静かな部屋の中、無音の呼吸。
ずっと遠くから、雨の気配が迫っていた。


三、現れた本音


大蛇の実験を受けない。
渓がそう答えてからしばしの沈黙が流れ、ずっしりと重い空気の中耐え切れずにふうっと息を零したのは川路だった。誤魔化すようにお茶に口をつけてから、ゆっくりと口を開いた。

「…それは本気ですか?」

いつになく低く響く川路の声には威圧感があった。渓は僅かに肩を縮めるが、負けじとはっきり言い返す。

「はい、本気です」
「なぜでしょう?目が見えるようになることはほぼ間違いなく確定している。貴女を苦しめた大蛇に関わる記憶など、消えた方が幸せになれるというのに」
「その消さなければならない記憶が、私にとっては目が見える事よりも大切だからです」

渓は少し間をあけてから、僅かに俯いて言葉を続けた。

「…本当は、少しだけ悩みました。目が見えない今、私は人の手を借りないと生きていけないし、そのせいで曇のみんなにはとても迷惑をかけてるし…だから、大蛇とその眷属に関わる記憶を全部失ってでも、目が見えた方がきっと幸せなんだろうと思うんです。みんなだって、きっとそう思ってくれてる。それに、いずれ完全に消えてしまう記憶を愛でていたって、目が見えるようになれば私の中でその記憶達はすべてなかった事になる。だったら視力を取り戻して、何も知らない新しい私のまま生きていく方が、私にとってもみんなにとっても良い事なんだというのは分かります。でも、」

そこで一旦言葉を切った渓の脳裏に、月のような彼の姿が思い浮かんだ。初めて名前を呼ばれた日、一緒に買い物に出掛けた日、手を繋いだ日、抱きしめられた日、胸の中で泣いた日。温もりも、笑い合った日々も、容易く思い浮かぶのだ。重ねてきた月日の中、傍にいた事実が確かにあるというのに、この優しい記憶がすべて消えて、初めから「無かったこと」になる。天火達の中にも残る彼との記憶を、渓だけが失ってしまうのだ。

金城白子と名付けられた男と出会って十年。
渓が今日まで生きてきた人生の中の、半分を共に生きてきた。そして誰よりも何よりも、その存在を愛していた。すぐ傍にあった白子の温もりと視力を完全に失ってから、一年。抱き続けた想いは、今も揺らぐことはない。

渓なりに前に進まなければという気持ちがあったこそ、確かに存在した白子との記憶達を諦めることも考えたのだが、考えれば考えるほどに愛しさと名残惜しさで胸が溢れかえる。結局、記憶を消すことを選ぶなんて、初めから無理だったのだ。例え渓自身が被検体となった大蛇実験が国の為になろうとも、それを選び取れるだけの強さを渓は持たないし、持とうとすら思えない。

大蛇が消えた日、最後に触れ合った唇、温もり。あれが渓の中に残された最後の白子の欠片だ。容易く手放す事も、ましてや誰かに奪われる事など、渓が許せるはずがない。それが醜くて汚い感情だったとしても、渓はそんな自身の弱さも、光を宿すことのない目さえも受け入れて生きる事を決めたのだ。

「大蛇に関する記憶はすべて、私が背負うべき罪なんです。何もかも忘れてのうのうと生きることなんて許されないし、例えすべての記憶を失ったって、私が蛇の信者である事実は消えない。それに、風魔の記憶が消えてしまったら、今曇にいる錦ちゃんが知らない人になってしまう。ずっと私の面倒を見てくれていたのに、視力が戻ったからもう一度はじめましてなんて、私には出来ません」

そう言うと、渓は自身の胸にそっと手を当てる。そして憂いを帯びた瞳のまま、儚げに微笑んだ。

「それに、忘れたくない人がいるんです」
「…」
「目の前で失った多くの人達を、私は忘れたくない。大切な人を失う瞬間の記憶と共に、苦しみながら生きていきたいんです」

