19.毒をもたない牙で噛みつく乾いた蛇 潮風の吹く市場。子供達は強い日差しの中を元気よく駆け回り、大人たちは屋台で声を張り上げている。青果店に並ぶ果物は南海の暖かい気候が生んだだけあって新鮮で瑞々しい。雑貨売りの男が布の上に広げた多様な商品はバルバッド国から流れ来る貿易品だ。騒がしい市場を取り囲むのは豊かな植物たちであり、水汲みの女の隣ではアライグマの親子が水浴びをしている。木々と共存するように民家が立ち並ぶその奥、島の中央に聳え立つ荘厳な宮殿。その正門が満を持して、 「シンドバッド国王陛下、ご帰還!」 紫髪の男を先頭にして三人の男たちが足を踏み入れた。正門から続く道を避けるように国の官吏たちが二手に分かれて並んでいる。彼らが揃って拱手をする先は、紫髪の男――シンドバッド王である。己が王の帰還を目にし、官吏たちは口々に王を呼び称えた。 「王よ」 「王よ」 「我らが王がお戻りになられた」 静かな歓喜の中を進むシンドバッドの前に五人の人影が現れる。シンドバッドは足を止めて彼らの顔を一人一人確かめた。彼らの表情もまた静かな喜びに満ちている。 「ご無事の帰還何よりです。シンドバッド王よ」 ここは南海の島国シンドリア王国、かのシンドバッド王の国である。 ▼ 歓迎の儀を終えたシンドバッドは一旦紫獅塔に腰を落ち着けた。椅子に座るときにどうも溜息を吐いてしまうのは決して歳のせいではないと思いたい。 ふと正面から顔を背けて城下を眺める。バルコニーから見渡す国は、日差しで建物が白く煌めくような、穏やかな街並みであった。次第にシンドバッドは肩の力が抜けていくのを感じた。冒険者だったときも、商人まがいのことをしていたときも、国王になってからも、異国の地や未知というのは童心を躍らせるものだが。それにしても自分の国や居場所というのは、やはり心安らぐものだ。 「シン。……シン? 聞いてますか?」 「ん? あ、すまん」 「ぼうっとして、どうかされましたか」 「なんでもないよ。それで?」 「……会談ですよ。バルバッドについての、煌帝国との会談はいかがでしたか?」 ジャーファルの問いに、シンドバッドはつい考え込んでしまう。会談の様子が思い返された。優秀な頭脳が克明に記憶している。ただあのときのことを、一体どう説明すれば良いのか。 「それがな……」とりあえず間をつなぐ。それがいけなかったようだ。ジャーファルはあからさまに険しい顔をして、「うまくいかなかったんですか」と言った。主人が言葉にしにくいことを汲み取って先に発言してくれる、よくできた部下ではあるが、このときばかりはそれが裏目に出てしまったようだ。 「いやいや、大成功とまでは言えないが、七海の王として手は尽くせたよ」 「ならどうしてそんなに深刻そうな顔をなさるんです」 「深刻そうな顔、してたか?」 「少なくとも何か懸念があることはすぐにわかりました」 話してごらんなさい、と言わんばかりの頼れるジャーファルについ広大な砂漠でオアシスを見つけた遭難人のような勢いで抱きつきたくなってしまう。耐えた。どうにか神妙な顔つきを保つ。すると気持ちまで沈んでくるのだから“形から”というのもなかなか侮れない。 「なんというか、うまく行き過ぎたんだ」 「うまくいったならいいじゃないですか」 「と、言いたいところですが」言葉は続いた。「あなたが引っかかるというなら、何かあるんでしょうね」 でしょうね、そう、断言したジャーファルに、シンドバッドは頷くとも考え込むともとれる仕草で目を瞑る。 「煌帝国はバルバッドを支配下には置くが、バルバッドの『共和国』としての自治は認めるそうだ」 「そうですか……。半年前、あの後すぐに煌帝国の大軍隊が現れた時にはあわや侵略戦争かと思われましたがね」 「そうだな。あの時は焦ったが、驚くことはなかった。彼女の進言があったからな」 友好的と見えて一方的な交渉を終えると、正式な契約を臣下に任せ、練紅燭と練紅玉はバルバッドを去っていった。その時、紅燭はアリババと軽く挨拶を交わした後、シンドバッドにこう言い残していったのだ。『ああ、そういえば――』 「たぶん後でこっちに我が国の軍が来ると思うけどごめん、それ手違いだから……でしたっけ」 「船旅で疲れてると思うから寝床とご飯もあげてほしい、とも言ってたな」 まるで旧友のような気軽さで頼んだのだ。言われたときは意味が分からなかったが、彼女は急用を思い出したように勝手なことをまくし立て王室を飛び出していってしまったので、質問をする 「煌帝国は始めからバルバッドを壊滅させる気はなかったようだ。目的はあくまでもバルバッド国を傘下に置くこと」 「その手段として紅玉姫との婚約……それがだめになった場合は、国民による反乱を誘発させ、その混乱をおさめるという名目で軍事介入し、支配下におく……」 「最初からそのつもりだったのだろう。あらかじめ大船団を港沖に待機させていたのがその証だ」 先の進言通り到着した煌帝国軍の対応をどうにか終えた後、『霧の団』の反乱中に商人たちが船団を目撃していたことが発覚した。