「師匠!」

夕刻、空丸が勢い良く犲の詰め所の扉を開いた。

「なんだ騒々しい」
「あの、渓さんは…」

その言葉に、蒼世は眉を顰める。

「渓なら先刻川路様が神社まで送ったはずだが…もう着いている頃だ」
「帰って来てないんです!錦にも辺りを探してもらったんですけど、それでも近くにそれらしい人影はないって…!」

息を切らせて吐き出された空丸の言葉に、蒼世はすっと背筋が冷えていくのを感じた。


五、懐かしい匂い


死体と血で溢れ返った小屋の中、二人は依然として動けずにいた。渓は男の頬に触れたまま礼を言ったきりで、男もまた渓の手を握ったままでじっとしている。

渓は、今目の前にいる男がこの場所にいた自分以外のすべての人間を殺した事など分かっていたし、それがどれほどの罪なのかということも理解出来ているのだが、どうしたって恐怖心は芽生えない。むしろ、荒れた海のように波立っていたはずの心は穏やかさを取り戻していて、それでいてきゅっと胸の奥が痛む。

この甘く痺れるような胸の感覚を、渓はずっと昔から知っていた。それでも何も言えないのは、目の前の男が何も言わないからだ。きっと二人は、お互いに悟っている。聞いてはいけないこと、言ってはいけないこと、知ってはいけないこと、深入りしてはいけないこと、今の二人にはそれらがあまりにも多すぎるのだ。それに、渓自身まだ確信には至っていない。本当にこの男が本物なのかどうか、目が見えない状態ではっきりと判断を下せるほど渓の疑いは浅くはなかった。しかし、不思議と間違っている気もしない。

ただ、喉元に引っかかったこの疑問を言葉にしてしまった瞬間、目の前から本当に彼が消えてしまうのだということだけはなんとなく分かっていた。目が見えないからこそ、何も知らないままだからこそ、夢のようなこの時間が今ここに存在するのだ。何か一つでも目の前の男のことを知ってしまえば、それだけでこの夢は簡単に醒めてしまう。確かな温もりも、優しい手のひらも、次こそ本当に失ってしまうのだ。

渓は暗闇しか映さない世界の中で、必死に男の感覚を確かめる。男の頬に添えた手を少しずつ下部に動かせば、指先は唇に触れた。薄く柔らかい唇に、あの日の記憶が甦りそうになる。それが怖くなって、渓はようやく男から手を離した。それでもまだ男の手は渓の手を握ったままで、動く気配もない。

「…あの、」

たっぷりの間の後、おずおずと渓は声を上げる。答えてもらえるかどうかは分からなかったが、それでも尋ねたいことは山ほどあった。今何時なのか、ここは何処なのか、どうやって滋賀に帰ればいいのか。とにかくそれだけでも答えてもらわなければ、この死体にまみれた小屋の中で誰かが助けに来るのを待たなければいけない。心配性な空丸のことだ、もしかするともう探し始めているかもしれない。

とにかく今は帰る事を考える、それが何より一番優先すべきことだということは渓にも分かっていた。だからこそ何か一つでも尋ねなければと思うのだが、「本当に一番聞きたいこと」が頭の中でぐるぐると巡ってしまってどうしようもないのだ。口を開けば真っ先にそれを声にしてしまいそうな気がして、渓はなかなか質問を吐き出せない。


―――貴方は、誰なの?


声にならない問いかけを、一人頭の中で何度もくり返す。このまま言葉にしてしまえばきっと心は楽になるのだろうが、そうすると今ここにある温もりはきっと消えてしまう。渓が言いづらそうにもごもごとしていると、ふと左手にあった温もりが離れて、一気に不安が込み上げる。反射的に渓が手を伸ばしかけたとき、突然バサバサと何か布を脱ぎ捨てるような音がして、渓は思わずその手を引っ込めた。胸の前でぎゅっと両手を握って、何が起こっているのか分からない状況にただただ身動きが出来ずにいるばかりだ。

男は立ち上がって自身の体をすっぽりと覆っていた外套を脱ぎ捨てていた。細く、それでいてしっかりとした男の曲線が露になる。返り血を含んで重みを増した外套が、バサリと音を立てて地面に落下した。一気に身軽になった男は、再び渓の前にしゃがみこむと、青白い頬にそっと指先を預ける。何も見えないままの渓は、突然頬に触れた温もりに驚いて小さく肩を震わせたものの、もう拒みはしなかった。むしろ、男がまだここにいてくれたことに安堵の息を吐く。

