咲き乱れていた桜は散り、まだ新しい緑の葉が、もうすぐ訪れる夏を予感させる。柔らかな日差しが差し込む雲の隙間に、遠い夏が見えた。


一、差し出された選択


天火の新たな門出を祝ったあの日から一週間、天火は妃子と共に四日前に会津に向かった。無事に軟禁の解けた渓だったが、その表情は以前と同じく、あまり笑わないままだった。

軟禁が解かれたにも関わらず、渓は今までと何一つ変わらない生活を送っていた。蒼世に自由だ、好きに生きろと言われたあの日、渓は少しだけ嬉しく思っていたし、未来に希望も抱いたのだが、現実はそう甘くはなかった。

軟禁と呼ぶには甘い生活を送っていた渓だったが、それでも目が見えない状態で曇家と大蛇に関わりのないものすべてが遮断された世界で一年も過ごし、それが突然解かれたからといって、自分一人で何かが出来るわけもなく、結局人の手を借りなければ生きていくこともままならない。外に出たところでその景色や風景を目に焼き付ける事は出来ないし、常に誰かが渓に付き添わなければならない。

そして何よりも渓が怖かったのは、滋賀を裏切り一年も軟禁の身であった自分に対する人々の視線だ。蔑まれるような視線を浴びていたら、陰でこそこそと自分のことを言われていたら、冷たくされてしまったら。何も見えないからこそ、どうしても思考は暗い方向へ向かってしまう。それに、そんな自分の隣りを曇家の人間に歩かせることも億劫だった。暗い思考の沼に一度捕らわれてしまうと、そこから這い出すことは難しい。そんな思考に飲まれた渓は、どうしても動き出す事が出来なかった。

自由とはなんだったのだろう。

渓は軟禁が解かれてから、すぐにそう思った。一人で生きていけない体では今までと変わりない生活を余儀なくされ、結局曇家で世話になるばかり。軟禁生活の終わりを告げられたあの日に抱いた希望も、容易く消え去ってしまった。あの頃のように様々な景色を映して、自分一人の力で生きていけない自分など、やはり生きている価値などないのではないのか。明るく前向きだった渓だが、そう思い込んでしまうまでになってしまっていた。



そんなある日の午後、相変わらず神社でぼうっとしていた渓の元へ、空丸がやって来た。柱にもたれかかるようにして、何一つ映していない目を空に向ける渓の傍に座ると、どこか嬉しそうに、優しく声をかける。

「渓さん」
「空丸…?どうしたの?」

空丸に名前を呼ばれた渓は、すっかり差し出すことが癖になっている腕を声の方に伸ばした。空丸はその手をしっかりと握り締めて、明るく続けた。

「渓さんに話があるって云って、今政府の人が神社まで来てるんです」

その言葉に、渓は怪訝な顔をした。軟禁は解かれているというのに、政府が一体何の用なのだろう。まさかやはり軟禁の時期が延びたとでも伝えに来たのだろうか。そんな思慮をめぐらせたまま表情を強張らせてしまった渓を見て、空丸が慌てて声を放つ。

「あ、悪い話じゃないんです。多分、渓さんが思っているような事は一切ないので、安心してください」
「…悪い話じゃないのに、わざわざ政府の人が?」
「はい。とにかく、ここへ通すので一度話してみてください。俺も立ち会うので」

やけに嬉々とした様子の空丸にそう言われ、渓は渋々頷いた。可愛い弟の頼みとあらば、気は進まないが邪険には出来ないので受け入れるしかない。我ながら甘いなあ、と心の奥で感じながら、渓は空丸が立ち去った後姿勢を正してその場で政府の関係者が来るのを待つ。

少ししてやってきたのは、どじょう髭を生やした物腰の柔らかい中年男性と、そのお付きの者が二人だ。男は名を川路といい、ずっしりとした体格で彫りの深い顔に、細く長い目を携えていた。笑うと目尻が下がってしわが出来るので、あまり怖いという印象は与えない。大蛇討伐部隊であった犲が仕えていた岩倉とは古い友人らしく、警察内部での位もかなり上の方だった。

そんな人物が、わざわざ滋賀まで直々に足を運び、曇神社まで渓に会いに来たというのだから、当然渓も驚いた。錦は全員分のお茶を準備すると、神社の仕事があるために席を外し、残されたのは渓と空丸と川路、そしてお付きの者二人の、合わせて五人だけだ。川路は出されたお茶を啜ると、笑顔で切り出した。