忘れたくないのは白子だけではない。渓は自分の中に眠る姫が犠牲になった瞬間も、白子の双子の弟が死んでいった瞬間も、多くの人々が戦い傷付いていた姿も、自身の目や姫が見ていた視界から確かに見てきた。それらはすべて、渓の中に残っている悲しい罪の記憶だ。簡単に手放せるほど軽いものではない。

「だから、大蛇の実験は受けません。お役に立てなくてごめんなさい」

渓は静かに頭を下げる。こうなれば頑固な渓だ、きっともう自身の意見を曲げはしない。それを知っていた犲はこれ以上渓に何を言っても無駄だと分かっていたので、一同諦めたような顔をする。しかし、その顔に安心感が滲んでいるのは、渓が天火を苦しめた大蛇実験を受けなくて済む、という結果にだろう。目は見えないままだが、これを機に渓が少しでも進み始めることが出来れば、それだけでも渓を大切に思う面々は救われるのだから。

だが、川路だけはそうではなかった。眉間にしわを寄せて、腕を組んで何やら考え込んでいる。そして間をあけてから、ゆっくりと口を開いた。

「では、こうしましょう」

低い声で川路は続ける。

「被検体になってくだされば、その分報酬を与えましょう。貴女の望む額でいい」
「え…?」

突然の話題に渓は頭がついていかず、思わず眉を顰めた。お金の話など一度だって出たことはないのに、川路は遠慮なく言葉を並べ立てる。

「いくら欲しいですか?いくらでもお渡しします」
「あの、云ってる意味が…」
「ですから、貴女が実験に参加してくださるなら、記憶を消す代わりにお金を与えると云っているんです」

渓は困惑の表情を浮かべたまま固まってしまった。わけが分からず混乱していると、助け舟を出したのは蒼世だ。

「川路様、お気持ちはお察しいたしますが、被検体となる者が実験を拒否した場合、この話はなかったことにさせていただくと最初の時点でお話したはずです。被検体となる者ははっきりと拒否しています。これ以上の説得は無駄かと」
「…しかし、日本の医療の未来が」
「それも存じ上げておりますが、西洋の技術を多く取り入れている今、少しずつ医療の進歩も望めるでしょう。大蛇実験は約束通り、打ち切りとさせていただきたい」

川路は言葉を詰まらせると、しばらく頷くことも受け入れることもしなかったのだが、ようやく諦めたようで、深く長い息を吐いた。渓の顔を見つめて、川路は眉を下げて少し悲しげに笑う。

「大蛇実験を継続出来ないのは非常に残念ですが、仕方ありませんな」
「すみません…」
「いえ、こちらも取り乱してしまって申し訳ない。帰りの馬車を手配しておきましょう」

川路はお茶を飲み干すと、重たげに腰を持ち上げた。馬車の手配と聞いてすぐに武田が出て行こうとしたのだが、それを止めたのは川路だった。

「構わない、馬車は私が手配しよう。せっかく遠いところを来て下さったんだ、私がいい馬車を呼んで来る」
「いえ、あの、なんでも結構ですので、そんな上等なものは…」
「お迎えに上がる約束が、それさえも出来なかったんだ。これくらいさせてください」
「でも…」
「折角なので帰りは私も同行しましょう。少しここでゆっくりしているといい」

川路はそう言うと、背中から残念そうな空気を存分に発しながら犲の詰め所を出て行った。残された蒼世達は呆然と川路の去った扉を見つめる事しか出来ず、渓は困り顔でゆらゆらと視線を彷徨わせていた。

「…ごめんなさい」

ポツリと零れた言葉は渓のもので、誰に対して謝罪しているのかは分からなかったが、それが心からの謝罪の言葉である事だけはその場にいた全員に伝わっていた。

渓が下した決断は、決して正しいものではない。それは渓自身にも分かっていた。日本の未来と自身の記憶、それらを量りにかけたとき、本当に選択すべきものがどちらだったかということは誰にでも理解出来る。

それでも渓が日本の未来を選べなかったのは、ただの我儘だ。犲が大蛇実験の件に一枚噛んでいたからこそ渓はあっさりと断ることが出来たが、仮に犲が関わっていなかった場合、間違いなく渓に拒否権はなかった。蒼世からの一言がなければ、川路は絶対に食い下がっていただろう。

