10.胸を痛めるだけなら簡単で

「よし、ここからはバルバッドへ歩いて行けるぞ」

“冥府の城”事件から五日後。紅燭、アラジン、モルジアナの三人は隊商(キャラバン)に付いて五日間の移動を共にし、――そして現在、目的地は目前に迫っていた。
内紛地のバルバッド国内に隊商(キャラバン)は入れないので、ここから先の移動は徒歩となる。

「じゃあね」
「絶対また会おうな!」
「うん!!」

元気よく返事を返したアラジン。紅燭と無表情のモルジアナを含めた三人が手を振るうち、ライラとサアサを乗せたラクダや見慣れた荷車が遠ざかっていく。小粒くらいの大きさになるまで見送ると、後に残ったのは沈黙だった。

「……じゃ、行こっか」
「はい」

アラジンたちは木々に挟まれた道を進んでいく。砂漠地帯では森や林はオアシスの周りにしか無かったが、ここまで来れば乾燥に強い木の群生も珍しくない。所々に落ちる木の影を踏みながら、紅燭は久々の冷涼な空気にほっと息をついた。といっても容赦のない陽射しが相変わらず降り注いではいるのだが。

「これからよろしくね!モルジアナさん!レンくん!」
「ハイ」
「……こちらこそ」

まだ呼ばれ慣れない偽名は少年の反応を一瞬だけ遅らせた。

「ねえ、『モルジアナさん』って長いから、なんて呼ぼうか?」
「……、なんとでも……」
「じゃあ『モッさん』」
「…………………」
「いやかい?」

吹き出したらモルジアナに睨まれたので、紅燭は口元を手で覆って隠すことにした。「女の子に『モッさん』はないよ」と一応弁護しておく。声が震えたのは許して欲しい。

「うーん、」
「モル、ルジ、ジア、アナ……アナは?」
「なんか微妙かも……」
「もうモルさんでいいじゃん」
「いいね!モルさん!」
「モルさん!」
「……まあ、それなら」
「モルさん決定!」

いえーい!とアラジンと紅燭がハイタッチ。宙に浮いた紅燭の手がなぜか今度はモルジアナに向けられる。

「……」

暫し逡巡した後、モルジアナは控えめに彼女の手を叩いた。流れでアラジンもモルジアナと両手を合わせる。

その後も奇妙な模様の葉っぱを摘んで押し付けあったり、アラジンの左右どちらかの肩をつついて素知らぬ振りをしてみたり、なんだかよくわからないテンションのまま彼らは歩き続けた。

「そういえば、レンくんはどうしてバルバッドを目指しているんだい?」

綺麗な蝶を全速力で追いかけ、息を荒らげるアラジンが言った。疲れて冷静さを取り戻したらしい。つられて紅燭とモルジアナもはたと正気に戻った。

「もうすぐ妹がバルバッドに来るんだ」
「レンくんには妹さんがいるんだ!」
「もうすぐ来るって、待ち合わせでもしてるんですか?」

「ううん」そこで紅燭は一旦空を仰いだ。どこまで説明するのが適切かしばし考え、小首を傾げたアラジンとモルジアナに向けて笑みを浮かべてみせる。

「ボクの妹には親に決められた婚約者がいるんだ。バルバッドのある金持ちなんだけど、ソイツの性格が最悪でねー」

なにせ豚だからな、と心の中で付け加えておく。

「当人達は今回が初の顔合わせなんだ。ボクは妹が心配で心配で……」
「レンさんは妹さん想いなんですね」
「婚約を無かったことには出来ないのかい?」
「親が決めたことだからちょっと難しいかな……」
「そっかあ……」
「それよりアラジンくん、例の約束のこと、忘れてないよね?」
「例の約束ってなんのことですか?」
「アリババって子を探す代わりにその笛と中の巨人を研究させて貰えるんだ!ね、アラジンくん!」
「えッ!?え、えーっと、あっ!モルさんは故郷の船に乗るためにバルバッドを目指しているんだよね!」
「(話題を逸らしたな)」

目を泳がせるアラジンを紅燭はじいっと見つめると、にっこり笑ってからすっと目を逸らした。追求から逃れられたことにほっと息を吐くアラジンが、「後でシメればいいや」という紅燭の心中を察することはなかった。
そんな二人の様子を見たモルジアナが呆れた顔をして、すぐにまたいつもの無表情に戻る。

「……それもありますが、あなたと、アリババさんに会いたいと思っていました。お礼がしたくて……」
「おれい??」

首をひねるアラジンだったが、「あっ」なにか思い当たることがあったようだ。

「そっか……宝を使って、アリババくんが身分を解放してくれたって言って――」

そこでアラジンはハッと自らの口を塞いだ。やってしまった、という風に気まずそうな少年を見上げる。
なんとなく事情を察した紅燭は足を止め、「落し物したみたいだからちょっと探してくる。先行っててもいいよ」と来た道を戻ろうとする。気負わせないため敢えての笑顔だったが、何の含みもないそれが逆にアラジンを追い詰めた。
俯くアラジンの肩に手を置いたのはモルジアナだ。

