口火

どこをどう疾って来たか覚えていない。
只々衝動のままに、無我夢中で飛び回ったヒサナが落ち着いたのは見たこともない場所だった。
とりあえず門を越えてはいないのだから地獄だろう。
気怠げに見回せば、地獄にしては珍しく木々が生い茂っているから受苦無有数量処地獄にでも近いのだろうか。
行くあてもなく、人の身に変化したヒサナはふらふらする足取りで辺りに転がっている岩の一つに背を預け座り込んだ。
息が切れる。
胸を忙しなく上下させながら息を整えつつ、抱えた膝に額を預けた。

「思い…出した、思い出した」

頭痛の酷い頭で、その事実を確認するように繰り返し呟いた。
ヒサナは思い出した、何もかも。
自分がどうして鬼火になったのか。
只思い出すだけだったらよかったのだ。
只何かを怨み、呪って死しただけだったのなら。
その記憶に合わせて、彼の姿が過ったのがヒサナをこんなにも動揺させていた。
どうしよう、どうしたらいい。

「会えないよぉ…」

燃えるように熱い体をぎゅうと抱き締め、ヒサナは声を絞り出すように呻く。
相談したかった。
受け止めきれていない事実を、鬼灯に打ち明けたかった。
しかし、ヒサナは鬼灯から逃げ出してしまった。
彼の事、きっと今頃血眼になって探していることだろう。

「鬼灯様…っ」

彼に知られたら、どんな顔をされるのか怖くてたまらない。
額を膝に擦り付け、ヒサナは過去の自分を恨んだ。
どうしてそのまま死んで輪廻に戻らなかったのか。
戻っていれば、こんなに苦しむ必要もなかっただろうに。
鬼灯はこの思いを抱いたまま生きて支障はないとは言っていたが、自分にはとても抱えきれなかった。
そうしてヒサナはまた繰り返し思い出す。
まだ変わらぬこの身と名で現世で生きていた頃の、死に至るまでの記憶を。






家が壊れるのではと思うほど屋根を打つ雨音で目が覚めた。

今日も雨か。

けたたましい豪雨の音に、ヒサナは顔をしかめた。
身を起こしてふと隣を見れば、共に寝たはずの母の姿は既になかった。

『おはよう母さん』
『おはよう。待っててねヒサナ、火を起こせたらもうすぐご飯なんだけど…』

竈に鍋が設置してあるが、その下の薪が湿気っているようでなかなか火がつかないようだった。
連日の雨では仕方がない。
もう充分乾燥させた木も無いのだ。

『私の服を使って母さん』

裾をつかんでヒサナが布を引き裂こうとすれば、それは母の手によって止められた。

『あんたそう言って、もうなん着燃してくれてるの。それはヒサナのお気に入りでしょう?今日は御座を燃すから大丈夫よ』
『でも部屋はどうするのよ』
『新しいのに作り替えようと思ってたところだし、大丈夫よ』

そう言って調理場から上がり、母は部屋の中央に敷かれた御座を丸めだす。
ヒサナも運ぶのを手伝い、竈へと突っ込んだ。
火を起こせばそれが端から燃え上がるので、更に奥へと押し入れる。
酷い煙を払いながら、さぁご飯にしましょうと母は両手を叩いた。

『父さんは?』
『橋の建設場で寝泊まりよ』
『また?』
『仕方がないじゃない。この間の雨で橋が流されてから、またこの雨で遅れてるんだもの』

ヒサナは皿の支度をしながら、くり貫いただけの窓から外を見る。
地へと叩きつけるように降る雨のせいでぼんやりとしているが、彼方に大きな橋が見えた。
この村は山と川にかこまれ、村と山を渡す橋は、雨季には酷い雨でもう何度も濁流に飲まれている。
幾度目か数えきれないほどの着工を迎え、それももうすぐ完成する。
そうしたら父も帰って来るだろう。
ヒサナも母もそう思っていたが、その日父は川に呑まれ、帰らぬ人となった。

『嘘!父さんが落ちたなんて!』
『すまねぇこの豪雨で、足を滑らせて川に…!』
『嘘よ…嘘だよっ』

その夜、騒々しく訪れた村人によって父が亡くなったことを知らされた。
母は泣き崩れ、私は知らせに来てくれた人にすがるしかなかった。
何度確認しても、父と同じく橋の建造に携わっていた村人は首を横に振るばかり。
隣で泣きわめく母の声よりも、外の雨音の方が勝っていた。
そういえばもう幾日、静かな夜を過ごしていないだろうか。

