18.清らかに流れる毒

紅玉は今すぐここから立ち去りたい想いでいっぱいだった。副国王と第三王子がクーデターを起こしたおかげでバルバッド国王は不明だし、副国王と第三王子にクーデターを起こされ失脚した元国王は見る目に耐えない豚だったし、密かに想っていたシンドバッドがやってきたと思ったらみるからに第三王子に肩入れし始めるのだ。正直何が何だかわけがわからない。では第三王子が国を継ぐのかと聞けば何を考えたのか王政は廃止するときた。屁理屈屁理屈屁理屈。共和制市民国家? バルバッドはもう「バルバッド王国」ではないから条約は無効? バルバッドは七海連合に入るから煌帝国は軍事行動をとれない?

「(なんて見苦しい言い訳。継ぎ接ぎだらけじゃないの、こんなのつつけばいくらでも……)」
「侵略しない、させないが我ら七海連合の理念。そして我々には、陛下も一目置いてくださっているはずですね」
「(でも、あの豚と結婚はしたくない)」

国の為に嫁ぐつもりでいたけれど、この話の流れなら結婚は中止になるのではないか。紅玉の中に希望が芽生える。しかし心の奥で誰かが呟いた。本当にそれでいいのかと。お前は一体なんのためにここまで来たのだと。国の為? いいや、愛する姉の為である。

「……ええ……でも、それ程の「七海連合」に、バルバッドなんかを加えると? 果たして本当なのかしら…?」
「我がバルバッド国は先々代の王の頃より、シンドリアとはじつに親交深い! おや、ご存じない…?」
「……そうなの、夏黄文」
「それは……確かですが! それとこれとは関係ありません!」
「そう、本当なのね。先先代からの繋がりでバルバッド国は七海連合に入ると」
「姫君!?」
「そうです! ですから煌帝国陛下は軍事行動を取らないでしょう! 私は紅玉殿下が私の条件を飲んでくださるか、()()()()()()()()()まで、この国を譲りません。どうかお引き取りを」
「(ああ……本当の目的はこれね)」

彼らの言うことは的を射ている。煌帝国のバルバッド侵略が発覚した途端に七つの大国が煌帝国に襲い掛かることになるだろう。故に、煌帝国皇帝がバルバッドの七海連合加入を耳にすれば、煌帝国はバルバッドの支配を取りやめるはずだ。

問題はそこに辿り着くまでである。練紅玉がバルバッド国王と結婚することで締結されるはずの、バルバッド国民人権委譲条約。彼らはこれを断ることができない。なぜなら、バルバッドのあらゆる権利が担保として煌帝国に譲渡されているから。条約さえ撤回させることができればあとは七海連合の名に守ってもらえばいい。逆に言えば、紅玉がここにいる限り、彼らの勝利はないのだ。

「ふ、ふふ……」
「姫君?」
「私も甘く見られたものね、夏黄文」

紅玉は袖で口を覆い()()()()に笑った。第八皇女に大きな権限がないことも、紅玉が結婚に乗り気ではないことも彼らに見通されていたのだろう。舐めるな。練紅玉は女である前に皇女なのだ。

「第三王子アリババ・サルージャ。あなた、バルバッド王国は滅びたと、これから新しい国ができるのだと、そう言ったわね?」
「ええ、そうです!」
「ならやはり、この国は私たちのものだわ」
「…………え?」
「あら失礼、失言よ。ここはもはや国ではないものね」
「国では、ない……?」

要領を得ない紅玉の言葉に呆然とするアリババ。考え込んでいたシンドバッドがそうか、と声を上げた。その表情は険しい。

「担保ですね、姫君」
「さすがシンドバッド様ね。その通りよぉ」
「え、と、シンドバッドさん……? どういうことです?」

シンドバッドの眉間に深い皺が刻まれる。

「この地はもはやバルバッドではない。実質、煌帝国の領地となった」

突然の通告にアリババは言葉を失った。

「そう言いたいんでしょう、姫君」
「ええ! バルバッドは滅びたのよね? なら担保とされていたあらゆる権利が名実共に煌帝国のものになる。通商権、海洋権、制空権、そして国土。土地がなければ新たな国は作れないのではなくて?」
「……あっ! そ、そんな……!」
「落ち着けアリババくん。君の答えは間違っちゃいない。ただ事が事なのでいろんな捉え方ができるんだ。まあそこまで複雑にしてしまったのは他でもない君なんだが」