沈鬱な表情でシンドバッドの言葉を聞いていたジャーファルが、ふと考えるように目を伏せる。首を傾げた。シンドバッドはジャーファルの眉間に皺が刻まれていく様子をじっと見つめていた。 「待ってください、あの、おかしくないですか。紅燭姫はそれを知っていながら、どうしてあのような交渉を持ちかけたんでしょう。そもそも紅玉姫の交渉を妨害したことも不可解ですが」 「……お前もそこを考えるよな」 ハア、と溜息を吐く。煌帝国の計画が成功していたら、紅燭の交渉は全くの無駄どころか、既に成立した条約として煌帝国によるバルバッド支配の弊害になる恐れすらあった。最悪の場合、第一皇女の名誉に一生ものの傷を付けるような結果になっていたかもしれない。それなのに、どうして。 「考えられるのは、三つ」 練紅燭が成した事業を公式非公式関係なく書面に起こすと、シンドリア王国の文官すべての経歴を足しても届かない紙の塔が出来上がる。ジャーファルに見解を述べながら、書類室のケースに入ったそれをシンドバッドは思い出していた。練紅燭の経歴には不可解な点がいくつかある。その主立ったものは、まず計画段階で破棄された事業の多さ。それから――各分野の専門家が彼女に述べる酷評や、ある程度地位のある国民からの不満の多さである。 「一、額面通りなら紅玉姫のため。二、煌帝国の計画よりもそちらが有益だと考えたから。三、カシムの反乱と制圧の成功を読んでいた」 しかし彼女への批難は 「一つ目はともかく……支配より共存を有益とする根拠が分かりません。それに、制圧の成功を、読んでいた……?」 「それは俺にも分からん。だが三つ目はあると思っている」 「その根拠は?」 「俺自身が昔、練紅燭に ジャーファルが息を飲んだ。当時のことを思い出したのだろう。以前シンドバッドがある国に訪問したことから始まった、どうしようもない喜劇を。あの瞬間、シンドバッドが世界で唯一畏怖する存在が成り立った。彼女の頭の中は己らが想像もできない膨大な計算で埋め尽くされている。 「まあ、俺から振っといてなんだが、ここで話し合っても結論は出ないだろう」 「……そうですね。交渉が有益だったかどうかはいずれ分かることでしょうし」 そう、彼女の真意はともかく、彼女がバルバッドと交わした条約の意味はいずれ分かることだろう。妹を嫁に出したくないというのも本心かもしれないが、あの練紅燭が人情に流されて国に不利益なことをするはずもない。 「それにしても……もし母国の計画を紅燭姫が台無しにしていたら、彼女は無事では済まなかったでしょうね」 「いやいや。もしそうなったとしても、知らなかったと言えばいい話だろう」 「…はい? この後に及んでそんなもの、通じるわけが、」 怪訝そうな顔をした家臣にシンドバッドは首を振る。ジャーファルは更に眉間に皺を寄せた。「思うに、練紅燭と煌帝国の狙いは、別だったんじゃないか」 「恐らく、彼女はこの計画を伝えられていない」 「伝えられていない……? いえ、まさか。軍隊が来ることも知っていたのに? それに相手は皇女といえど知謀家で有名ですし、話をされている可能性は大きいのでは……むしろ、この計画に携わっていると考える方が自然です」 「間者によると、彼女はバルバッド基地に派遣されていないらしい。どころか、アラジンくんは紅燭姫とデリンマーから馬車でバルバッドに来たそうだ。そのときから既に旅装でね」 「は!?」 ――ということは、紅燭姫は、本当に何も知らされず、妹の婚約のためだけにバルバッド国へ赴いて、その惨状から国の思惑に気づき、軍事支配が失敗することまで予測して、手を回したと。 シンドバッドには顎の外れそうなジャーファルの驚愕が手に取るようにわかった。 「更に意味がわからない……どんな思考回路だよ……」 「おい、口調」 一応指摘するもシンドバッドに叱責の気持ちは全くない。しかしジャーファルは主の一言で己を取り戻し、「失礼しました、王」と腰を折ってみせた。意味わからなさすぎて若干キレ気味だった表情も元に戻っている。シンドバッドはこほん、とわざとらしく咳払いをし、 「と、いうことだ。彼女は計画の妨害を追求されても、知らなかった、ごめんなさい、と惚けてしまえばいい」 「それだけ暴れまわっておいて、よくもまあ綽々と……」 「それでも普通は何かしら処罰があっておかしくないが……煌の皇帝は練紅燭を重宝しているようだからな」 「先ほどシンが、会談がうまくいきすぎたと言っていたのは、もしかして」 「彼女の手回しだろうな。複雑な気分だ」 「複雑…………はあ………」 ジャーファルはため息を吐いた。心配して損した、という類のものである。それを目ざとく察知したシンドバッドが異議を申立てようとしたが、疲れた様子のジャーファルを見ていればそんな気にもなれず、こちらも疲れて気力がない。シンドバッドの口から出たのは、ジャーファルに負けないくらいの沈鬱な空気を詰め込んだ、深い深いため息だけであった。 他 大鐘:日時計で2時間ごとに鐘が鳴らされる。 <9巻巻末『図解シンドリア王宮』より> |