17.顔も知らぬ盤の向こう

「レンくん――いや、練紅燭は危険すぎる」
「……練、紅燭?」
「シンドバッドさん?」

聞き慣れない響きの名前がアリババの鼓膜を打った。顔に疑問符を書きなぐって隣を見下ろすと、これまたでかでかとクエスチョンマークを顔に張り付けたアラジンが見つめ返してくる。二人で数秒顔を見合わせた。

「そうだな……」シンドバッドは顎に拳を当てて考えるような仕草をした。「煌帝国の第一皇女と言えば、一度は聞き覚えがあるだろう?」

「第一皇女!? そりゃもう!」
「ううん、知らない!」

光の速さで首をアラジンの方へ戻すと奴はきょとん顔をしている。アリババは問い詰める気力すらなくした。こう何度も常識知らずを発揮されれば嫌でも慣れるものだ。はあ、と息を吐く。

「有名な発明家だよ。製糸の半機械化、コークス製鉄法の開発、ガラスの増産、聴診器の発明、麻酔薬の実用化、功績は上げればキリがない」
「こーく? ちょうし……?」
「その通り。特に煌帝国の医療科学と軍需産業は第一皇女を中心に回っていると言っていい」
「でもそんな有名人とレンくんに、どういう関係があるんだい?」

首を傾げるアラジンの隣で、アリババは「まさか……」とシンドバッドを見た。シンドバッドが頷く。

「レンは彼の本当の名前ではない。煌帝国第一皇女練紅燭、それが彼女の正体だ」







もういないよな、とアリババはふと不安になった。

「(閻体とかいう象は倒した。大猿と変な生き物たちはモルジアナが相手をしてくれてるし、豹もアモンの剣で斬った……)」

あの夜、練紅玉と共にいた化け物は3体。あれで全部ならもうこの王宮に化け物はいないはずだ。アリババはぎゅっと大剣の姿になったアモンの剣を握る。もしまだあのような敵がいるのなら。いや、最悪あれ以上の敵がいたら、今の自分に倒せるだろうか。

「(それに……魔力の残量が心配だ)」

この先、豹を倒した時のようにアモンに使える炎があるかわからない。王室に向かい走り抜けながらアリババの頭は不思議と冷静だった。冷静だからこそ、いろんなことに気づいてしまう。だから不安になるのだ。このまま辿り着けるのだろうか。辿り着いたとして、弟や兵たちは聞く耳を持ってくれるだろうか。用意した切り札は本当に通用するのだろうか。アリババは自分の為に戦ってくれている仲間の顔を思い浮かべた。それから、今なお昏睡し続ける友を。困窮する民の様子を次々と脳内に想起させ、自分を奮い立たせようとする。前を見据えた。斬りかかってくるバルバッド兵たちの穂先を避け、剣の柄で眠らせていく。

――大丈夫。あいつらの信じてくれた俺を信じる。俺ならできる。

最後の一人が横隔膜を突かれてアリババの足元に倒れた。再び走り出そうと踵を返したアリババは、廊下の突き当たりに大きな影が落ちているのを見つけて踏み止まる。思わず舌を鳴らした。どうやら、化け物は4体いるらしい。嫌な予感が的中してしまった。仕方ない、今更嘆いても喚いても状況は変わらないのだから。影が近づくにつれ地鳴りのような音がしてきた。アリババは剣を構える。しかしそんな視界の奥に映り込んだものは、彼の予想だにしないものであった。

「やっ、アリババさん!」
「……はっ……?」

思わず間抜けな声が口から飛び出してしまう。小さな背にあどけない顔立ち。幼女である。アリババの見知った幼女であった。ただし風貌は彼の知っているそれと多少なりと異なっている。例えば二つ結びにされ晒された赤い髪とか。見慣れない形状をした女物の服装とか。金に宝石のついた髪飾りとか。煌帝国の練紅燭。これが、皇女としての彼女なのだろう。ただしレンの笑顔は以前見たものとまったく変わらないままそこにある。アリババは思わずホッとして、急にアラジンの前から姿を消したことを問い詰めようとした。
問い詰めようと、したのだ。

彼女の背後から、巨大な熊が出てくるまでは。

「――レンッ、危な」
「ああ、平気だよ。私が造った子だから」

背筋が凍る、とはきっとこういうことだろう。思考が理解に追いつくまで多少の時間を要した。

「心配してくれてありがと! アリババさんって最初会ったときから優しいね。ふふ、損するタイプっぽい」
「……造る、って……」
「ん?」
「私が造った子って、どういう意味だ」
「……ああ、うん。アリババさんはそういう人だったね」

