2.お前を破滅へと導きましょう

度重なる心労で既に練紅明の胃は限界を迎えていた。彼の胃を痛めつけているのは仕事だとか戦争だとか侵略だとか、ではなく、それ以前に国内ないし宮中のある問題だった。煌帝国随一の策略家と謳われる彼をここまで追い詰めた原因は、彼の目の前で眩しい笑顔でもって鼻歌を歌っていた。

「――――♪」

耳を擽る聞き慣れない旋律(メロディ)。その独特のリズムにどこか異国の歌だろうか、なんて紅明が気をとられている隙に、彼女は手の中のものを引っ張った。
「あっ」思わず声が漏れる。しかし当の本人は紅明の気苦労も素知らぬ振り。あどけない容貌(かたち)の少女が己を抱く男性の顔を見あげる。男の方もゆっくりと少女の顔を見つめ返した。二人の視線が交錯する。

「紅炎紅炎、これなーんだ」
「……髭だ」
「大正解!」

くい、またひとつ少女が紅炎の髭を引っ張った。あああ、と紅明が声にならない声を上げる。何をやっているのだあの第一皇女(おバカ)は。妹への理解に苦しむ紅明は頭を抱えた。どうして我等が長兄の髭を笑顔で引っ張っているのか二十文字以内で答えてほしい。

いくら痛くないよう手加減しているとはいえ、そしていくら紅炎が第一皇女を溺愛しているとはいえ、あの紅炎が、あの紅炎が無作為に髭を引っ張られて何も言わないはずがないのだ。
少なくとも紅明はそう確信し、いつあの第一皇子が噴火するのか、今か今かと肝を冷やし続けていた。

下手に口を挟めずはらはらする紅明を意にも介さず、くりっと真っ赤な宝玉が紅炎の目を覗き込む。紅炎は膝の上の紅燭を見下ろし、すっと目を眇めた。
しばらく見つめ合った末に紅燭は髭からその手を離した。己の体から離れていく小さな手を見送った紅炎が軽く鼻を鳴らす。

(あれ……少し残念そう……?)

いやまさかな。浮かんだ考えに紅明はかぶりを振った。一先ず危機が去ったことに安堵の息を漏らし、鋭く前を睨むと、つかつかと紅燭に近寄る。音を立て目の前で止まった下の兄を彼女はきょとりと見上げた。

「紅燭……何ですか今の」

なにが、とは言わない。しかしそれだけで伝わったのだろう、「ああ、えっとねー」紅燭は幼げな反応を示し、

「この前路槃と研究室で駄弁ってるときにね、」
「路槃って……ああ、最近入った宮仕えですか」
「よく覚えてるね」
「農民から入宮する人は珍しいので」

それに、よく彼の踏む“ドジ”のツケが紅明の部下に回ってきていた。細かいミスばかりだからまだ対処が追いつくが、これ以上の失敗をされては流石に困る。農民の出であり作業に不慣れなことを加味しても、そろそろ遠回しに転職を勧める頃合いだった。

「……紅明、伝え忘れていたんだが」
「今言いますか。まあ、聞きましょう」
「その農民を紅燭の側近に召し上げろ」
「また貴女ですか紅燭……」
「私が問題児みたいな言い方やめて?」
「『みたいな』ではありませんよ。貴女前も後宮の女性勝手に引き取ったでしょう、優秀なようですから結果的には良かったとしても、そういう勝手は」
「で、続きなんだけど、その農民路槃がね、」
「逸らさないでください」

皇族の身の回りの世話や王宮の管理が中心の宮人が突然側近に格上げされれば当然、主人のその日の予定や体調を管理し、主人の仕事を補佐し、主人や部下に回す書類を整理し、と仕事量も段違いに増える。
正直あの路槃に第一皇女の補佐が務まるとも思えないのだが、引き取って貰った方がいらない手間が省ける、と理由を付けて紅明は見逃してやることにした。わざわざ紅燭が使い勝手の悪い部下の責任を負ってくれるなら願ってもないことだった。

「『あの顎についてる逆三角形なんだろうな』とか吐かすものだから、」
「紅燭退け、少し席を外す」

カッと目を開いた紅炎。「イヤだね」紅燭がぎゅっと紅炎に抱きついたことで一つの儚い命は救われた。
しかしなんて命知らずなんだあの農民は。この調子なら側近の職を失う日も近そうである。

「まだ続きがあるの、聞いて」
「もう口を閉じた方が貴方の側近の為になるような気もしますが」
「確かに紅炎への侮辱ともとれるけれど、彼も『つい』って感じだったから『あれは髭!!』って言いながらムーンサルトプレスで許してあげたんだ。でもね、」
「許すつもりなら普通プロレス技なんてかけませんよ」
「昨日市井の視察に行ってる時ふと彼の言葉を思い出してさ」
「嫌な予感が……というか待ってください、市井の視察……?貴女昨日のスケジュールは書類作成でしたよね……?」
「思ってしまったんだ。『本当にあれは髭なのか……?』と」
「都合の悪いところは聞こえない耳でたあ!これ以上やめて喋らないで!」
「一度気になるとどうにももやもやしちゃって、路槃にありのまま疑問をぶつけてみたの。そしたら『じゃあ確かめてみては如何です?』って言うから、ここで冒頭に戻る」
「冒頭?」
「――わ、」

突然の浮遊感に声を上げた紅燭。紅炎が彼女の体を抱えたまま椅子から腰を上げたのだ。兄様殺気立ってるぅ、とけらけら笑う紅燭に紅明は路槃の転職支援について本気で考えざるを得なかった。
元凶を絶つつもりなのだろう、紅炎は己の妹をすとんと床に下ろし、静かに執務室から廊下に繋がる扉へ視線を送る。

そんな紅炎の袖を引いて彼を止めたのは他でもない紅燭だった。人をからかって遊ぶ趣味を持つ彼女にもまだ部下を想う心があったのか、そう感動する紅明を傍目に、ん、と紅炎に向かい腕を広げた紅燭。

――を、紅炎は抱きしめた。ごくごく自然な動作で、なんの気負いもなく、ぎゅっと小さな体を抱き込み、ふふふ、と耳元で聞こえただろう笑い声にふっと微笑んでさえみせた。

それはまさに冥王が地獄に落ちてきた罪人を裁き甚振る時のそれであったが、兄弟だからこそ認識しうる、彼の心からの笑みに、紅明は軽く感動すら覚えた。同時に毎回こんなことやってんのかよあのシスコンブラコンどもめ、と殺意も湧いた。

――そう、彼らのこのやり取りこそが、日々紅明の胃にコツコツコツコツと穴を開けている大杭そのものなのである。

こいつらが人目もはばからずイチャイチャラブラブしている影響で、煌帝国の民衆には第一皇子と第一皇女は禁断の恋だ近親婚だなんだと囁かれ、行き過ぎた兄妹愛を描いた出版物が規制しても禁止しても大量に市井を飛び回り、第一皇女にロクな縁談は来ないし、来ても煌帝国の内情すら把握できていないような劣等小国ばかりだし、紅炎狙いの宮女の何割かは兄妹の様子を見た途端埴輪のような顔付きで里帰りを申し出るわ自殺を図るわ――

それを抑え取り纏める紅明の心労は、それはもう誰にも―――たとえば、まだ煌国が煌帝国と名を改められたばかりの頃、国土面積を徒歩で測定したかの偉大な研究者にも―――到底、計り知れないものであった。

「いってらっしゃい、紅炎!」
「……ああ」

――その日、男の断末魔が宮中に響き渡ったという。

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