曇天の日々が続く中、改めて政府の召集に従ってやって来た木戸は、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。山縣をはじめとするいつもの犲面々に並んで、車椅子に乗った天火が当たり前のようにそこにいたのだ。あろうことか、隊服にまで身を包んでいる。

何故突然天火が犲に戻ってきたのかは分からなかったが、木戸にとってこれは大きな誤算だった。大蛇の人体実験の生き証人である天火が、申し開きの前に予め実験の内容やその資料の行方について証言していたようで、元々資料の管理に携わっていなかった犲と山縣の疑惑は晴らされたのだ。そうなれば結局、全てにおいて疑われるのは木戸である。

木戸は確かに口の達者な男ではあったが、天火も口がよく回る上に自身が実験体だった事もあって、証言に信憑性が高いとみなされたのだろう。こうなればいくら木戸の口が上手いとはいえ、退路は塞がれたようなものだ。思いもよらなかった展開に、木戸もさすがに打つ手はないかと思われた。

しかし、一筋縄ではいかないのがこの木戸という男である。
申し開きの最中だというのに慌ただしくやってきたのは山縣直属の部下の男で、その顔は酷く青ざめていた。さすがに山縣も男を諌めたが、それも構わずに男は口を開いた。

「川路氏の奥様が、お亡くなりになりました」

突然の場が騒然とする。犲達も驚愕の表情で固まってしまった。彼らにとっては貴重な証人を失ったも同然だったのだ。

天火が犲に一時的に復帰した直後、天火は川路の妻に会って話を聞いていた。つい最近の事だ。精神を病んでいた川路の妻ではまともな会話は出来ないと思われていたのだが、天火が夫や娘が亡くなった事を共に嘆いた上で、大蛇の実験の内容を事細かに何度も何度も分かりやすく説明を繰り返したところ、天火の人間らしい温もりに絆されたらしい川路の妻が、少しずつ実験について口を開くようになったところだった。

精神を病んでいる以上証言も確証を持てるものとは言い切れないものの、そこから木戸に繋がる手掛かりさえ掴めれば犲達の勝利は確実だった。そんな中、突然川路の妻が死んだのだ。毒を飲んだのが原因らしいが、自殺か他殺かはまだはっきりと分からないという。

犲達は木戸を見る。木戸は彼らの刺す様な視線を浴びながらも、わざとらしく悲しみを表しながら言った。

「何という事だ…残念でならない…犲諸君は今から調査に入るだろうから、私はこれで失礼してまた日を改めさせてもらうよ。彼女は私の友人でもある、よろしく頼んだよ」

そう言って木戸は一礼すると、部屋を出て行った。去り際に蒼世と天火と目を合わせると、にやりと意味深に笑って、声には出さずに唇だけで告げた。

『私の勝ちだ』

それを読み取った二人が苦虫を噛み潰すような顔をしたのを見ると、木戸は満足げな表情で去っていく。結果的に、今回も逃げられてしまった。蒼世と天火は顔にこそ出さなかったが、悔しそうに拳を握り締める。

今から川路の妻の死亡調査に時間を割かれてしまう事は予定していなかった。このままでは、もう時間がない。一刻も早く木戸を犯人として立証しなければ、政府は間違いなく軍を動かして、渓を裏切り者とみなして風魔の残党もろとも襲撃してしまう。もう政府の上層部もそこまで動いているのだ。

急がなければ。
そうして焦る気持ち嘲笑うように、残酷に時間が流れていくのだった。


四十五、何度も


突然渓が倒れたのは、それから十日後の事だった。倒れる直前の検査までは異変も何も見られなかったのに、今では意識も朦朧としていて呼びかける声もあまり届いていないらしい。挙句、渓が倒れて以降、空は一度も晴れる事無く曇天続きだ。

勇太郎は過去の大蛇資料を振り返りながら、少ない実験器具を使って渓の体に負担の起きない程度の大蛇細胞の研究を行い、薬も色々なものを調合して渓に飲ませてはいたが、その中の何が原因でこうなったのかは勇太郎にも分からなかった。

渓は酷い冷や汗をかきながら、苦しそうに荒い呼吸を繰り返す。採取した血液は注射器からその温度が伝わるほどの高温だというのに、渓の皮膚のは常人のそれよりもかなり低い。こんな不可思議な事が起こるのだから大蛇細胞が関係しているのは明らかだったが、原因が分からない以上打つ手はない。勇太郎は青い顔でずっと頭を抱えていた。渓にもしもの事があれば勇太郎の命も危ういのだから、その責任に押しつぶされそうなのだろう、無理もない。

猪達は寝室の外で待機をしていたが、白子は渓が横たわる横に座ってずっとその様子を見守っている。汗をふき取り、水を飲ませ、渓の手を握りながら優しい声で大丈夫だと何度も言い聞かせていた。