壊れ物を扱うかのように優しく渓に触れる指先は、ほんの少し緊張していた。その指先はゆっくりと、そして不安げに渓の頬を滑っていき、薄く色づいた渓の柔らかな唇を、慈しむように一度だけ撫でた。男のその行動に、渓の心臓が懐かしい音を立てる。ドキッと跳ね上がった胸は鼓動の速度を上げて、渓の体温をいつもより少しだけ上昇させた。その感覚に渓は泣きたくなって、とうとう我慢出来ずに一番言葉にしたいことを伝えようと口を開きかけたとき、間髪入れずに渓の体がふわりと浮き上がった。

「っきゃあ!?」

渓の口からは予定になかった驚きの悲鳴が漏れた。それと同時に、込み上げかけた涙も一気に引っ込んでいく。突然の浮遊感に軽く混乱した渓は、咄嗟に身を硬くして男の胸元をぎゅっと握り締めた。

男が身に纏っていたのは着物ではないようで、やけにぴったりとその体を包み込んでおり、袖もないので男の肩も露になっていた。横抱きにされた渓の心臓は、突然の浮遊感への驚きと、やけにしっかりと伝わる男の温もりに一層活動を急ぐ。これは夢なんかじゃない、そう言い聞かせられているような気さえした。

男は華奢な渓の体を軽々と抱き上げたまま、静かに歩き始めた。古く湿気た床がギシッと鈍い音を立て、ピシャリと赤い水溜りが跳ねる。目の見えない渓は揺れる体と耳から伝わる音にすっかり怯えてしまっていて、白い手がさらに真っ白になるくらいに強く男の衣を握り締めていた。

そんな渓をあやすかのように、華奢な肩を支えていた男の指先がトントンと優しく渓の肩を叩き始めたのだが、それでもまだ怯えたように渓は表情を引きつらせたままだ。
しかし無理もないだろう、今自分が死体の上を通り過ぎているのだと渓は知っているのだ。どれほど悲惨な状況の中を抱えられているのかくらい、想像するのは容易い。

男はそんな状態の渓を連れたまま小屋の外へ出た。さくっと柔らかい土を踏む音に渓も少しだけ力を抜くものの、それでも目が見えない状況でいきなり抱きかかえられ、ここがどこかも知らされていないのだから、どうしても不安と恐怖が沸々と沸き上がってしまう。

ぎゅうっと男の胸元を強く握ったままの渓を見た男は、抱きかかえている腕をずらして渓の小さな体を片腕で抱えなおすと、空いた手で自身の胸元を強く握る渓の手を解放させた。そして渓が驚くのも構わずに、その腕を引いて自分の首元へ回させる。渓は驚きと戸惑いを隠せなかったが、男になされるがまま男の首に回した手で、遠慮がちに逞しい男の肩を掴んだ。

「あ、あの…?」

渓がおずおずと声を上げている間に男は再び両腕でしっかりと渓の体を支えると、しゃがみこんで両足にぐっと力を入れた。その瞬間、渓もまさかと思い顔を引きつらせたのだが、そんな渓になど無視をして男は勢い良く飛び上がった。

「ひゃ…!?」

華奢な渓の体にぐんっと重力が圧し掛かる。結局渓は男の肩に乗せていた両手を男の首に回して、しっかりとしがみ付かざるを得なくなった。そんな渓の小さな体をしっかりと抱きかかえたままの男は、その逞しい腕に力を入れて、抱きしめるように渓の体を自身に押し付けた。二人の体が密着し、渓の顔が男の首筋に埋まる。ドクドクと鳴り続ける心臓の鼓動が男に伝わってしまうのではないかと思ってしまって、余計に渓の心臓は煩く鳴り響く。

冷たい風が渓の肌を刺し、頬には男の柔らかな髪が触れる。首筋から僅かに、懐かしい優しい匂いがした。渓は唇を噛むと、今にも溢れそうな涙を必死に堪えながら、何も言わずに一層強く男の首筋を抱きしめる。この男が何者なのか、今何処へ向かっているのか、もう渓には尋ねる必要はなかったし、答えてもらう必要もなかった。そんな些細なことは、もはやどうでもいいのだ。ただ、この想いを言葉にしてはいけない、それだけは何より確かなことで、聞かれずとも渓にはそれが分かっていた。


―――。


心の中で、渓は名前を呟いた。記憶の中で揺れる白い髪、振り返って微笑む顔、鋭くも優しい紫眼、差し出される大きな手のひら、紛れもない温もり。暗闇しか映さない世界の中でもはっきりと思い出せる十年が鮮明に甦って、胸の奥がじんと痛み、ようやく解放されたように解けていく。

