夜を映さない景色の中、日々思い出すのは、月のような彼の事ばかり。


二、選び出した答え


川路が渓に話をしに来てから一週間。
その日の午後、約束通りに政府の人間がやって来たのだが、そこに川路の姿はなかった。聞くところによると、警察上位である川路は現在非常に多忙らしく、どうしても滋賀まで来ることが出来なかったのだ。そこで、犲の面々も交えて話をして欲しいということで、以前来た川路の付き人の一人が、渓に京都まで一緒に来るように頼みに来たのだった。

空丸は玄関口で付き人の男を迎えながら、不快感をそのまま顔に出した。川路が来てからというもの、渓は以前よりも笑顔を失って、ぼうっとする事が増えていた。視力を取り戻す事で、白子の記憶が渓の中から消滅してしまうという事実は、その記憶を慈しみながらこの一年を過ごした渓にとって何よりの地獄であるということくらい空丸には分かっていた。だからこそ、今は余計な事をせずに、渓をそっとしておいて欲しかったのだ。

「すみません、渓さんは今体調を崩してるので、また日を改めてください」

はっきりした物言いでそう伝えるものの、男はなかなか引き下がらない。徐々に苛々が募ってきた空丸が、とうとう我慢できずに怒鳴ろうと口を開きかけた、その時だった。

「いいよ、空丸。私行って来る」

静かな声が背後から聞こえてきて、空丸は開きかけた口をそのままに振り返った。錦に頼んでおいたはずの渓が、壁伝いに危なっかしく歩み寄って来ていたのだ。その傍らで、錦が申し訳なさそうに小さな渓の体を支えていた。渓は錦に支えられたままよたよたと玄関先までやってくると、光の宿らない目を泳がせた。

「政府の方、ですよね」

不安そうに渓が右腕を彷徨わせる。当然男はどうしていいか分からずに固まってしまったのだが、錦が気を利かせて男の腕を取り、渓に触れさせた。渓はようやく男の位置を知ったからか、安心したように笑顔に似た表情を浮かべると、腕の方に顔を向けた。

「すみません、今から準備をしてくるので、少しだけ待ってて頂けますか?」
「渓さん、何云って…」
「大丈夫だよ空丸、お返事してくるだけだから」

渓は男に顔を向けたままそう言うと、錦と共にその場を去った。空丸は軽い溜め息をつく。玄関先から一番近い部屋にいた渓が、空丸と男の話を聞いてしまい、錦が止めるのも聞かずに出てきたのだろう。そういうところだけは昔と何も変わっていないな、と思いつつ、空丸は諦めたように息を吐き出すのだった。



しばらくして準備を終えた渓は、錦に連れられながら再び玄関先に現れた。温もりのある淡い桃色の着物は渓の白い肌によく馴染む。母の形見の赤い丸簪も、相変わらず髪を半分だけ上げて作った団子頭にお行儀良く差されていた。渓がきちんと着物に身を包んでいる姿を久々に見た空丸は、改めてその可愛らしさに見惚れてしまったのだが、それも一瞬のことで、すっかり細くなってしまったその体を見てつい眉を寄せる。

渓は小柄なため、多少痩せてしまっても不健康に見えてしまう事はないのだが、元が随分華奢だったために、今の姿はどうしても不健康そうに見えてしまう。食事も一年前に比べれば随分まともに食べるようになったはずなのだが、それでも渓の体系は昔のように戻りはしない。相当心労を溜め込んでいることは、毎日一緒に過ごしていれば簡単に予想はつく。

しかし、その柔な心に溜め込んだ疲労を自分自身が癒すことが出来るかといえば、決してそうではない事を空丸は知っていた。脳裏にふと浮かんだのは、眉を下げて笑う白髪の男の姿だ。世界中何処を探したって、彼以外の誰かでは渓の心は救ってやれないのだ。空丸は心の中で小さく彼に対して恨み言を零してから、痛む胸をそのままに渓に近付いた。

「渓さん、本当に行くんですか?」
「うん、ごめんね迷惑かけてばっかりで」
「迷惑だなんて…」
「あと、錦ちゃんの事、怒らないであげてね。錦ちゃんは止めてくれたんだけど、私が行くって聞かなかっただけだから」

ね、と言う渓の顔を見ながら、空丸は当然ですと言い切った。実際、錦は珍しい渓からの頼みを断りきれなかっただけだ。いつまで経っても、誰であっても、やはりこの家に住む人間は渓には甘い。空丸もそれを自覚しながら、錦と共に渓を曇家の下まで連れて行った。