渓の体温自体が高いわけではなさそうなので、解熱剤を投与するべきか勇太郎は悩みぬいたが、睡眠を促進させる効果のある薬を投与して安眠を誘い、とにかく渓の体に負担のかからないよう細心の注意を払うばかりだ。限られた環境下で色々と実験を繰り返し、あらゆる薬を調合して服用させてみるものの、どれもいまいち効果が見込めない。ほとんど寝ずに渓を看ている勇太郎も日に日にやつれていって、表情は体力の限界を訴えていた。


そうして渓が意識を失ったまま、新たな年を迎えてしまった。
燃え滾るような熱を持った血液はすっかり冷え切って、皮膚の温度も人間らしさを失ってしまったままだ。呼吸は安定しているが、眠ったままで意識が戻る様子はない。渓が倒れた日から数えて、すでに十七日が経過していた。

白子は真っ白い顔で眠る渓の髪を撫でながら、ちらりと勇太郎を見た。勇太郎は目の下にはっきりと浮かぶほどの隈を作り、随分痩せこけて不健康な印象に変わっている。

「…少し休め」

あまりにも見ていられなくて白子がそう声をかけると、勇太郎はぐるりと顔を白子に向けて唇を噛む。

「で、でも、こんな状態で放っておけないです…!」
「お前のせいではないだろう」
「そそそれはっ、そうかもしれませんけど…で、でもっ、僕は、一人でも多くの人を救う為にこの道に進んだんです。目の前の人を救えなくて、日本の医療を発展させるなんて出来ません!」

勇太郎はそう言って、再び手元に視線を落とす。確かに彼は生き延びる為に渓を救わなければならないのだが、それよりも真っ先に放った言葉に嘘は感じない。自分が助かりたいから渓を救うのではなく、心から救いたいと思っているからこそ精一杯彼なりに努力しているのだろう。本当に人の命を大切に思っているのは痛い程伝わった。

だからこそ、今ここで無理をさせるわけにはいかないのだ。命を救いたいという勇太郎の気持ちも理解は出来るが、今倒れられて一番困るのは勇太郎なのだ。

猪も妹を延命させる為に独学で医学を学び様々な治療法を習得しているので、同じく医学に精通している里の者を集めて勇太郎と共に研究や治療に励んでいる。しかし、彼らは大蛇細胞の知識など皆無だ。今さら学んだところで所詮付け焼刃である。本格的な薬品の政策や医療の研究をしていて、さらにほんの僅かでも大蛇実験に直に携わっていた勇太郎がいなければ、資料を見たところでどうする事も出来はしない。

そういう理由から、白子はなるべく優しい口調で躍起になっている勇太郎に休むよう言い聞かせた。勇太郎自身がしっかり休んで頭を働かせられる状態で居てくれなければ、この先本当に渓の命が危機に直面したときどうなるのか分からない。

少なくとも、今渓は生きている。倒れてから十七日間、飲まず食わずではあるが体重が落ちている様子もない。大蛇の細胞が原因である上に、今までとは状況も状態も違うのだから何も出来る状態にはいない。とにかく少しでもゆっくりと休むように言い聞かせれば、勇太郎も少し落ち着いたようで、大人しく白子の言葉に従った。


屋敷の別室で仮眠を取る為に部屋を出て、白子は眠ったままの渓と二人きりになった。人形のようにピクリとも動かない渓は、金色の瞳を閉じて、血の気のない真っ白い顔で浅い呼吸を繰り返すばかりで、本当に死んでしまったのではないかと時々錯覚させる。白子の胸の中には、言い表せない程の不安が広がって消えない。人間としての温もりさえ失っているその様は、あの日"姫"に侵食されかけていた日の渓を思い出させる。

空丸を攫いに行く前、黒と金の混ざり合った瞳で渓は白子に縋った。自我を崩壊させ、自分という存在さえ奪われかけたというのに、それでも行かないでと願ったあの日の事は今でも鮮明に思い出せる。

何度も何度も手放そうとして、それでも結局手放せなかった。今回だって、渓を猪に託して自分の命と引き換えに全てを終わらせようと思っていたというのに、それもとうとう叶いはしなかったのだ。傍に居たい気持ちを諦めた分だけ、再び手に入れた時の喜びが大きくなった。今さらこの気持ちは何処にもやれないし、諦めようと思っていたあの頃には引き返せない。

もしも渓の内側の世界に入れたなら、何かに囚われてしまったであろう渓の意識を無理矢理にでも引きずり出してやるのに。そう思いながら抱きしめても、唇を塞いでも、渓は一向に目を覚ます気配はない。白子はこうも自分を非力だと感じた事は一度だってなかった。どれだけ強く冷酷になろうと、力を付けようと、どうにも出来ない現状に嫌気が差すばかりだ。