「軟禁が解けたと聞きました。まずは、おめでとうございます渓さん」
「いえ…おめでたいのかどうか、ちょっと分かりませんが」

渓は曖昧に笑って見せる。川路の声は低く響くが、威圧感は感じない。ただ、やはり権力のある人物というだけあって、他の人とは醸し出す雰囲気が違っていた。目が見えない渓に川路の顔は分からなかったが、その荘厳な雰囲気はきちんと感じ取っていたために、自然と背筋はしゃんとなる。そんな渓を見つめながら、川路はさらに目尻にしわを寄せて微笑んだ。

「何をおっしゃるか、おめでたい事ですよ。貴女は自身が蛇の信者である事を知らなかったわけですし、力に飲み込まれていただけでしょう。罪など背負うことはなかったというのに、文句一つ云わずよく絶えたと思います。お若いのに立派だ」
「そんな…勿体ないお言葉です」
「いやはや、謙虚ですな。話しに聞いていた通り、物腰の柔らかい可愛らしい娘さんだ」

そう言いながら川路は豪快に笑う。渓は褒められている事に戸惑いを見せながら、困ったように笑って誤魔化した。川路はもう一口お茶を口に含んでから、さて、とようやく本題に話の内容を移す。

「今日はそんな渓さんに、軟禁が解かれた上にもう一つ良い報せを持って来たんですよ」
「良い報せ?」
「はい。何だと思います?」
「何、と申されましても…」

軟禁が解かれても、結果的には大して良い事ではなかった渓にとって、その言葉はあまり期待の出来るものではなかった。しかし警察の上位である人物がこうして直接足を運んできたのだから、それなりの内容ではあるのだろう、と渓はぼんやりと思う。そして笑顔の川路から発せられた言葉は、渓ですら予想もしていない事だった。


「貴女の目を治す方法が、見つかったんです」


川路の言葉を聞いて、渓は暗闇しか映していない目を丸くさせて固まった。驚いてまったく言葉が出ないらしい。渓の隣りに座っていた空丸が、パッと渓の手を握った。そして嬉しそうに声を上げる。

「やったな渓さん!」
「…え……え?」
「目が見えるようになるんだよ!」
「目が、また、見えるように…?」

空丸は川路が来たときに、最初にそれを告げられていた。渓があまり笑わなくなった事は空丸も懸念しており、神社に訪れた川路を最初は追い返そうとしたのだ。空丸は空丸なりに、政府に縛られ続けた渓の事を案じており、これ以上渓に罪を背負わせないで欲しい、という彼なりの心遣いだったのだ。

しかし、川路がここまで訪れた理由が、目を治す方法が見つかったことを告げるためだと聞いて、空丸は川路を此処まで通したわけである。目が見えるようにさえなれば、渓はきっと以前のように笑ってくれるはずだ、空丸はそう思っていた。

「そう、見えるようになるんです」

川路はもう一度、笑顔で優しく告げる。渓はしばらく固まっていたが、ようやく頭が追いついてきたようで、やっと言葉を口にした。

「あの、それは確実な事なのでしょうか…」
「正直、百パーセントだとは云えません。しかし、治る確率は限りなく高いと思っていただいて結構です」

自信に満ち溢れた川路の言葉に、渓は驚いたまま固まってしまうばかりだ。空丸は隣りですっかり浮かれてしまっている。

「ただし、条件があります」

そう告げた川路の声が少しだけ低いものになる。凛としたその声に場の空気が一変し、空丸も表情を硬くさせた。渓も何となく怖くなって、思わず空丸と繋いだままの自身の手に力を込めた。

「あぁ、そんなに怖い顔をしないでください。条件も大切ですが、それよりもまず治療法をお教えしましょう」

脅かしてしまって申し訳ない、と続けた川路は、治療の内容を説明し始めた。治療内容は至って単純で、天火が行っていた大蛇実験と同じような実験を、治療実験と題して渓に行うというものだ。大蛇が消滅したことによって、血を分け与えられた蛇の信者である渓の中からも同じく大蛇の血が消え去り、そのせいで渓は視力を失った。しかし、大蛇の細胞は隠密化学部の元にまだ残っていて、その細胞を渓の中に戻せば視力が回復する、という研究結果がこの一年で出されていた。

