声を上げることも出来ないまま、揺れる体で抵抗することも出来ないまま、どこへ向かっているのかも分からずに、ただ土を踏む音だけを聞いていた。


四、黒い影


「きゃあ!」

渓の小さな体は、どこかに乱暴に放り投げられた。目が見えない為に方向感覚も失っていた渓は、受身も取れないまま地面に叩きつけられる。打ち所は悪くなかったようだが、豪快に打ち付けられた右半身がひどく痛んで息がしづらく、渓は体を起こせなかった。床からは土の匂いも砂利の感覚もなく、古びた木目の感覚があったので、どうやら外ではないらしい。湿気てこもった空気が充満していたので、どこかにある小屋なのだろう。

「さて」

この状況にも関わらず、いつも通り低く優しい川路の声だ。それが尚更渓の恐怖心を煽る。

「困りましたね渓さん、こんなことになってしまって」

体の痛みとひどく苦しい呼吸、そして震えが止まらないほどの恐怖。様々なものが重なって、渓は声も出せないまま身を硬くする。

「もし目が見えていたら、馬車に乗っている時点でこのような危険を察知出来たというのに。可哀想な人だ」

つまり川路は、初めから渓を滋賀に送り届けるつもりなどなかったのだ。律儀に送るふりをして、目の見えない渓をこうしてまったく違うところに連れ去った。

「目が見えない貴女は、ここが何処なのかも、誰がここにいるのかも分からない。大蛇実験を拒むからこうなるんですよ」
「どう…して…」
「どうして?簡単なことです、貴女には一刻も早く被検体になっていただかなければ困るんですよ。云ったでしょう、もうすぐ私の娘は死にます。しかし貴女が実験を受ければ娘が助かる可能性は十分にある。私の可愛い娘の命が助かるかどうかは、貴女の答えにかかっているんです」

渓は上半身をのろのろと起こしながら、震える自身の小さな体を抱きしめて唇を噛む。結局川路は、どんな手を使ってでも渓を実験に使うつもりなのだ。自身の愛する娘の為だけに。

「大蛇の実験を行えば、貴女の目は見えるようになるし、日本の医療の未来に繋げられるし、何より私の娘の命が救える。その上、自分が罪人であるという記憶も綺麗さっぱり消えてしまう。つまり貴女は、蛇の信者という罪人から、多くの人々の命を救う英雄に生まれ変われるんです。それに私が口添えすれば、国から多額の報酬だって貰い受けることが出来る。どうです?素晴らしい条件でしょう?」

川路がそう言うと、あちこちから男の笑い声が聞こえた。渓はすっかり震え上がってしまって、反射的に後退する。どんっと渓の背中が壁にぶつかった。目が見えないため、今いる場所の大きさも、どこに出口があるのかも分からない。今ここに何人の男達がいて、どんな姿をしているのかも分からない。恐怖以外なんの感情も生まないこの状況で、渓は何度も頭の中でくり返す。

―――たすけて、たすけて、誰か

本当は叫んでしまいたいのに、怯えて声はうまく出せない。目が見えない以上、渓に逃げ場はなかった。床が僅かに軋む音でさえ過敏に反応してしまう。そんな渓の姿を見て、男達はゲラゲラと馬鹿にしたように笑い声を響かせた。

「滑稽なお姿ですね渓さん。目が見えていたら良かったのに」
「…」
「いやね、私だってこんな事したくはありませんよ。貴女が自分の意思で実験を受けると云わない限り、犲も隠密化学部も実験はしてくれないんですよ。国から出されている大蛇実験の規約も厳しくなりましてね、"被検体が自らの意思で実験を受けない場合、実験を行ってはならない"となっているんですよ。ですから私は、貴女に自ら実験を受けると云っていただきたいだけなんです。これは私の意志ですよ、と宣言していただきたい、それだけなんです。お分かりいただけますか?」

渓は薄っすらと涙を浮かべながら、子どものように首を横に振る。川路という男は、娘を救うためならどんな手段でも選ばない。仮に渓が実験を受けることを選んだとして、それで満足のいく結果が残せなかった場合、最初に自身の口で説明した「曇天火の時のように体を傷付けたり過剰に細胞を入れたりする事はない」という約束さえ簡単に覆してしまうのだろう。