『そこでな、人柱をたてようという話が出た』
『…人柱?』
『あぁ、こう何度も橋を流されちゃ、川の神様が橋を建造するのを怒ってらっしゃるとしか思えねぇ。けど、山へ行くにはあの川を渡る術が俺達には必要だ。作るのにお前の父親だってそうだ、何人も連れていかれてる。な?神様に生け贄を捧げれば、少しは気を鎮めて頂けると思わんか』
『誰が…なるの?』
『神様が御決めになる。清められた白羽の矢が示した家の子が差し出される』
『そんなの…』
『大丈夫だ、もう決まった』

おいでと手招かれ、その手につられヒサナも外へ出れば村長や橋の建造に携わっている人たち皆が、家の回りに押し寄せていた。
父が死んだことを報告しに来たにしては、不自然すぎるほど手厚すぎる。
嫌な予感しかしない。
頭上から叩きつける豪雨に目を細めながら、村長が指差した我が家へと振り返り、示された家屋の屋根を見上げヒサナは目を見開いた。

そこには、猟に使うには丁寧に作り込まれた白い羽の矢が一本、雨に打たれながらも凛と深々突き刺さっていた。
それは間違いなく、祭り事の際に神器として使われる白羽の矢だった。

『おめでとう』
『おめでとうヒサナ』

お前が選ばれたのだと、口々に村人が言う。
酷く冷たい感覚がヒサナの全身を駆け、状況に頭が追い付いていなかった。
雨が流れ落ちる度、体が冷えていくようだった。
母はと震える体で視線を巡らせるが、家の戸は他の住人の壁によって塞がれていた。
この豪雨で外に母の泣き声は聞こえない。
つまりこの外の惨事も、母には届いていないだろう。
困惑に表情を歪めるヒサナの前に、村長が寄ってきた。

『神に選ばれたのだよ、おめでとうヒサナ』
『待…ってよ、母さんはどうするのよ!』

父を亡くしたばかりで、隣で泣き崩れていた母を思い出す。
その上娘もとなれば、母はどうなってしまうだろうか。

『人身御供に選ばれた家の家族は、村みんなで面倒を見てやるしきたりだ。だから安心してくれ』
『ヒサナ、お前の父親も浮かばれるだろう』

そうなのだろうか。
村長の言葉にヒサナの意思が揺らぐ。
私一人差し出されれば、この雨も本当に落ち着くだろうか。
亡くなった父も、それを望んだだろうか。

『実は話は出ていたんだ。今回の橋が開通まで至ったら、人柱をたてようと』
『そうだ、お前の父さんも賛成してくれていた』
『父さん、が…』
『村の為だ、わかってくれるね』

怖い。怖い。
地に足が着いていないような、三半規管が狂ったような不安定な感覚だった。
でも、父が命をかけてまでかけようとした橋ならば。
村のみんなが救われる事よりも、父が浮かばれるなら、母の暮らしが、楽になるなら。

『わ…かりました』

人柱をたてる人身御供は、白羽の矢がたった一家全員の場合もあれば、若い娘を差し出す場合も一般的であった。
何れにせよ、選ばれた家は逃れられないのだという事はこの当時は常識であり、拒否してもこの先この村で母子が生きていく術は既に無いだろう。

ヒサナの言葉に村人は彼女を褒め称えた。
母に会いたかったが、もう既に神に輿入れすることが決まった身だからと、そのまま私は村の社に入ることになった。
それから禊祓いを行い、川の神の元へ下る支度を進める。
それには数日を要したが、一つ一つをこなす度に怖くて怖くて仕方がなかった。
捧げられるといっても、それが死ぬことに変わりはない。
それも橋と川の人柱ともなれば、穴を掘って土に埋められるか、川に沈められるか。
どちらも恐ろしい死に方でしかなかった。
それでも、父が浮かばれるなら、母の暮らしが約束されるなら。
それだけを支えに、ヒサナは社の中で一人橋完成予定日を指折り数えながら過ごしていた。
雨は、多少弱まる日はあれど、ぴたりと止む日は一度もなかった。

ドンドンと、その日は社の戸を叩かれた音で目が覚めた。
朝食の時間にしては早いような気もしたが、日の高さも測れないので分からない。
外からのみ開かれる戸が解き放たれると、豪雨の中油を染み込ませた篝火をたいた村人がヒサナを出迎えた。