実際、軟禁が始まった最初の二週間は、渓の目と大蛇との繋がりを調べるために、隠密化学部の一員である太田が渓の血液を何度かに分けて採取していた。そこに大蛇の細胞を加えて研究を行った結果、渓の血と大蛇の細胞は天火よりもうまく馴染み、あっという間に大蛇細胞との共存を始めたという研究結果が出ていたのだ。細胞を取り込む量によって渓の血が熱を持つことは多々あったが、度重なる実験の結果、熱を持たずにうまく馴染ませられる細胞の分量も完全に解明されているらしい。その結果から見ても、渓は天火と同じように大蛇の細胞に飲み込まれるわけではなく、うまく大蛇の細胞と共存出来る可能性が極めて高いのだと川路は言う。

天火のような被験者を出した大蛇実験だが、渓はあくまでも大蛇の眷属であり、その力に飲み込まれる事はない。そのため、天火と同じような実験ではあるものの、大蛇の細胞を渓の体に入れて経過を観察するだけであって、天火の時のように体を傷付けたり過剰に細胞を入れたりする事はないし、当然渓の体に異常が見られた場合は即治療実験を中断し、その場で治療実験を終了する。さらに渓の精神的な不安が膨らまないよう、犲がすべての治療実験に立ち会う事も決定しているらしい。

以上が渓の視力を復活させるために、治療実験と題されて行われる内容の全貌だった。大蛇に関わる件でもあり、かなり内密に事が進んでいるらしく、本当に一部の人間しか知らないため、こうして川路が直々に渓に会いにやって来たのだ。実験の内容を聞いた空丸は、先程と違って随分と険しい顔をしていた。兄を苦しめた実験を渓に行うというのだから、いくら安全が保障されているとはいえ、渓に治療を受けてもらう気にはどうしてもならなかった。

一方渓はというと、自分でも驚く程に冷静に話を聞いていたらしく、なるほど、と素直に受け取っていた。実験が進んでいたのならもっと早くに伝えに来られたはずなのだが、それをしなかったのはここに天火がいたからだろう、ということも予想がついた。いくら視力を取り戻せる可能性があるとはいえ、十年もの間自身が苦しんできた実験を渓に受けさせるなど、天火が許すわけがないからだ。だから政府は太田を経由して天火の体を治せる可能性が会津にあると言い、天火を旅立たせて滋賀からいなくなったのを見計らってこうしてやって来たのだ。

すべてを悟った渓は、すっと息を吸ってから、はっきりと言った。

「治療の内容は分かりました。私の目の為に直々に足を運んで下さって感謝いたします」

渓は深々と頭を下げてから、ただ、と零してもう一度顔を上げた。その目には、何も映っていない。

「その治療を勧めるということは、あくまでも私の治療が目的ではなく政府が大蛇の実験を推奨しているものだという認識でおりますが、その点についてはお答えいただけますか?」
「…やれやれ、聡明なお嬢さんだ」

川路は困ったように眉を下げると、素直に口を開く。

「そうです、政府は大蛇から得られる力が、日本の医療をよりよくしていると考えている。しかし、大蛇がいなくなったことにより、細胞をこれ以上入手できないということから現在実験はほとんど行われておりません。被検体であった曇天火がいなくなったことにより、我々は最高にして最大の被検体を失った。だからこそ、貴女に協力していただきたいのですよ渓さん」
「な…じゃああんた、要するに渓さんを治すのは二の次で、被検体にさせるだけだっていうのが目的なのかよ!」
「空丸、落ち着いて」
「でも渓さん…!」
「大丈夫だから」

川路の言葉にカッとなったのは、渓ではなく空丸だ。渓の視力が治るのだと期待していた空丸にとって、この事実は許しがたい事だった。今にも川路に飛び掛りそうな空丸を渓はなだめる。空丸の手をぎゅっと握る渓の手は、以前よりもずっと白く、細くなっていた。空丸はその手が自分を引き止めているのを見てぎゅっと唇を噛むと、再びその場に腰を落ち着けた。

渓は空丸が腰を落ち着けたのを悟ってから、ゆっくりと口を開く。

「別に治療実験に関しては否定するつもりはありません。犲のみんながいてくれるのであれば安心なんだということは分かりますし、私の目が見えるようになるのであれば協力します」
「渓さん!」
「ただ、確実に治るという保障がないにも関わらず条件があると仰いましたが、その条件というのをお聞かせ願えますか?」