「レンさん、聞いてもらっても構いませんよ」

少年の足が途上で止まる。「……レンさん、」――振り向いた彼は複雑な表情をしていた。

「どうか聞いてもらえませんか。私に自由を教えてくれた、二人の恩人の話を」

それから、モルジアナは話し始める。彼女の足には、かつて重い、重い枷が嵌められていた。





「お二人に奴隷身分から解放して頂かなければ……私は、ゴルタスとの約束を果たしに、故郷を目指せはしなかったでしょう」

モルジアナが語った過去は壮絶なものだった。

この中で最も奴隷に関わることが多いのは紅燭だろう。故に奴隷の扱いの酷さはよく知っていることで、彼女は脳裏にその光景を鮮明に描くことが出来た。

「………」

少年がモルジアナの話について何かしらの感想を述べることは無かった。共感するのも同情するのも、それは彼女の人生を否定し、それまでの想いを踏みにじる行為だと思ったからだ。――……ただ、

「辛いことを思い出させて、ごめんなさい。……いや、違うな、」

少しだけ、微笑んで。

「教えてくれてありがとう」

アラジンとモルジアナは少年の表情に暫し見蕩れていた。彼は快活に笑うことはあっても、静かに笑う人ではなかったはずだ。ひょっとすると珍しいものを見たんじゃないかとアラジンは思った。モルジアナが照れたように笑う。

「自分の意思でやりたいことをできるなんて、アラジンたちに出会う前は、考えもできなかったこと……」

アラジンがモルジアナを見上げると、モルジアナはアラジンを真っ直ぐに見据えた。痛切な過去を話していた彼女とは明らかに異なる、晴れやかな顔だ。

「私に自由な未来を与えてくださって、本当に感謝しています。ありがとう、アラジン」

膝をつき深々と頭を下げるモルジアナを必死に止めるアラジン。言いたいことは言ったといわんばかりに立ち上がった彼女に、今度は苦笑いを零す。

「そっか……よかったね。でも、僕もそうだけど、アリババくんはお礼なんかいらないって言うと思うよ!」

「だって、アリババくんはそういう優しい人だから!」アラジンは自慢げに笑った。そうですね、とモルジアナの同意も得た『アリババ』という男性に、紅燭も多少の興味を抱き始めていた。

この五日間は彼女にささやかな変化をもたらした。紅燭にとってモルジアナとアラジンは既に『他人イコール路傍の石』の域を出つつあり、友人に近い間柄とも認識していた。よって、友人の友人に興味を示すのは当然といえる。

「あ〜あ、僕もアリババくんに会いたくなっちゃったな……」
「……会えますよ。この道を辿れば」
「うんっ。そうだね!」
「ボクも、その子に会ってみたいかも」
「わあ、ホント!?レンくんもきっとすぐ仲良くなるよ!」
「…そう?」
「もちろんです」
「そっかー、楽しみだなあ!」

この道の先にアリババとアリババの故郷が待っている。そう期待に胸を膨らませながら歩き続けるアラジンたちの前に、人影が現れた。アラジンとモルジアナが目を見開く。太陽を背後に彼は両手を広げ、優しい笑みをたたえて――

「やあ、君たち!今日はいい天気だブフォッ」

全裸に葉っぱ一枚を股間に付けた変態だったので、即座に紅燭が叩いた。容赦なく頬を殴られて脇の茂みに突っ込む男。「アラジン!」紅燭が声をかけると、ハッと我に返ったアラジンが前に出て、「モルさんあぶない!!下がって!!」「え、」「モンスターかもしれない!」「アラジン、モルさんは任せた!」「うん!!」

「えっ!?いや、違うんだ!!話を聞い――」

紅燭が男の顔(・・・)をしっかりと認識する(・・・・)まで、制裁は続いた。





焚き火の煙が空へ上がっていく。路槃も麗良もどうしているだろうか。余暉は独りで泣いてはいないだろうか。ああ、兄様は……紅炎は、基地でも夜遅くまで仕事をしているのだろう。特攻していって、遊んでほしいと駄々をこねる振りをして今すぐやめさせたい。アクティブな遊びで疲れさせて一緒にベッドで寝たい。私の旅路の話を、――あの“シンドバッド”と出会った話をしたら、紅炎はどんな反応をするのかな。