曇家の玄関の外から伸びる階段をゆっくりと下りていけば、そこには馬車が用意されていた。男が馬車の前で渓を迎える。蹄や馬の声でそれが馬車だと気付いた渓も、さすがに腰が引けてしまったようだったが、遠慮している状況でもなかったので男の手を駆りながら馬車の中に乗り込んだ。

そんな渓の頼りない姿を見て、やはり心配になってしまったのは空丸だ。渓に同行しようと男に頼み込んだのだが、それをやんわりと断ったのは渓だった。天火がいない今、空丸にも錦にもやらなければならない事はたくさんある。渓はあくまでも自分の用事だからの一点張りで、結局空丸が折れる事になった。

「終わりましたら渓様を神社までお送りしますので、ご安心ください」

男の声を最後に、馬車の扉は閉められた。渓と男を乗せ馬車が、徐々に速度を増して去って行く。空丸と錦は不安げな表情を浮かべたまま、何も言わずに馬車が見えなくなるまでその場で佇んでいた。



慣れない馬車に揺られながら、そこからの景色を堪能することもなく、渓は京都に到着した。男に手を引かれながら馬車を降り、地面をしっかり踏みしめる。周囲は随分と賑やかで、いたるところから活気溢れる声が聞こえていた。滋賀とはまた違う雰囲気に不安を滲ませながら、男に連れられ渓はゆっくりと歩きだした。

そして歩き始めてすぐ、聞きなれた声が渓の耳に届く。

「ご苦労だった、後は私が引き受ける」

そう言いながら渓の手を取ったのは蒼世だ。男は蒼世に渓を託すと、あっという間に立ち去っていく。その姿を目で追うことも出来ないまま、渓は今此処が何処なのかも分からずに不安げな表情を浮かべた。そんな渓の顔を見て何かを察した蒼世は、渓の手を一度ぎゅっと握って、優しく声をかける。

「遠い中わざわざすまないな渓」
「蒼ちゃん、此処は?」
「京都の警察署だ。今から犲の詰め所に移動する。そこに川路様もいらっしゃる」
「そう、良かった。変な処に連れて来られなくて」
「何も聞いてないのか?」
「実験について話したいから来てくれって、それだけだったから。馬車の中でも何も話さなかったし、何処に行くかも聞いてなかったの」

随分と適当な仕事っぷりに蒼世は相槌を打ちつつ眉を顰めた。目の見えない渓に大しての配慮が足りなさ過ぎる事に僅かに苛立ちつつも、渓をここに呼びつけた事実に関わりがある上に、男は川路の付き人だ。強くは言えない。面倒な事だと思いながら、蒼世は恐る恐る足を進める渓に歩幅を合わせて、時間をかけながら犲の詰め所へと向かった。

詰め所に到着した二人は、犲の面々に出迎えられる。蒼世に手を引かれたままふかふかのソファに導かれ、そこに座らされた渓は、武田が用意した淹れたてのお茶を手渡され、とりあえずそっとそれに口を付けた。三口飲んでから何処に湯のみを置いておけばいいのか分からず固まっていると、それに気付いた芦屋が渓に声をかける。

「ここに机がありますよ」

芦屋はのんびりとそう言いながら湯のみごと渓の手を取って、ゆっくりと目の前の机に導いた。渓はほっとしたように息を吐く。

「ありがとう芦屋さん」
「どういたしまして」

そんな二人の様子を伺ってから、蒼世は自席に腰を下ろして副隊長の鷹峯を見た。

「川路様は?」
「隊長達と入れ違いで出て行った。所用だとよ、すぐ戻るらしい」
「そうか」

蒼世はそう言うと再び渓に視線を寄越した。渓の事をまるで娘のように可愛がる犬飼と、女好きの芦屋がそれぞれ渓の隣りに腰を下ろしてよくある世間話を繰り広げている。

大蛇がいなくなってから、犲としての本業である大蛇の討伐という任務はなくなったものの、大蛇実験の話が浮上し続ける限り犲は大蛇と関わり続けなければならない。その実験対象が妹のような存在である渓というのだから、蒼世をはじめ、犲の面々は顔には出さずに心配していた。実験が成功してもしなくても、渓は犠牲を強いられるのだから無理もない。