渓が言うと、川路は感心したように声を上げた。

「本当に聡明で理解の早いお嬢さんだ。話が早くて助かりますな」

そう言って川路は再度お茶を啜ると、渓を真っ直ぐに見つめたまま微笑んだ。

「なに、条件というのも大した事ではない。貴女の目が見えるようにならなかった場合、これは我々の責任であり、貴女が何か対価を支払う必要はない。ただ、貴女の目が見えるようになったとき、その条件を満たしていただかなければ困る、というだけの話です」
「その条件とは?」
「簡単な事です」

一息置いてから、川路は相変わらすの微笑みを携えたまま言った。


「"大蛇"と"大蛇の眷属"というものに関する記憶をすべて、芦屋君の術で消させて頂くだけです」


渓と空丸は、目を見開いたまま固まった。そんな二人に何か優しい言葉をかけてやるでもなく、川路は続ける。

「仮に目が見えるようになった場合、蛇の目の力も再び目覚める可能性がある。そうなると、貴女の中で眠っている力があの時のように目覚めてしまうかもしれない。となると、我々政府の人間は、犲も含め貴女を敵とみなし排除しなければならなくなります。それくらい貴女の持つ目の力は恐ろしいのです。だから、記憶を消させていただく」
「大蛇の眷属に関する、記憶を、すべて…?」
「はい。つまり貴女の中から、大蛇の記憶が消え、蛇の信者の記憶が消え、蛇の目の事やその歴史が消え―――そして風魔の記憶が消える」

風魔、という単語に、渓がピクリと反応を示した。手を繋いだままの空丸にはそれが伝わっていて、思わず眉を寄せた。

空丸はこの一年、わざと避けるように彼の話題は出さなかった。特に渓の前では、名前さえ口にしないように徹底していた程だ。空丸は、渓の中から彼の存在が消える事は一度だってなかった事を知っていた。だからこそ、現在提示されている条件がどれほど渓にとって受け入れがたいものであるかが分かる。

風魔の記憶が消えるということ、それはつまり、渓にとって唯一無二だった彼―――金城白子の存在も消えてしまう、という事だ。

いくら目が見えるようになったって、白子の事を忘れてしまったら、きっと目が見える事に渓は意味を感じない。そこまで理解していた空丸は、渓の顔を見て、ただ悔しげに自身の顔を歪める事しか出来なかった。

空丸が見た渓の顔に、笑顔はなかった。
渓は目の前に突きつけられた条件を飲み込めないまま、何も映さない自身の世界を呆然とした様子で眺めるばかりだ。風魔が、白子が、消える。それが渓にとってどれほど重いものであるのかなど、川路は知らない。

きっと渓は、錦の事も忘れるのだろう。しかし、曇家で毎日一緒にいられるのと、もう二度と会えないのとでは訳が違う。そこに確かに存在している錦とはもう一度関係を組み立てていけるが、そこに居ない白子の事は、一生思い出せないのだ。いや、思い出せないのではない、消えるのだ。金城白子という存在を知らないまま、渓は生きていかなくてはならないのだ。

渓が表情を固まらせたまま動かなくなったのを見て、川路は相変わらず微笑んだまま言った。

「とりあえず、私がお話したかったのが以上です。お返事もすぐにとは云いません。一週間後もう一度此方へ伺いますから、ゆっくり考えて下さい」

そう言いながらお茶を飲み干した川路は、まだ仕事があると言って立ち上がると、お付きの者を引き連れて神社を出て行った。空丸は見送る事も出来ないままで、隣りに座る渓に視線を寄越す。相変わらずその顔に表情はない。

「………ねぇ空丸」

しばらくの沈黙の後、渓は静かに口を開いた。

「私は、白子を諦めなきゃいけないのかな」

その言葉には、まるで感情がこもっていなかった。空丸は思わず渓の小さな体を抱きしめる。天火が居ない今、目の見えない渓を守らなければいけないのは自分だ。そう言い聞かせながら、空丸は渓を抱きしめる腕に力を込めた。けれど、渓の傷付きすぎた心を包み込んでやれるような言葉が、どうしたって見つからない。

「私はもう、白子とは巡り合えないのかな。白子が消えた世界で、生きていかなきゃいけないのかな」

空丸の腕の中、抑揚のない声で渓は続ける。空丸は唇を噛みながら、もう少しだけ腕に力を込めた。細くなった渓の体は以前よりもずっと華奢で、あまり強く抱きしめすぎたら簡単に壊れてしまいそうだった。

そんな渓に向かって、空丸は小さな声で、そんなことない、と言い聞かせることしか出来ずにいた。

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