渓は、確信した。

胸の中に溢れて止まない想いは、口を開けば零れだしてしまいそうだったのだが、渓は必死に堪え続ける。声にした時点で、待ち望んだこの温もりは消えるのだ。自分の目が見えないから、この男が何も答えないから、だからこそここにいられる。この温もりに包んでもらえる。

勢い良く風を受け、がさがさと木々を抜けていく音を耳から感じ取りながら、渓は遠くで雨の匂いを察知する。ゴロゴロと鳴り響く音に近付いて行っているような気がして、思わず声を漏らしていた。

「…雨…」

ぼそっと呟けば、肩を支えていた男の腕が、ぎゅっと一度だけ強く渓の肩を握った。肯定の意。渓はそのまま言葉を紡いだ。

「降ってる、んでしょうか」

もう一度、ぎゅっと力が込められる。彼が濡れてしまうから、たくさん降っていないといいな、と思いながら。渓は男の首筋に顔を埋めた。


 ● ●


滋賀には雨が降り注いでいた。日が落ちても渓の行方はおろか、川路の行方も不明のままだ。暗闇の中でも犲は渓の捜索を継続しており、空丸と錦もそれに協力していて、曇神社は宙太郎が留守を預かっていた。

犲と空丸達は滋賀と京都に分かれて渓の足取りを追っていて、詰め所から芦屋が式神を利用して渓を探している。そして蒼世は一人、警察署内にある川路の部屋を漁っていた。洋風の部屋の中は綺麗に片付いていて、見た感じ無駄なものは何も置かれていない。机の上には仕事の書類と家族の写真が飾られており、まったく散らかっている様子はなくきちんと整頓されて並べられている。几帳面な川路の性格がそこに現れていた。

机の上の書類を一枚ずつ確認していくものの、怪しげなものは見つからない。蒼世は机の上の写真立てに視線を寄越すと、それを何となく持ち上げた。目尻にたくさんの笑いじわを刻んだ穏やかな顔つきの女性と、その女性に良く似た可愛らしい少女がその写真には写されているのだが、少女の方はやせ細っていて、あまり顔色もよくはない。それでも二人は幸せそうに笑いながら、少し照れ臭そうな顔で真っ直ぐにこちらを見つめている。

そして蒼世は川路の娘が不治の病に侵されていることを思い出した。同時に、川路が渓を利用した大蛇実験に随分と肩入れしている姿が甦る。すべてを悟った蒼世は、川路の机の引き出しを隅々までくまなく探索していく。必ずどこかに何か手がかりがあると確信しながら、蒼世は一人必死に川路の部屋をひっくり返す。

そんなとき、部屋の扉を軽く叩く音が聞こえて振り返ると、そこには式神を飛ばしていたはずの芦屋がいつもの様子を崩すことなく立っていた。

「失礼します」
「渓は?」
「いえ、渓さんはまだ。ただ式を飛ばしたところ、川路様は見つかりましたよ。遺体の状態で」

蒼世は一気に眉を顰めた。無残な渓の姿が頭を過ぎる。一旦部屋の探索を中止した蒼世は、足音を鳴らしながら部屋を出た。芦屋もそれに続く。

「場所はどこだ」
「京都と兵庫の県境の辺りにある山中です。一人ではないようですが」
「他にも遺体が?」
「多数」
「…その中に渓は?」
「いませんね、渓さんの行方だけが追えません」

きっぱりとそう言い切った芦屋に視線だけを寄越しながら、足を止めることなく蒼世は口を開いた。その顔は険しい。

「追えない?」
「ええ、式を送っても反応がないんです。まるで何かに邪魔をされているかのように」
「…」
「そんなに柔な式じゃないんですがねえ。それでもその式の気配を感じ取れる"誰か"が、渓さんを連れている可能性が高い」

蒼世の脳裏に、一人の男の姿が思い浮かんだ。嘉神と天火達が対峙していたとき、十年ぶりに姿を見た渓を守るように抱えていた男。白髪に紫眼、渓がこの世界で唯一愛したその男は、大蛇の眷属、風魔。仮にその男が生きていたとしたら、同じ大蛇の眷属である渓を利用しようと連れ去ってもおかしくはない。目の見えない渓が一年もの間暗闇の中で求めた男だ、渓だってきっと、自ら望んで着いていくに違いない。

渓がいなくなる。
蒼世にはその最悪の結末が訪れないことを祈ることしか出来なかった。

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