今この場から解放されるためには、実験を受けるという以外道はない。しかし、川路という男が関わっている以上、どんなに整えられた環境であれ大蛇の実験を受けるのは危険だと渓は本能で感じ取っていた。最悪、天火同様死刑宣告だってされてしまう可能性だって否定出来ない。

ガタガタと震えながら何度も何度も首を振る渓の姿を見て、川路は呆れたように息を吐くと、低く響く声を出した。

「やれやれ、聡明なお嬢さんだと思っていたが、どうやら随分頭の悪い小娘だったらしい。……ほら、やれ」

川路がそう言うと、突然複数の足音がいろんな方向から渓に近付いた。背後に壁がある以上、渓はそこから動くことも出来ない。身を硬くして縮こまっていると、突然両腕を捕まれて、そのまま乱暴に壁に押し付けられた。

「や…!」
「年端も行かぬ小娘に恐怖を植え付けるなんて簡単なんですよ」
「な、に」
「実験を受けると云えばやめさせましょう。受けないのなら死ぬまで彼等の相手をしてやってください、どうせ女に飢えていますから。そうそう、助けて欲しさに実験を受けると嘘を云った場合、また何度だって同じ事をさせますので覚悟しておいてくださいね。あぁそうだ、犲に助けを求めても無駄ですよ、私は彼等よりも力を持っていますからね、この程度のボヤ、揉み消してしまうなんて蟻を潰すようなものです」

笑いながらそう言い切った川路に渓はぞっとした。そして一人の男の腕が、渓の胸元に伸びる。

「さて、遊んでやろうかお嬢ちゃん」

男はにやにやとして言いながら、渓の着物の胸元を広げた。咄嗟に反抗しようとするが、両腕を押さえつけられ、両足の自由も奪われてしまった。渓は暗闇の中で、必死に自身の理性を繋ぎとめていたものの、とうとう恐怖の絶頂を越えてしまった。

「いやあぁぁぁぁぁぁ!!!」

悲痛なまでの叫び声が、どこかも分からない小屋の中に木霊する。今何人の男が自分に群がっているのかも分からずに、渓はボロボロと涙を零しながら抵抗するが、所詮は無駄なことだ。華奢で小柄な渓が、力で男に適うはずがない。男の腕が渓の胸を乱暴に掴んだとき、渓は張り裂けんばかりの声で叫んだ。

「たすけて白子!!!!」

金城白子を失ってから、本当は心の奥底のどこかで渓は白子を諦めていた。もう二度と会えない、もう二度と触れない、だからこそ一生白子の記憶に捕らわれたまま生きていくんだと、きっとずっと覚悟していた。だからこの一年、声にして白子を求めなかった。会いたいと口に出せば、寂しいと声にすれば、それだけ自分を苦しめてしまうと分かっていたからこそ、渓は天火の胸の中で泣いた日以来、一度も白子への想いを誰かに吐き出したりしなかった。

しかし、恐怖が限界を向かえ、無我夢中になった瞬間脳裏に浮かんだのは、淡い月のような男、金城白子ただ一人だった。渓は無意識のうちに白子を求めて声を上げる。助けに来るはずがないと、頭の片隅で息をする冷静な自分は知っていたのに。なんて馬鹿な願いなのだと、もう一人の自分は笑っていたのに。


刹那、外から耳を劈くほどの悲鳴が聞こえて、男達はピタリと動きを止める。


そして次の瞬間、バアンと乱暴な音を立てて、小屋の扉が開いた。いや、正確には、蹴破られて破壊された。そこに現れたのは、全身を包み隠せるほど大きな黒い外套を頭からすっぽりと被った誰かで、顔は見えないが、背丈からして男のように見える。突如現れた男の外套は濡れていて、それが返り血であることは誰の目から見ても明らかだった。

「な、なんだテメェ!」
「外の見張りはどうした!」

渓を押さえつけていた男達は、慌てたように渓から離れると男に向かって武器を構える。渓は何が起こったのかも分からないまま、ガタガタと震えながら自身の体を守るように包み込んで、何も映さない瞳で目の前の暗闇を必死に見つめ続けるばかりだ。