『橋ができた、ヒサナ』

その言葉だけで、全てを理解した。

四方を村の若い男衆に囲まれ、社を出る。
雨は相変わらず降り続けていた。
晴れない空を見上げ、足を止めると皆もヒサナを気遣ってか足を止めてくれた。

『大丈夫かヒサナ』
『あ、はい』
『そうか、行けるか?』
『…行きます』
『…そうか』

篝火を焚いた先頭の男がそう言うと、再びその小さな列は進みだす。
ヒサナの生家より社の方が橋には遠い。
ようやっと川沿いの道へ差し掛かると、点々とした家から他の村人が様子を伺っていた。
見送りか、好奇心か、人それぞれであろうがその視線をあまり見たくなくて、ヒサナは僅かに俯いた。

『可哀想に』
『ありがとう』
『せめて苦しまずに』

小さく丸まった背に、そんな声がかけられる。
足が震えるのは雨の冷たさだろうか。
恐怖と悲しさから涙が出た気がしたが、豪雨が顔を洗うように流れていくのでよくわからなかった。
ふと視界の端に、濁流を生む川がうつる。
これのせいで、この川のせいで皆が不幸になると憎々しげにヒサナは川を睨む。
雨が続かなければ、川が荒れなければ、父も死ぬことはなかったのに。

『可哀想にねぇヒサナ』
『ヒサナのお父さん、あれだけ生贄には反対していたのに』
『娘が該当する年だからでしょう?賛同者は娘も嫁いだ爺婆ばかりだもの。それじゃあねぇ…』

雨音に混じって、耳を疑うような会話が聞こえた。
まもなく村長や重役が待つ橋の前に辿り着く、そんな場所での会話だった。
内緒話のつもりだったのだろう。
しかしこの豪雨で相手に届くように発された声は、皮肉にもヒサナの耳にも届いてしまった。

『なん…ですって?』

ヒサナは顔をあげる。
雨が流れる髪の隙間から見れば、噂話をしていた女二人が、驚いた様子で口元を覆い奥へと引っ込んでいった。

『待って!』

詳しく知りたいと後を追おうとすれば、それはヒサナの四方を囲む男達によって阻まれた。

『間もなく大橋だ。勝手な行動は神の怒りを生む。慎め』
『でも、今…っ』
『俺には何も聞こえなかった』

腕を捕らえられ、強制的に引きずられる。
ヒサナは先程の会話が、頭から離れなかった。
疑惑がヒサナの中に産まれ、ヒサナを取り押さえる男を見上げた。

父は建設中に川に落ちて死んだと聞かされた。
その日の内に、急くように放たれた生け贄探しの白羽の矢。
それは、ヒサナの家に父の死を伝える前に行われていた事になる。

嫌な予感が過ってならない。

ヒサナは捕らえられた腕を振り払おうとしたが、男の力には敵わなかった。

『はな…離して!』
『往生際が悪いぞヒサナ』
『村長…っ』
『一度決めたことを曲げるのか。お前の父は、そんな男ではなかったぞ』
『…その父を殺したのは、あなた達じゃないんですか?!』

確かに父は、誰かを犠牲にするような人ではなかった。
だからこそ進んで橋の着工に携わったし、危険を省みずに打ち込んだのだろう。
そんな人が、誰が選ばれるかも分からない人身御供に賛同しただろうか。
父が人柱に反対していたのだとしたら、黙らせる為に事故に見せかけて殺されたのでは。
事故どころか、建設に携わった人々が満場一致で、沈めたのだとしたら。
ヒサナは村長達の目が一瞬揺らいだのを見逃さなかった。
疑念が確信に変わる。
もしかしたら自分が選ばれたのも偶然ではないのかもしれない。
ヒサナは力の限り腕を振り上げもがいた。

『母さんは…!母に会わせて!』
『無理だ、お前の母は今気に病んでいる。外出は難しいだろう』
『そうしたのは、誰よ!』

母に会わせなかったのは、その父の意思を知っていたからだったのでは。
社に隔離されたのも、逃げるのを阻止するためだったのではないだろうか。
外側からしか開けなかった社の戸の作りにも納得が行く。
ヒサナが真相を誰かに聞かされても、何処へもいけないように隔離したのだとしたら。