「服を貸してくれてありがとう、アラジン!レンくん!」
「うん!僕の小さい服しかなくてごめんよ」
「ボクも貸せるものがマントしかないんだ」

紅燭たちは林の中で休憩を兼ねた昼食を摂っていた。一行の前に現れた男――シンドバッドはアラジンの服を着た上から紅燭の砂よけマントを羽織っている。もちろんアラジンも紅燭も体格が小さいので、シンドバッドが着ると服はパッツンパッツンだしマントはミニスカートのように見えてしまう。これでは全裸とどちらがマシかというところである。変態が服を着た変態にバージョンアップしてしまったかもしれない。

「(本当に、この状況を知ったらどんな反応をしてくれるか楽しみすぎる)」

紅炎の胡乱げな顔を想像して少年はぷぷっと笑った。モルジアナは微妙な目付きをしているが、紅燭としては「こいつはあのシンドバッドだ!!」と大声で叫んでこの可笑しさを共有したい気分だ。

「俺の名はシン。バルバッドに向かうところだった商人なのだよ」
「そっか……さっきは話もきかずにごめんよ、おじさん。どうも僕は砂漠越えのせいで、危険なものにびんかんになっているようだよ……」
「(確かにキケンなものだ!!)」

吹き出すのをギリギリで堪えた紅燭。モルジアナがシンドバッドに向ける不思議なものを見るような視線がこの場の異質さを表していた。

「ほう、君はその年で砂漠を越えたのかい?」
「そうだよ!黄牙の村にある北天山高原から、中央砂漠を越えてきたのさ!珍しい植物や生き物がたくさんいたよ!」
「そうか!いいねぇ……俺はそういう冒険譚が大好きだよ。未知なる土地や知識に出会うあの高揚感は、何ものにも代えがたいね」

「道を切り開くことで生まれる自信、経験、大切な仲間たちとの命懸けの絆……」俯き見ていた焚き火から顔を上げたシンドバッドは、子供のように笑っていた。

「それらを折り重ねて、自分だけの壮大なストーリーを作り上げる快感!いいねぇ冒険は!冒険は……男の(ロマン)だよ!」

――ああ、これは“七海の覇王”だ。

アラジンがきらきらと瞳を輝かせる横で、少年は眩しそうに目を細めた。そこにいたのは、あの頃、紅燭がまだ世界を受け入れられなかった頃、彼女が繰り返し読んだ『シンドバッドの冒険』の、紛れもない主人公だった。

「……あの、バルバッドへ急ぎませんか?今日中に着かないと……」
「おっと、すまないねお嬢さん!冒険譚にはつい熱が入ってしまうのだよ」
「わかる。わかるよ!おじさんのきもち!」

モルジアナは荷物を纏め、紅燭は器を集め、シンドバッドとアラジンは火を消して、それぞれの身支度を済ませる。残り僅かな道中、アラジンはシンドバッドに冒険譚をねだった。何度も読んだ内容でも本人に聞くとまた違った味を魅せる。アラジンほどではないがシンドバッドの語りに聞き入っていた紅燭は、ふと視線を感じてその方向を見た。シンドバッドとかち合う。

「なに?シンさん」
「ん?…いや、どこかで見た顔な気がしてね」
「んー、旅の途中で会ったことあるのかなあ。ごめんね、思い出せないや」
「そうか……。君も、冒険に興味があるのかい?」
「…どうして?」
「いや、随分熱心に聴いてくれていたようだからね」
「……冒険自体に、あまり興味はないよ。未知なる土地や知識には心揺さぶられるけど、自信も経験も命懸けの絆も、いらない。この世界は、ボクには広すぎるから」

紅燭が脳裏に描いたのはあの小さな(・・・)国だった。兄弟がいて、姉妹がいて、部下がいて、紅炎がいて。それだけの小さな世界で精一杯なのだ。孤独に一生を終えた彼女にとっては、再び生まれ落ちたのが殺伐とした世界でも、戦争が絶えなくても、奴隷なんてモノが存在していても、たとえ外に心躍る剣と魔法の世界が待っていようと、愛しい家族がそばにいるだけで十分幸せだった。

「……君は――」
「ねえ!!みんな見て!!」

アラジンの浮き足立った声を聞いて紅燭は一目散に走りだした。目の前からいなくなった少年にシンドバッドはぽかんと惚ける。先頭のアラジンに紅燭とモルジアナが追いつき、歓声を上げた。

「ここが、バルバッド……!」

まず視界に入ったのは広大な海。大小様々の島がぽつぽつと浮かんでいて、それが地平線の向こうまで続いている。それから船。商い用だろう大きなものもあれば、移動の為の小舟が海と繋がる広い川をいくつも行き交う。海に目を見開き、活気づいた人々の様子を興味深そうに眺める紅燭を見ていたシンドバッドは、ふっと笑って呟いた。

「……冒険が嫌いなわけじゃないのか」

彼の目線の先では、はしゃぐ紅燭とアラジンがモルジアナの手を引いて走り出していた。

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