「う…うおおおおおおお!!」

一人の男が勢いよく黒い外套の男に切り込んでいくが、黒い外套の男は難なくその一撃を交わすと、持っていた刃物で男の首元を裂いた。一瞬にして男はただの肉の塊と化し、首筋から見事なまでに血を噴き出して崩れ落ちた。黒の外套がまた濡れる。たった一撃で沈んだいった仲間を見て、その場にいた男達は全員固まってしまって、何がどうなっているのか理解も出来ない。

黒の外套を被った男は、ゆらりと音もなく男達に向かって足を進めた。男達から小さな悲鳴が漏れたが、数でかかればどうにかなると踏んだのだろう、数人の男達が一斉に外套を被った男に襲いかかる。だが、結局はそれすらも無意味で、ただ黒の外套を自分達の血で染める結果になってしまっただけだった。

渓は自身の両肩をぎゅっと強く抱えながら、刃を交える音と肉を裂く音、そして男達の悲鳴を耳にするばかりで、今何が起こっているのかさえ理解出来ていない。必死に体を小さくして、どうかこの瞬間が一刻でも早く終わるように願うことで精一杯だ。

黒い外套の男は、そんな渓を横目で見ながら、あっさりとそこにいたすべての男達の命を奪うと、ゆっくりと川路に顔を向けた。川路は完全に腰を抜かしていて、怯えたように情けない悲鳴を上げると、地面に座り込んだまま少しずつ後ずさる。外套の男はそんな川路に向かってゆっくりと足を進めながらその距離を縮めていく。

「や、やめてくれ!助けてくれ!」

川路は叫ぶが、男は答えない。一歩、また一歩、川路と外套の距離が縮まっていく。

「か、金なら払う!いくらでもだ!そこの女だってくれてやる!」
「…」
「た、頼む!命だけは…妻が、娘が…!」

外套の男は川路との距離がなくなると、何か言いかけて口を開いた川路の頭を勢い良く掴む。川路の頭がミシミシと嫌な音を立てて、同時に汚らしい悲鳴が上がった。外套の男は軽々と川路の頭を持ち上げると、痛みのあまり必死に抵抗する川路の首を、躊躇いもなく裂いた。川路の首筋からは鮮血が溢れ、それがまた男の外套を濡らす。男が持ち上げた川路の頭を離すと、目を見開いたまま絶命した川路が、ゴトンと音を立てて床の上に転がった。

黒い外套の男が現れて、ものの数分。小屋の中はあっという間に死体で溢れかえり、血の海と化した。静寂が鳴り響く。小屋の中に広がっているのはあまりに悲惨な光景で、見れたものではなかった。渓の目が見えていなかったのは幸いだったかもしれない。

不気味なほどしんと静まり返った小屋の中、渓は目の前に広がる光景など知らないまま、ガタガタと震えていた。何者かが現れて男達と川路が死んだのであろうことは理解していたが、今この場所に自分以外の誰がいるのかも分からない渓にとって、現状は相変わらず最悪だった。下手に動けば殺されるかもしれない、という先程まで感じていた恐怖とはまた別の意味で、恐怖は継続されたままだ。

返り血に塗れた男は、無言のまま渓に顔を向けて、どうすればいいかも分からずにガタガタと震えるその姿を見つめると、血まみれの外套を身に纏ったまま渓に近付いた。床の軋む音と水溜りを踏むような音が近付いて来て、渓は小さく悲鳴をもらして固まった。助けてという声も上げられずに震えていると、男はそんな渓の前にゆっくりと膝を着いた。そして、そっと渓の頬に右手を伸ばす。

「嫌っ!!」

男の指先が渓の頬に僅かに触れた瞬間、渓は反射的にその手を拒んだ。弾かれた男の腕はパシンと音を立てる。防衛本能が働いた故の行動だったとはいえ、渓は思わず肩をビクッと震わせて、怯えた目で目の前の暗闇を見つめた。これで機嫌を損なって、自分まで殺されてしまったらどうしよう。そう思った渓の口からは、自然と声が零れ落ちていた。

「ごっ…ごめん…なさ…」

渓は胸元を守るように抱きしめながら、自然と溢れる涙を拭うこともせずに震えることしか出来ない。自分はここで死んでしまうのか、どこか冷静なままの自分がそう分析している。それ以外のことは、怖いということ以外何も考えられなかった。

