彼女の訃報を聞いたのは、肌寒くなりはじめた、なんでもない秋の日だった。
ショッキングな表現があります。ほんの少しですが覚悟してください。
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花を一束買った。 店の前を通る時に見えた花に、少し前に彼女と行ったラベンダー畑を思い出した。僕の学校が長期休暇の時に彼女の出張が重なると、別の宿をとってよく連れて行ってもらった。 彼女が仕事をしている間に僕は観光をして、時間が合えば二人で街を見に行って──ラベンダー畑もその中の一つだった。 彼女に季節外れのこの花を買おう。贈った花を彼女の部屋に飾るんだ。大きな花束でなく、ささやかな花が彼女の部屋をずっと彩るように。僕の想いが彼女の心にずっと在るように。
春にはアネモネを、梅雨には紫陽花を、夏にはひまわりを。それぞれの季節に彼女と見に行った花々を。 花はなんだっていい。一輪のガーベラや、淑やかなかすみ草、絢爛な百合、愛を伝える薔薇だって。 きっとあの人は、僕から貰ったというだけで喜んでくれるだろう。
ひと足先に彼女の部屋へ。 合鍵を使って上がり、花瓶にラベンダーを生けた。 窓際に飾り、あの人の喜ぶ顔を思い浮かべて頬がゆるむ。
『ありがとう、れーくん! 大好きだよ』
そう言って抱き締めてくれるに違いない。 軽い足取りで彼女のベッドに倒れ込んだ。 ここに泊まる時は僕用のベッドを使っているけれど、決して彼女のベッドが嫌だとかそういう訳じゃない。むしろ、彼女の香りに抱き締められているような気持ちになるから好きに決まっている。 枕に顔を埋めると、彼女のシャンプーの香りと……もう一つ、違う香りがした。僕があげたピローミストの香りだ。 目の下に隈をたたえた彼女がゆっくり眠れるようにと選んだものだった。ああ、これもラベンダーだったか。 今日も彼女はいつも通り、夕方には帰ってくるはずだからここで待っていよう。 ラベンダーと彼女の香りに誘われて、ゆっくりと眠りに落ちた。
──幸せな夢を見た気がする。 ぼんやりした頭で周囲を見回す。部屋の中は薄暗く人の気配は無い。彼女はまだ帰ってきていないのか。 時計の針は彼女が帰ってくるはずの時間をとうに過ぎている。
電気をつけ、水を飲むためにキッチンへ行く。シンクにはフライパンなどの調理器具が残っていた。いつもなら綺麗に片付けられているはずなのに。 見たところ、僕と食べるための夕食を準備したあとのようだ。 彼女に褒めてもらえる種を逃したくない僕はシンクを片付けた。全てを洗ってから排水口のごみの水気を切り、臭いの漏れない袋に入れてからキッチンのゴミ箱へ捨てる。
「……?」
ふと見えたゴミ箱の中には、ゼリー飲料のパックが捨ててあった。 これは何だろうか。 そういえば、シンクの中には食器の類いが無かった。僕の食事を作れるだけ作って、自分の食事をとる時間もなく慌ただしく部屋を出たのだろうか。 僕の食事の栄養に気を付け管理する彼女が、これを? そんな姿を、僕は、見たことが無い。
リビングから電子音が響き、肩が震える。 鞄に入れていた携帯端末がチカチカと光って、通知が届いてることを知らせていた。帰るのが遅くなると彼女からの連絡が入っているのかもしれない。きっと、もうすぐで帰り着く、と。 ……あの人、じゃ、ない。 着信履歴に表示されているのは父だった。何件も。悪戯でこんなことをする人じゃない。週末は僕があの人の部屋に泊まると知っているはずなのだから。 ……何かあったんだ。 いったい何が。誰かが事故にあったとか、怪我したとか。悪いことが、だって、父さんがこんなに電話を、母さんが?それともまさか、あの人が。 動けずにいるとまた電話が鳴った。僕を急かすように何度も震えて、僕は通話ボタンを押さざるを得なかった。
「……もしもし」 『零、────────』 「……あ、」
悪い予想が、最悪の形で突きつけられた。 なんてひどいことをいうんだろう。父はなにをいっているんだろう。ひどい冗談を、だって、はは。そんなはずない、だってあの人はまたねって言ったんだから。
あの人が約束を破ったことなんて無かったのに。
これから夕食なんだ、あの人はもうすぐ帰ってくるから、そろそろ温めないといけなくて。 「うそだ」 兄妹の父とあの人は、意外と似てるところもあって、それは、人に嘘をつかないところだって。
「嫌だ、僕は、帰らない」
あの人が帰ってきた時に、今日泊まるはずの僕がいなかったら悲しむだろう?