『嘘つき!』
『何を証拠に。勝手なことを言うでない』
『何て酷い…!嫌だ父さんを返して!母さんに会わせてぇっ!』
『なんと不届きものか!異端者だ縛り上げてしまえ!』

ぬかるんだ地に四人がかりで体重をかけられ、地に伏された挙げ句押さえつけられた。
腕を背に捻りあげられたかと思えば、縄で身動きできぬよう胴体を縛られた。
無理に縛られたので無理な方向へ曲がった関節が痛むが、これから生け贄として殺す者など構わないのだろう。
そのままに後ろ手の縄を引かれ、無理矢理立ち上がらされた。

『…っ人殺し!』
『我々がお前を殺すわけではない。お前は神に捧げられるのだ』
『父を殺したくせに!』
『人聞きの悪い。仮にも神の元へ降るのだぞ。誰か、口を塞いでしまえ』

身の自由を奪う縄を吊り上げられ、つま先立ちで腕も胸も痛くて敵わない。
それでも声をあらげていれば、村長に従い誰かが布を手に駆けつけてきた。
ヒサナは万事休すなこの状況下で、泣くまいと奥歯を噛み締め、村長を見下した。

『望み通り神に頼んでやる!雨を止めてくれって』
『覆いに結構。是非頼んでくれ』
『二度と降らせないでくれって…身勝手なこんな村っ!豪雨に困ると言うなら、逆に降らない雨に困って滅びてしまえば良い!』
『まだ言うか!これでは装束に着替えるのも手間だ、早く川に放り込め!』

本来ならば生け贄用の白い服があるのだが、それに着替える事もなく縛られた為、ヒサナは着の身着のまま川辺に引きずられた。
川の流れを変えた一角の土が深く掘られていた。
人一人楽にはいる深さのそこは、人柱用の墓穴だろう。
ヒサナを放ったあとに、流れを変えてある塞きを壊し、放水する気だ。
ヒサナは相手に噛みつきながらも結局口を塞がれ、川を背にぐんと胸ぐらを捕まれ川岸に立たされる。
足には重石が括られた。
重石に引きずられた足は既に岸を離れており、この身を支えているのは胸ぐらを捕むこの男の腕一本のみ。
片腕に篝火を掲げたまま、なんと余裕で扱われたものか。
ヒサナはその腕の主である、社に迎に来た男衆の一人を精一杯睨みながら、聞けぬ口で怒りにより荒い息使いを繰り返す。
怒りと悔しさで溢れそうになる涙を泣くものかと堪えたが、涙と雨で視界は最早歪んでいた。
男もヒサナを睨み返していたのだが、その男が一瞬眉根をグッと深めた。

『…すまない』
『…?』
『すまないヒサナ』

謝られた理由は分からない。
切な気な声音で告げられた言葉に、気が緩んだ途端に手を離されヒサナは重石に引きずられ転げるように墓穴へ落ちた。
体制を立て直す事もできずに縛られたままの身で穴の中から川岸を見上げるが、豪雨と転げたことで顔に跳ねた泥で、男の顔はもううかがえなかった。

『塞きを壊せ!』

異物に凝らせない眼をなんとか開き、鎚のような物を担いだ者達が横切ったのが見え、雨音と濁流音に混じって何かを打ち付ける音が響く。
考えるまでもなく、川の水を塞き止めている壁を壊している音だった。

間もなく墓穴に泥水の濁流が流れ込んだ。
無駄だと知りながらも、堪えようとするのは悲しい生存本能だろうか。

やがて苦しさに口を開けてしまうだろう。
それでもヒサナは固く瞑った目の奥で、焼き付けた村の姿を呪った。
異端だと言うならば、その通りに成ろう。
望み通り、困ると言う雨を止めてやろう。
今後一切、雨が降らずに困り果てればいい。

皆死んでしまえ!

酸素を求めて開いてしまった口で、ヒサナは全てを怨み声にならない叫びをあげた。



そうしてその夜、皮肉にもその年の雨季が開けて満点の星空が輝く。
久方ぶりの星空の下、名もない出来たばかりの橋の袂で一つの魂が怨みに燃え上がった。
当時は照明器具のない、月明かりだけが頼りの暗闇。
次の日生け贄が届いたのだと喜ぶ村人の話題の中で、闇夜に浮く小さな炎を見たと言う小さな噂話があったがそれは数名にしか話題にはならなかった。
そしてそれ以来、この村には雨が降らなくなった。

20150614

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