視力か、記憶か。

差し出された選択が重い事は犲も重々承知だった。仮に渓の目が見えるようになれば、蛇の目の力が甦る可能性がある。渓の中から消えたはずの大蛇の細胞を戻すのだから、当然あり得る話だ。そうなった場合、渓の中にいた姫も目を覚ますかもしれない。目覚めた姫が大蛇がいなくなった事に対する復讐などを企てられたら、犲は間違いなく渓に刃を向けるだろう。そして、目覚めた姫を殺す事が次の使命になる。例え姫が渓の姿をしていようとも、それだけは変えられない。

だからこそ、視力を与えた場合、記憶を消すのだ。その記憶の中でまだ息をする男に、渓の心がギリギリでも守られてきたのだと知っていて。

蒼世は、風魔小太郎、いや、金城白子という男がやって来てからの十年間、渓の心がずっと白子に向けられていたという事も、それが今も変わらないのだという事も、会津に向かう前の祝いの席で天火から聞いていた。だから無闇に男を紹介するなよ、と冗談交じりで天火は話していたが、それは本気なのだろう。

渓は、金城白子を失ったあの日から、進めないのではない。進まないでいることを選んで今に至るのだ。それが傷付きすぎた自分の心を守れる唯一の手段だと、渓は無意識のうちに悟っていたのだろう。それを天火は見抜いていたからこそ、あえて回りくどい言い方で蒼世に伝えたのだ。


―――渓は大丈夫だ。だから焦る事はないんだよ。あのままでいいんだ、今は。


そんなわけだから、俺がいない間、渓のこと頼むな。
遠くを見ながら寂しげにそう零して、少しだけ笑った天火の顔が蒼世の頭に甦る。天火は誰よりも長い間、渓と金城白子の傍にいた。一番近い場所で、二人を見続けていた。そんな天火だからこそ、痩せ細ってしまった渓を見ても大丈夫だと言い切ったのだろう。渓ならまた歩き出せるのだと、心の底から信じているのだ。それが十年先になっても二十年先になっても、きっと天火は待ち続けるに違いない。渓が自分で進み始めるまで。

蒼世はそんな事を思いながら、武田から出されたお茶に口をつけた。そして涼しげな顔のまま胸の中で自己嫌悪する。十年以上も渓との交流を絶っていた蒼世には、渓が自分で歩き出す事を待つなど出来ない。だからこうして渓の視力を取り戻させるために、大蛇実験を勧めているのだ。離れていた分の隙間を埋めようと蒼世なりに渓には歩み寄っているものの、痩せ細って笑わなくなった渓を見守り続ける事は苦行に近い。幼い頃、いつも笑っていた渓の記憶しかない蒼世にとっては、今の状態の渓を見守り続けるのは限界だったのだ。

天火に頼まれておきながら、結局こういう道しか用意してやれない自分自身に蒼世が息を吐くと、唐突に詰め所の扉が軽く音を立てて開いた。現れたのは川路で、渓の顔を見て申し訳なさそうに眉を下げて笑う。犲は川路の顔を見て全員立ち上がった。渓も両隣に居た二人がさっと立ち上がったのを感じ取って、つられて立ち上がる。

「渓さん、お待たせしました」
「川路さん、ですか?」

渓は声の方に顔を向け、おずおずと右腕を差し出した。川路は差し出された右手と握手を交わす。

「はい、ご足労いただき感謝します。そちらに伺えず申し訳ない」
「いえ、大丈夫です」

握手したまま挨拶を交わすと、川路は渓の手を離して、渓の向かいに腰掛ける。川路が席に着いたのを見て、芦屋が立ったままの渓に座るよう促せば、渓は素直に腰を下ろした。武田が出したお茶を受け取りそれに口をつけて一息ついてから、川路はようやく続きの言葉を放つ。

「仕事が立て込んでおりましてな、出来れば伺いたかったものですが…」
「気にしないでください。軟禁が解けてから出かけてもいなかったので、丁度いい機会でした。馬車にも乗れたし」
「ははは!前向きで何よりですなあ」

川路は豪快に笑うと、嬉々とした様子で渓を見つめる。

「で、本題ですが」
「はい」
「お返事はいただけますかね?」
「はい、もちろんです」

渓は川路の声がする方に顔を向けながら、視線を揺らすことなく凛とした声で言った。


「私は、大蛇の実験を受けません」


はっきりとそう告げた渓の声が、静かに詰め所の中に響き渡る。やはりか、と小さく溜め息をついた蒼世とは打って変わって、川路は渓の答えが予想していないものだったらしく、完全に固まってしまった。

重い空気が詰め所に流れ、誰一人として言葉を発する事がないまま、緩やかに時間は流れていった。

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