しかしこの件、明らかに利は彼女の方にある。シンドバッドは苦々しい表情で言った。それを聞いていた紅玉の口が三日月のようにしなる。

「あら、あなたが言ったのよぉ? バルバッド王国は滅びたとね。それとも撤回するかしらぁ? 今なら許してあげますけれど」

バルバッド王国が滅びたのならここは国ではなく煌帝国の領地となる。大量の難民となった元国民はほとんどがそのまま領民となるだろう。しかし滅びていないのなら王国は健在、バルバッドの多くの権利が煌帝国に譲られたまま。紅玉は新しいバルバッド国王と結婚して条約を結ぶ。

アリババの額に玉のような汗が浮かんでは流れる。残念だったわね、と紅玉は胸中で呟いた。

煌帝国の領地となってはもはや七海連合加盟はない。たとえバルバッド王国が滅びていないとして、七海連合に加盟したとしても、煌帝国とのやり取りをなかったことにはできない。そして煌帝国が軍事行動を起こさない限り七海連合の介入は期待できない。

完璧だ。紅玉は胸を張りたい気持ちでいっぱいだった。出世のことしか頭にない夏黄文も今は皇女の義務を果たさんとする主を誇らしげに見ている。

「(ただ、やっぱり私は結婚するのね……)」

あの豚だけは嫌だ。副国王とやらも頼りなさそうで好みではない。クーデターの主犯である第三王子は一番マシだが一番胃が痛くなりそうだ。彼は紅玉を恨むだろう。幸せな結婚生活など程遠い。

王子たちの顔を見比べているとアリババに耳打ちするシンドバッドと目が合った。そのまま逸らされる。ちくりと紅玉の胸が痛んだ。

「(本当は私だって、好きな人と結婚したい)」

でも駄目なのだ。紅玉は誓ったのだから。姉の為にこの身を捧げると。王室にざわめきが広がる中、唯一の扉が勢いよく開かれた。一人少女が立っている。

「ごめんね、紅玉」

紅玉は両目をめいいっぱい見開いた。なぜ、なぜこのタイミングで、彼女が――

「予告なしの来訪失礼します。なにぶんその話は我が国にとっても重大な案件なのでお許しください。皆さまお初にお目にかかります。煌帝国第一皇女、練紅燭と申します」

突然の第一皇女の登場に動揺したのは紅玉だけではない。アリババやシンドバッドも同じだ。「どういうつもりだ……?」シンドバッドが呟いた。

「この件、第八皇女の紅玉に決断は荷が重すぎるかと存じます。ここからは私が話し合わせていただきます」
「お、お姉様、どうして……?」
「頑張ってたみたいだね。でもダメ。嫌なことは嫌と言いなさい。あとは私がやる。紅玉になんと言われようとダメ。大事な妹はやれません」

紅玉は再び目玉が転がり出そうなほど見開いた。駄々っ子みたいな理由を、あろうことか紅玉の姉は声を潜めることも無く言ってのけたのだ。当然アリババやシンドバッドに紅燭の狙いは筒抜けである。

「おい、レン……」
「あ! アリババさん、さっきぶり!」
「えっ、お、おう」
「で、さっきの話ね。第一皇女の権限により、共和制市民国家であるバルバッドの建国を認めます」

――雲行きの怪しい話し合いにざわついていた王室が一瞬、完全な沈黙に包まれる。

「えっ!!?!?」
「はぁ!?」
「どっ、どういうことですかお姉様!?」

「ただし、」紅燭は声を潜め、ぴん、と二本指を立てた。「二つ、条件があるの」

誰かが唾を飲む音がした。紅玉は戸惑いと不安の間を漂い、また期待を覗かせながら次の言葉を待つ。――紅玉の姉は、何かあるたび紅玉を褒める。褒めちぎる。頭を撫でてくれる。守ってくれる。抱きしめてくれる。いつだって紅玉の姉でいてくれる。「怒っていいよ」と言って、なかなか素直になれない紅玉が本当に望むものを叶えてくれる。