「お前が謝ることはない。自分で選んだのだろう」
「うん…」
「なら胸を張れ、渓」

蒼世は席を立ってそう言うと、渓に近付いて頭にぽんっと手のひらを乗せた。

「お前の人生だ、目が見えないままでいいと云うのならそのままでいい。ただ、せめて精一杯生きろ」
「蒼ちゃん…」
「天火が帰って来た時に、笑顔でおかえりと云えるようになっていれば十分だ」

目が見えなくてもいい、記憶は消さない。これは、渓が自分で選んだ道だ。ならばもう、渓に言ってやれることなど限られている。今からでも少しずつ笑って生きて欲しい。蒼世だけでなく、渓に関わるすべての者の願いだ。渓はその期待も背負わなければならない。

頭に触れた蒼世の手のひらから伝わる優しさを感じながら、渓は一度だけ深く頷いた。渓の目から見える世界は、一生暗く、苦しく、寂しい。それでも感じ取れるものすべてを精一杯愛して、自分らしく生きていけるようになればいい。渓は伝えられた愛情を精一杯拾い上げてようやく顔を上げると、少しだけ無理をして笑った。



その後、しばらく犲の詰め所で座ったままのんびりと過ごしていた渓の元へ川路が戻って来た。馬車の準備が出来たらしい。

「お待たせしました。では、参りましょうか渓さん」
「あ、はい。みなさん、お邪魔しました」
「外までお送りいたします」
「いや、構わないよ安倍君。君には君の業務があるだろう」
「しかし」
「構わないと云っているんだ、このまま引き続き業務にあたりなさい」

二人を外まで見送ろうとした蒼世の申し出を、川路はやんわりと、それでいて威圧的な物言いで断った。その言葉の強さに、犲だけでなく渓も些か不安を覚えたが、川路は気にする様子もなくにこやかに渓の手を取ると、導くようにしてソファから立たせた。

「急ぎましょう渓さん、西の方の雲行きが怪しくなっています」
「そうなんですか?じゃあ急がないと…」
「すまんが犲諸君、これで失礼するよ」
「はい、お気を付けて」
「またね蒼ちゃん」

渓は手を引かれたまま声だけでそう言うと、川路に連れられて詰め所を後にした。蒼世達は喉元まで出かかった違和感を飲み込んで、二人が出て行った扉を見つめる事しか出来なかった。

なるべく急いで警察署を出た渓達の前には、見た目だけでも立派だと分かる馬車が待ち構えていた。馬は行きのものよりも二周りほど大きく、毛並みは艶やかで光沢があり、立ち姿に威厳さえ感じるほどだ。馬車の中の椅子もとてもふかふかとしており、座り心地もよく、走った際の振動も随分軽減されるようになっていた。

手を引かれながら馬車に乗り込んだ渓の隣りに川路が腰を落ち着けて、ようやく馬車は走り出す。渓は座り心地と揺れの心地良さから本当に良い馬車を用意してもらったことに恐縮して、すっかり背筋を伸ばして固まってしまった。そんな渓の姿を見て、川路は豪快に笑う。

「そんなに硬くならないでください」
「でも、なんだか申し訳なくて…それに、お忙しい中こうして帰宅に付き合っていただくのも気が引けるというか…」
「いいんですよ、この馬車の方が乗り心地が良いですし、何より速い。やはり値の張る馬は違いますよ、折角ですし堪能してください。それに、貴女を送るのはただの口実ですから」
「はあ…ありがとうございます」

そうは言われても、目の見えない状況では景色を楽しむことも、馬車内の空気感を楽しむことも出来はしない。ただひたすら縮こまる渓は馬の蹄の音を聞きながら視線を彷徨わせていたのだが、そんな渓を気遣ってか、川路は何気ない世間話を口にする。渓もそれに応えつつ、徐々に緊張の糸をほぐしながら、強まる雨の気配を遠くからやってくる匂いだけで感じ取っていた。