なぜそう無邪気に笑えるのか。どういう意味だ、繰り返された問いに少女は一つため息を吐く。「どうって、そのままの意味だよ」そう言った彼女の表情が一瞬、ごっそり抜け落ちて人形のようになった気がした。アリババの脳内にシンドバッドとの会話が思い起こされる。







息を呑む音がやけに響いて聞こえる。予想はしていた。していたはずだが、情報を受け取って飲み込むのには思っていたよりも時間がかかった。

「……ただ者じゃない、とは思ってましたけど………」
「君は、練紅燭とはどこで?」
「酒場で。酔っ払いに絡まれてるところを助けてやったんです」
「立派じゃないか。君はその酔っ払いの命を救ったんだ」

アリババは思わず笑顔のシンドバッドを二度見する。笑顔に裏表はなさそうである。寧ろあまりに晴れやかで少し気味が悪い。

「あの、これ聞いていいのか分からないんですが」
「聞かない限りはわからないが、いいだろう!」
「シンドバッドさんは、レンに何かされたんですか」
「……………………聞かないでくれ」

まるでたまたま拾った大金で豪遊したら実は金を拾ったことだけが夢の中のできごとで遊んだ金を大量の借金として背負ってしまったような表情だ。アリババはすっかり落ち込んでしまったシンドバッドの肩を叩かずにはいられなかった。調子に乗ってきたのかおいおいと泣き真似をしながらアリババに縋り付くのをすかさず空気に混ざっていたジャーファルが腹パンして沈める。ゔ、と喉から絞り出すような音がした。ジャーファルの絶対零度の視線を受けてしくしく本気泣きしながら蹲っていたシンドバッドだったが、アラジンに背中を撫でてもらうと少し落ち着いてきたようだ。やがて泣き声が聞こえなくなってもシンドバッドは膝を抱えたまま動かなかった。膝から顔を出す。一転、静かに響いた声音を、どうしてかアリババは忘れられない。


「奴には、未来がわかるんだ」








アリババの身体中から汗が吹き出る。『助けてくれてありがとう』あのとき真っ直ぐアリババを見据えていたビー玉のような眼が知らない何かに思えてならない。笑う彼女は端的に言って不気味だった。

「閻心、閻技、閻体。あの子たちに期待はしていなかったけど、ここまで使えないとは思ってなかった。まさかアリババさんを通しちゃうなんて」
「まさか、アイツらもお前が……」

心も体も遥かに人間離れしている彼らだが、変形する前は確かに人間の形をしていた。そして閻体という象の生き物は自らを「煌帝国の技術で生まれた最強の戦士」と呼んでいた。要するに人体実験だろう。それを彼女が、レンが行なっているのだ。

「……人間を、なんだと思ってるんだ……!」
「アリババさんに怒られる覚えはないなぁ」
「確かに俺は煌帝国の事情も何も知らない! けどな、人の体あんだけ弄っといて、負けたら『使えない』って……そりゃないだろ!!」

大声に反応したのか熊が低く唸り声を上げる。アリババはびくりと体を震わせた。レンは飼い犬でも躾けるようにどうどうと熊をあやし、「早く閻心たちを迎えに行きたいよね、ごめんね、ちょっと待っててね」すると興奮していた熊の目に理性が宿っていく。

「……失礼、シマシタ」大きな頭を深々と下げる熊にアリババは驚いた。

「(そういえば閻体って奴、変形してからも人間の心を持っているようだった……)」
「もう! アリババさん、大声はよしてね! 迷宮生物兵は繊細なんだから」
「あ、ああ……って、迷宮生物!? そうか、やっぱりアイツら迷宮生物か……」

巨大な象と豹以外にもアリババを襲った奇妙な生き物。無限に再生し続けるところも相俟って迷宮生物のようだとは思っていたが、まさか本当にそうだったとは。ということは、彼らは、迷宮生物と人間の融合種(キメラ)だというのか。実験の過程を想像することは難しかったが、アリババは足先から這い上がって来るような悪寒が止まらなかった。人の理を捻じ曲げる悍ましさと、それを行いながらなお平然と笑っていられる目の前の少女に。