「…渓」

何度呼びかけても、何度願っても、何度夜を越えても、渓は一向に目を覚まさない。渓が目覚めないまま、曇天の中まるで葬式のような新年を迎えたのは記憶に新しい。

このまま何も出来ずに朽ちていくのか、それとも渓が目を覚ますような奇跡が起こるのか。せめて後者であるように、明日を信じて祈る事しか白子には出来ないでいた。白子は渓の手を握り締め、細く白い華奢なその手を自身の額に押し当てる。

どうか、明日には目を覚ましてくれ。
もはや何度目になるか分からない願いを込めて、白子は渓の手を握り締めながら目を閉じた。


 ● ●


―――彼らの想いを、渓は分かっていた。

もう随分目を覚ましていない事も、みんなに心配をかけているからこそ早く目を覚まさなければならない事も、全部分かっていた。それなのに目を覚ます事が出来ないのは、大蛇の細胞に飲まれかけている自分自身と"姫"を繋ぎとめる事に精一杯だったからだ。

蛇の信者の意識の底深く、渓は必死にそこに居座っていた。大蛇の細胞によって姫の力が増幅しすぎて、姫自身でさえも制御出来なくなっていたのだ。少しでも油断すれば、器である渓の意識など簡単に飲み込まれてしまうような危機的状況だった。勇太郎の見解は正しかったという事になる。

自分と同じ見た目をした姫の姿は、もうほとんど大蛇のそれに近かった。皮膚は蛇の鱗で覆われ、鋭い瞳孔を持った黄金の瞳と白目の境はなくなっている。爪は長く硬度もあり、それで喉を裂かれればあっさりと死んでしまうだろうという予想はついた。そんな状態になっても、姫はまだどうにか自我を保っている状態なのだ。

もしも姫が自我を失って、渓自身が飲まれてしまったら、本当に大蛇の再来になり二度と目覚める事はないのだろうと、感覚だけで渓は理解していた。

大蛇と器と分断させる事が出来る唯一の物だった曇の宝刀はすで失われている。肝心の牡丹も人間になる為に旅に出てしまったのだから、もし彼女が人間になれていたとしたら、いよいよ大蛇を止める術はない。風魔だって、大蛇の最後の命令には従わなかったのだからどうなるか分からない。そうなってしまったら、国そのものが終わる。その感覚を肌で感じていたからこそ、渓は負けそうになる気持ちを奮い立たせて必死に自分という意識を繋ぎとめていた。

大蛇の細胞からは膨大な怒りと憎しみが押し寄せて、息が出来ないほどの不の感情であっという間に満たされてしまう。渓はずっとその恐怖に押しつぶされそうだった。それでもどうにか自分を保っていられるのは、白子が傍に居てくれるのを感じているからだ。大切な人達を守るためにも、渓は大蛇を呼び起こすわけにはいかなかった。

『…憎い、人間が、憎イ、殺ス、全て、殺シテやる』

背筋がぞっとするほどの冷たい声で、姫がそう呟いた。もはや大蛇の声なのか、姫の声なのかも分からない。渓は必死の思いで姫を強く抱きしめる。

「憎まないで、大丈夫、私が守ってあげるから。優しい人だってたくさん居るのを知ってるでしょう。だから負けないで、お願い」
『ウ、あ、渓』
「大丈夫、大丈夫だからね、此処に居るから」

意識を此処に置いたまま、もう何度繰り返したか分からない行為を繰り返す。大蛇の力に飲まれないように、姫が必死にもがいているのは、全て渓の為だ。それが渓自身にも伝わっているからこそ、渓も必死に姫の意識を繋ぎ止める。

何度も何度も、渓は大丈夫だと姫に言い聞かせた。渓自身の精神力だってもうとっくに限界を超えていたが、自分の心が折れてしまったら終わりだという事を理解しているからこそ、何もかも諦めて楽になりたくても簡単に折れるわけにはいかなかった。

大蛇が目覚めれば、封印すら出来ない今の状況では滅びの道しか残されていない。渓は今、日本中の命を預かっているのと同じ事なのだ。その重さに挫けそうになりながらも、その重さが渓を支えていた。

しかし、このままでは共倒れになる未来しか見えない。何度か外に出ようともがいたのだが、大蛇の力が優先されない器である渓の意識ではどうしても外に出る事が出来なかったのだ。大蛇の力が少しでも弱まるか、外に出る隙が出来なければどうしようもない。今はただ姫の意識を繋ぎとめてどうにか大蛇の復活を遅らせる事しか出来ない状況だった。

どうしよう、どうすればいいの。

大蛇に飲まれてしまわないように必死に自分を保ちながらどうにか考えを巡らせるが、今のままではどうする事も出来ない。蛇の信者の記憶の世界で、悲しい過去を延々と見せられたまま、さらにその世界に大蛇の憎しみが満ちていく。