「その一、バルバッドは煌帝国に対し、第三国および第三国の国民に与える待遇よりも劣らない待遇を供することを、現在及び将来において約束すること。その二、バルバッドの煌帝国間における関税自主権の放棄」

どう? にっこり笑った紅燭に、アリババが拍子抜けしたような顔で首を傾げる。国民の奴隷化や強制徴兵に比べれば随分とマシではないか。紅燭をくまなく観察していたシンドバッドが何か気がついたようにハッと顔を上げた。

「アリババくん、いけな――」
「おっと! シンドバッド王、これはシンドリアには関係のない話、それも国と国の交渉の場だ。口は出さないでくださいね!」

シンドバッドは苦虫を噛み潰したような顔で口を噤むのを紅玉は複雑な気持ちで眺めていた。隣のアリババの表情は彼とは対照的に明るく、紅燭に持ちかけられた交渉を前向きに検討していることが伺える。せめてアリババが結論を後日にすればシンドバッドと相談することもできるというのに。思えど、紅玉がアリババにそれを教えてやる義理はない。

「(それより、お姉様は何を考えていらっしゃるのかしら……)」

提示された条件が煌帝国にどう有利に働くのかは、わかる。けれど、紅玉が話を進めていたバルバッドの完全支配よりメリットがあるとは到底思えない。ただ、この話が進めば国に帰っても体面は保てるし、紅玉の結婚が破棄されることは確かだ。

――それとも、本当に、私の為だけに、この条件を……?

「いいでしょう。条件を受け入れます!」
「よし、そうこなくっちゃ」

男らしい表情をしたアリババと満面の笑みを浮かべる紅燭が握手する様子を、シンドバッドが歯痒そうに見つめる。紅燭がアリババの肩からひょい、と頭を覗かせた。そしてシンドバッドの顔をきょとんと眺めると、今度は勝ち誇ったような笑みを浮かべる。鼻で笑った。

「!?!!?」
「これで堅苦しい話は終わり。アリババさん、新しい国づくりって大変だよ? がんばって」
「ありがとう。でもバルバッドはもうアブマドのものでも、サブマド兄さんのものでも、勿論俺のものでもないから。国民全員が一緒に考えればきっと大丈夫さ」
「そっかあ。私の煌帝国も元は煌っていう小さな国だったんだ、知ってる?」
「ああ、シンドバッドさんから聞いたよ」
「急速に国を発展させた知識が、今度はバルバッドで生かせると思う。バルバッドの相談役に一人部下を派遣してあげるよ」
「え、いいよそんな、悪いって」
「気にしないでよ、アリババさんにはお世話になったし」
「酒場のことか? あんまりお世話した気がしねーけど」
「もしかしたら私の弟になってたかもしれないしね! 私は兄弟姉妹は大切にするよ!」
「結婚しなくて良かった……!」

紅燭がけらけらと可笑しそうに笑う。それを見たアリババはどこか安心した表情で頷いた。

「じゃあ、頼むよ」

うん、と元気よく頷く姉の、実にあざやか手口に紅玉は舌を巻かずにいられない。シンドバッドはあちゃあ、と言わんばかりに額に手を当て天井を仰いでいる。相談役と体良く言ったが、要は統治者のいなくなったこの国に煌帝国の間者を唯一の権力者として据えようというわけだ。顔立ちが幼いだけにそこまで考えてものを言っているのかは不明確だが、抜け目のない姉だからそういうことだろう。きっと。

「紅玉」

紅玉が見下ろすとアリババと話していたはずの紅燭がそこにいた。達成感を感じさせる笑顔だ。額に浮いた爽やかな汗の一つでも拭いそうな雰囲気である。汗はまやかしだったが。

「怒っていいよ」

台詞の割にはまるで反省の欠片もない口ぶりについ毒気が抜けてしまう。いつも姉はこうやって悪びれず口先だけで謝るのだ。本当は後悔も反省もしていないのだろう。寧ろ姉の辞書にそのような言葉が載っているのかも怪しい、と紅玉は思う。後ろを振り返らない彼女に紅玉はいつもこう返すしかないのだ。

「……お姉様だから許すんです。他の人だったら、絶対に許しませんわぁ」

ありがと、と紅燭は背伸びして紅玉の頭を撫でた。まったく、――お礼を言いたいのは、紅玉の方だというのに。

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