男はそんな渓を見つめながら、弾かれた腕を一旦落ち着けると、再びその腕を伸ばした。そして俯き気味に震える渓の頭に、ぽんっと手のひらを乗せる。渓はそれと同時に大きく肩を震わせて悲鳴をもらしたが、抵抗は出来なかった。心臓は痛いくらいに跳ねて、異常なまでにどくどくと音を立てる。

―――もうだめだ

渓がぎゅうっと強く目を瞑って諦めた、まさにその瞬間だった。乗せられた手のひらが、労わるように渓の頭を何度も撫ではじめたのだ。その手つきはひどく優しくて、どこか懐かしい。渓は思わず目を開くと、何が起こったのかも分からずにしばらくその行為を大人しく受け止めていた。

呑気な渓の脳みそがゆっくりと状況を把握し始めてからしばらくして、ようやく渓は頭を撫でられているということに気付く。渓が恐る恐る顔を上げると、頭を撫でていた手のひらは滑るように渓の頬を包み込み、溢れる涙をやんわりと拭った。渓は少しだけ肩の力を抜いて目を閉じると、手のひらの温もりを確かめながらいつかの遠い日を思い出す。たった一人、男の姿が頭に過ぎった。

渓の涙をある程度拭った手のひらは、次にそれを渓の肌蹴た着物へと移した。渓は僅かに肩を震わせるが、目を閉じたままで抵抗する素振りは見せない。手のひらは着物に手をかけると、露になっていた渓の白い肌を隠すように崩れた着物を整えていく。渓はなされるがままでゆっくりと目を開くと、少しだけ小さく深呼吸した。目を開いたときには不思議と恐怖心は薄れていて、僅かな期待と好奇心が渓の胸に芽生えていた。

渓は無意識のうちに、それでも恐る恐る男に右手を伸ばしていた。それに気付いた手のひらがふと手の動きを止めて、渓もハッとなる。

「ご、ごめんなさい…」

渓は慌てて右手を引っ込めると、また縮こまってしまった。

「あ、あの、私、目が見えなくて、だから、その…」

なんと言えばいいのかも分からずに渓がしどろもどろとしていると、渓の着物を整えた手のひらは、引っ込められた渓の手を追いかけて、小さなその手をやんわりと握った。渓の手を包み込んだ手のひらは大きくて、指先は無骨で、それでいて温かい。渓が驚いたように目を丸くしている間に、大きな手のひらは渓の手を優しく導いた。

渓の手のひらが導かれたのは、男の顔だった。男の頬に渓の手のひらがあって、その小さな手のひらを包み込むように男の手のひらが重ねられていた。渓はしばらく動けずにいたのだが、少し遠慮がちに男の頬に指先を這わせ始める。すると男は重ねていた自身の手のひらを離して、反対の手で渓の左手を握った。もう、渓も驚かなかった。

白く細い指先が、男の顔を確かめるように辿っていく。少し切れ長の目、長い睫毛、高い鼻、時々指先に触れるふわふわの髪。渓は男の頬に触れたまま、何も映さない目でまじまじと目の前にある顔を見つめた。頭の中でじっくりと男の顔を組み立てながら、ゆっくりと口を開く。

「えっと…男性、ですか?」

男は何も答えなかったが、繋いでいた渓の手を一度だけぎゅっと強く握った。渓は何度か瞬きをすると、もう一度口を開いた。

「…女性、ですか?」

今度は、ぎゅっぎゅと二回、渓の手を握る。渓は少しだけ考えて、これが肯定と否定の返事であることを悟ると、目の前の男に思い切って尋ねてみた。

「貴方が、助けて、くれたの?」

男は何も言わないまま、渓の手を握って返事を返すこともなかった。助けに来たのか、そうでないのか、答えてもらえない限り渓にだって分からない。しかし、それも仕方のないことだろう。間違いなく、目の前の男は渓を助けるためにここに来た。だが、そのかわり渓以外の人間をすべて殺したのだ。男が纏う黒い外套がその証拠だ。

渓はしばらく男を見つめたまま、ある言葉を声にしようと口を開きかけたが、どうしても言い出せなくて結局やめた。かわりに別の言葉を口にする。

「…ありがとう、助けてくれて」

自分を助ける為に人を殺した相手だと分かっていても、男に対する恐怖心は完全になくなっていた。反対に、芽生えかけていた期待と好奇心が完全に膨れ上がってしまって、先程までとは違う意味で心臓がうるさく鳴り響いていた。

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