そうしてしばらく会話を続け、渓の緊張が自然とほぐれた頃、川路は言った。

「そういえば、渓さんはご家族を幼い頃に亡くされているんだとか」
「ええ、五つのときに、山賊に襲われたのだと聞きました。それから祖父母が育ててくれていたんですけど、私が十四になる頃には二人とも他界してしまって」
「そうでしたか。いやね、私にも娘がいまして、今年で十四になるんですが本当に可愛くて」
「父は娘を溺愛するっていいますもんね」
「そうなんですよ、もう本当に可愛くて可愛くてね、よく笑う明るい子なんですが―――」

川路は一旦言葉を切ると、からっぽの表情でぽつりと言葉を零した。


「もうすぐ死んでしまうんですよ」


渓は声を漏らす事も出来ず、ただそのまま硬直してしまった。何と良いのかわからないまま、次々に川路が零していくセリフを頭で受け止めるので精一杯だ。

「心臓の病気でしてね、現在の日本医療では治せないんですよ。どうしたって治せない。どれだけ娘にお金をかけようと、それは延命にしかならないそうでしてね、今朝病院に顔を出したとき、とうとう余命宣告を受けてしまったんです。あと一年持つかどうか、というところらしくて」
「…」
「私がどれだけ汗水流して働いたって、お金だけではどうしようもない。娘の命を救うには、日本の医療は技術が足りていないんです。今のままでは限界がある、だから私は、大蛇の実験を再開したかった」

どう答えるのが正しいのか、渓は分かっていた。大蛇の実験を受けると言ってしまえば、目の前にちらつかせられた残り少ない命を救うことが出来るし、そうやって苦しむ人々の希望になれる。しかし、渓は何も言葉に出来なかった。どうしても、今になって大蛇の実験を受けるとは言えなかったのだ。

「しかしまあ、渓さんが受けてくださらないのならば、仕方ありません」
「…すみません」
「いやいや、謝る必要はありませんよ。そりゃあ誰にだって事情はありますから」

川路の言葉はやけに飄々としていた。渓は胸の奥底からゆっくりと不安が這いずって湧き上がるのを感じ取る。頭の中で、何かが警告を発していたが、それが何を意味するのか、渓は知らない。背筋には一つ、冷たい汗が流れていた。

「さあ、お喋りをしていたら到着したようです。今にも降りそうなので気をつけてください」

川路がそう言うと同時に、馬車はゆっくりと速度を落として止まった。川路は渓の手を取ると、ゆっくりと馬車を降りていく。渓は恐る恐る馬車を降りると、川路に手を引かれたまま確かめるように歩き出した。そして、五歩地面を踏みしめてから、やけにしっとりとした土の感覚ピタリと足を止める。

「おや、どうしました渓さん?」

渓はごくりと喉を鳴らした。体は僅かに震えている。それでもなんとか声を絞り出した。

「…川路さん、ここは、どこですか?」
「どこって、曇神社ですよ」
「神社の道は石畳です。こんなに柔らかい土の道じゃありません」
「…」
「ここは、どこですか」

震える声ではっきりと告げると、川路は諦めたように息を吐いてから、ひどく低い声で言った。


「―――本当に聡明で困りますな、渓さん」


その言葉が渓の耳に入ったのと、渓の手が離されて後ろから何者かに口を塞がれたのは、ほぼ同時だった。あまりに突然の事に、頭がついていかない。渓の口を塞ぐ大きな手のひらは間違いなく男のもので、そのままあっさりと後ろ手に捻り上げられる。

「困るんですよ、実験に参加していただかないと。娘の命を握っているのは貴女なんですから」
「…!」
「連れて行け」

川路の言葉を合図に、渓の口を塞いでいた男は荷物のように軽々と渓を持ち上げると、迷うことなくずんずんと進んでいく。何も見えない渓は、ここがどこかも分からない恐怖に竦んでしまって声も出ない。

―――たすけて

遠くで僅かに響く雷の音を聞きながら、心の中で叫んだ声は、声にならなかった。

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