息が浅くなる。呼吸の仕方がわからない。脚をもつれさせながらあの人のベッドに逃げ込んだ。外の何者からも守ってくれる気がして。
あの人が死んでしまっただなんて、そんなふざけた話があるわけないじゃないか。
棺桶の蓋は開けられることは無い。
DNA鑑定のために、葬式は通常よりも遅く執り行われることになった。 遺体の判別がつかない程、損傷が激しかったのだ。爆破テロの現場はそんな遺体ばかりで、形が残っているだけ、まだマシなのだろう。 酷い冗談の可能性を捨てられなかった僕は、父の居ない隙に、棺の納体袋を開けた。見なければ、とても現実を受け入れられそうになかった。
……なにもわからなかった。 黒くて、でこぼこで、まともな色の肌は残っていなくて、輪郭すらも辿れないような。 こんなものが、あの人だというのか。 ああでも、この形は、この大きさは、焼けて少しだけ小さくなってしまった、あの人の──
「っ!」
足音が聞こえて、父が戻ってきたことを知る。急いで納体袋を閉じ、部屋を飛び出した。
「う、ぇ」
食欲もなく、ろくに入っていない胃の中を全て吐き出して蹲る。 せめて、顔だけでも見れていたら、綺麗な思い出として昇華できたのかもしれないのに。 現実は残酷だ。あの人は僕をおいて逝った。
あの日見た幸せな夢は、あの人が見せたのかもしれない。 虫の知らせとかさ、そういうもので、あなたの危険を僕に教えてくれたってよかったのに。 そんな時ですら、僕に悲しい夢を見させはしない人だ。
「……ずるいよ、ねえさん。わすれられるわけ、ないだろ」
葬式の前に見た、優しい白昼夢がなければ、きっと僕はこの先、生きてなどいけなかった。
「おかえりなさい、ねえさん」 「ただいま、れーくん。ねえ花瓶あったかな? これ飾りたいの」 「……っ」
彼女が手にしていたのは、ラベンダーと、かすみ草の控えめなブーケだった。思わず息を飲む。
「どうしたの? 記念日とかだったかな」 「ううん、ほら前にさ、一緒に行ったことあったよね。ラベンダー畑。なんか思い出しちゃって」
また行こうねー、とキッチンへ向かった彼女が言った。シンクの下の棚を開けて、ここじゃなかったかな?と首を傾げている。 視界が滲んで、たまらず蹲った。
「そう、だね……っ、また……」 「エッッッッッッッれーくんどうしたの!????? 何かあった!????」
ラベンダーと、彼女の香りが僕を包み込んだ。
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ラベンダーの花言葉「あなたを待っています」「期待」「沈黙」「疑惑」
かすみ草の花言葉「幸福」「感謝」「清らかな心」「無邪気」「親切」
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「思っていたよりも早かったな。……零が立派に育つまでは死ねないと言っていたじゃないか」 妹の遺影の前で、ぽつりと言葉をこぼす。 この頃は、隈が酷く、肌は荒れ、部屋の掃除や食事などの日常生活に気が回らないほど、妹は疲れ果てていた。 ああ、きっともうすぐ、妹は過労で死んでしまう。 零のために完璧でなければと、自身を追い詰める妹を止めることが出来なかった。 そして、その予感が的中する前に妹は事件に巻き込まれて死んだ。 ……たった一人の妹を護れなかった。
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