「……おかしいよ、お前」
「心外だなぁ。これでも私が研究を引き継ぐ前はもっと悲惨だったんだよ。成功率2割を7割まで引き上げたのは今でも賞賛されるくらいなんだから」
「残りの3割はどうなった?」
「国の糧になった」

そんな顔しないでよ、と彼女は笑った。懇願するというにはその声は穏やかで、まるで、こんなことで声を荒げる貴方の方がおかしいのよ、とでも言われているようだった。

「あの子たち、誇っていなかった?」
「……、確かに……『最強の戦士』って……でも!」
「ははは! 煌帝国の人間は忠誠心が強いんだ。国の為なら死ねるんだって。かわいいよね」
「は、はあ……?」
「それに『使えない』はそのままの意味だから。改善の余地アリってことで回収してまたやり直すよ。一度失敗したらポイッとか、しないってそんな鬼畜な。大体予算に余裕があるわけでもないのに勿体無いし」
「―――……」

話が通じない。ああ、当たり前だ。彼女は彼女の倫理観で、アリババはアリババの倫理観で話をしているのだから。そこに折り合いなどつけることはできない。お互い相手の思考が理解できないところにあるのだ。違う、言葉を尽くして理解はできる。だが受け入れられないのである。アリババはそのことにたった今気づいたが、レンは最初からそれを分かっていて話していた。だから言ったのだ、「アリババさんはそういう人だよね」と。優しい、という言葉すらもしかして嫌味だったのだろうか。

「正直さ、閻心たちを倒したこともそうだけど、アリババさんがここまで来れるなんて思ってなかったよ。計算外だ。想定範囲内ではあるけど」
「……レン、お前はどうしてここにいるんだ?」
「あれ、聞いてない? 私、練紅燭っていうの!」
「知ってるけど、俺にとってレンは、レンだから」

「まあ、いいけど」レンがほんの少し口端を歪ませた。そのまま笑顔に変わる。「ここに来てる理由は、練紅玉が私の妹だからだよ」

アラジンたちから話は聞いていたから、結婚する妹というのが練紅玉なのもわかっていた。それでもアリババは本人の口から聞いておきたかったのだ。アリババは己に向けられた笑顔を見下ろす。ターバンを巻いた聞き上手でマイペースな少年はそこにはいなかった。

そうか。これが練紅燭なのだ。

「アラジンが心配してたぞ」
「知ってるよ」
「モルジアナも」
「知ってる」
「シンドバッドさんが、練紅燭には近づくなって言ってた」
「だろうね。なんか怖がられてるんだよね。なんでだろう?」
「マスルールさんが少し寂しそうな顔して」
「それは流石に考えてなかったなあ」
「俺はお前に怒った」
「黙っていなくなりやがって! どんだけアラジンが心配してると思ってんだ! 早く戻ってこい!」
「……なんでもお見通しなんだな」
「お見通しというより、訪れる未来をどうにか見通せる範囲に絞ってるだけ」

よくわかんねえ、という顔をしたと思う。笑う紅燭がアリババの目には不自然に映った。それは今まで彼女が見せて来た笑顔と全く同じで、今までのそれは作り物なのだと気づいた瞬間だった。思えば会うのはまだ2回目だ。アラジンやモルジアナの前では、おかしかったり嬉しかったりして笑うのだろうか。

「とりあえずアラジンには会っとけよ」
「気が向いたらね」
「絶対だからな!」
「それより急いでたんじゃないの? 大丈夫?」
「逸らすな、って、やばいっ! またな!」
「あ、王室からここに来るまでの護衛兵は昏倒させておいたからね。迷宮生物兵も回収済み」
「!? お前、一体どっちの味方なんだよ!?」

アリババはアモンの剣を握り、慌てて廊下を走っていった。この騒動が終わったら、目覚めたアラジンとモルジアナに練紅燭のことを伝えてやるのだ。そして絶対に引き合わせる。その為にも、この戦いには勝たなければならない。そうだ、戦いだ。国王と戦えるのは同じ血を引く者だけなのだ。行かなければ。過去と立ち向かわなければ。でなければこの国に、未来はない。

勇ましく悪政に立ち向かう少年の後ろ姿を眺めながら、紅燭はつと考えるように目を細めた。幼い顔から表情が消え失せ静謐が残っている。そして、愛らしい小さな唇を開いた少女は、

「愚問。私は紅炎の味方。何を犠牲にしても紅炎の望みを手に入れる、そのための体」

と、少女らしからぬ低い声音で呟いたのだった。

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