘇ったのはあの日の光景だ。
仲直りをしたくて作ったケーキがぐしゃぐしゃに潰れてしまったあの日。

「あ……」

私のケーキが食べたいって。
とびきり美味しいケーキを作って待っていて、って言ったのはあなたなのに。

横倒しに床に落ちた箱の中身は見るまでもなく、無惨に潰れてしまっている。

「……研二くんなんて、」

あの日の光景が重なるままに口に出して、我に返って言葉を止めた。
その言葉を放ってしまったら、本当にあの日と同じになってしまう気がした。

激情に任せて部屋を飛び出す。彼がどんな表情をしているかなんて、一度も見ることは出来なかった。






……これからどうしたらいいんだろう。
マンションのエントランスから出て数歩で立ち止まる。
あとからあとから流れ出て溢れる涙をぬぐった。
突然出てきたからサンダルで、財布も鍵もケータイも持っていない。家族や友人に連絡を取る手段が無い。どこか遠くに行くことも宿をとることもできない。
とっくに日は暮れて、真っ暗なこの街は女の一人歩きができるほど治安は良くない。
十一月の初めはもう冬の入口だ。薄着のままカーディガンすら羽織っていない身体が冷えていく。
もう少し頭が冷えるまで、近くの公園で休んでいよう。そうすれば、素直に部屋に戻れるかもしれない。

……研二くんが迎えに来てくれたりしないだろうか。
彼はとても怒っていた。男の人と会っていたことだろうか、それを黙っていたことだろうか。
彼が嫉妬している姿は私も何度か見たことはある。けれどそれは、不満そうに唇を尖らせる程度の可愛らしいものだったはず。
怒りをあらわに取り乱しているところなんて、見たことがない。
もしかして、嫉妬や怒りじゃなくて、不安……だろうか。
私が他の人のものになってしまいそうで不安だった?
……私はちゃんとケーキを作って彼の帰りを待っていたのに。
ケーキの末路を思い出してまた涙が滲む。

ダメだ、まだ冷静になれそうにない。
小さく溜息をついて、一先ず近くの公園へ、と足を向けようとした時、声をかけられた。

「遅かったじゃないか」

優しい声。
頭の中で警鐘が鳴っている。
周囲にはその人と、私しかいない。声をかけられたのは私だ。反応出来なかったのは、この場所にいるにはずの無い人の声だったからだ。
研二くんが来てくれたのなら、その声は今私が出てきたマンションの方からするはずだ。公園に行こうとした私の進行方向からするはずが無い。

「ちゃんと別れてきたんだろ?」

知っている声なのに、何を言われているのかわからない。
何を言っているの? 遅かったって何? 私が出てくるのを待っていたの? いつから、どうして、

「どうして、あなたが……」
「寄り道をした妻を迎えに来たんだ。当然だろ?」

暗がりの中、その人の右手がきらりと光った。違う。反射だ。
その手に握られたものを理解した瞬間、私は反対方向へと走り出した。
全てを思い出した。
逃げなければ。逃げなければ。

きっとあの日のように、殺される。

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