内側にある世界は、酷く寂しくて、物悲しくて、静かで、それでも綺麗な場所だった。蛇の信者の記憶の欠片は色とりどりのガラスのようで、光に透かされたステンドグラスのようにきらきらしていた。そんな世界に大蛇の憎しみが降り積もってしまって、まるで恐ろしい天災に見舞われたかのようだ。

大蛇の憎しみは真っ黒なおどろおどろしい煙となり、獲物を狙う蛇のようにゆらゆらと音もなく佇んで、ゆっくりゆっくりと増えていく。凍りつきそうな恐怖の中、気を抜けば一瞬で喰われてしまいそうになる。そんな中で、渓は壊れそうな精神を必死に翳して戦っているのだ。表の世界で例え眠っていたとしても、決して何もしていないわけではない。

渓が負ければ、大蛇は復活する。それがどれほど恐ろしい事かは、蛇の信者の過去を辿る中でもう幾度となく見てきた。三百年に一度の悲しい運命を背負って、辛く悲しい日々を乗り越えて、ようやく全てが終わって大切な人の傍で幸せになれるはずだった。そんな未来を渓は諦めたくはない。だからこそ、また同じ未来を繰り返しすわけにはいかない。


―――渓


傍で白子が何度も名前を呼んでいる。時々、強くて優しくていつだって力強く導いてくれる彼からは聞いた事もないほど、弱々しく消えそうな声で名を呼ばれたりもする。それはまるで泣きそうな迷子の子供のようにも聞こえた。優しく手を握ってくれる温もりも確かに伝わっている。だからどうにか渓は消えずに自分を保っていられる。

けれど、それももうあとどれくらい持つか定かではない。侵食されて、人の形を徐々に失っていく姫の姿は、見ていて心が削られていく。渓の姿を模っているのだから、もしも自分がこうなってしまったらという経過を直に目撃しているようなものだ。胸を抉る様な痛みは計り知れない。

それでも姫も、大蛇になるまいともがいているのだ。本来自分が取り込む為に存在していた"器"である渓の為に。

二人で強大な力に必死に耐え忍ぶ。何度飲み込まれそうになりながらその度お互いに励まし合って、いつまで続くかも分からないこの永遠に続く地獄のような時間に、限界を超えても耐え続けている。油断してしまえば待ち受けるのは死ではなく、消滅と終焉だ。

『…渓』

もはや誰の声なのかも分からない声で、ぽつりと姫は言った。渓に抱きしめられて必死に言葉を掛けられた事で、何とか自我を保っている。

『…このマまでは、埒ガあかナイ。賭ケに出る』
「賭けって…」
『私はコのまま大蛇様を食イ止める。お前は、もウ外に出ルの』
「そんな…無理よ…!」
『外に出たッテ、キっと辛イだろう。でもどウか、負ケないで』

そう言って姫は、渓の顔を見て微笑んだ。渓は目の前の人とも大蛇ともいえない自分と同じ顔を見つめながら、言っている意味が分からず答えに迷う。そうしているうちに、突然姫は渓の体を強く突き飛ばした。そして渓が驚くより転ぶよりも早く、何かに足元を捉えられてがくんと体が深く沈んだ。

「きゃ…!?」

突然足元に渦を巻く淀みが現れたのだ。何故急にそこに現れたのかは分からないが、恐らく理性の残った姫の最後の力だろうということはすぐに分かった。淀みが渓の体を飲み込むと同時に、姫の体は糸の切れた人形のようにガクンと力を失い、その場に倒れこんでしまったのだ。

沼のようなその淀みが何なのか、何処に繋がっているのか、渓は知っていた。大蛇が復活し、姫が渓に体を返したあの日も、こうして淀みに落とされたのだ。その意味を察すると、倒れこんだ姫を見て渓は背筋が凍る。ずぶずぶとその中に自分の体が沈んでいくのを感じながら、渓は必死に声を張り上げた。

「やめて!!こんな所で力を使い果たしちゃダメ!!」
『……馬鹿者』

小さな声で、姫は答えた。何とか意識は取り留めているらしいが、もうほとんど死に掛けのような状態だった。

『アの時も、云ったダろウ、この世界の支配者は私ダと』
「ねえ待って、本当にダメ、だってこのままじゃ…!」
『こんな所で、共倒れにナルのは、御免だ。オ前はせめて、愛すル人達に囲まれておケ』
「馬鹿な事云わないで…私…私また貴女を犠牲に…」
『そういう、星ノ元に、生まれただケだ。後悔モ悲シみもなイ』

もう渓の体は半分飲み込まれていた。必死にもがいてみるが、もがけばもがくほど深く深く沈んでいくばかりだ。

渓の瞳から、ぼろぼろと涙が溢れては零れ落ちていく。所詮ただの"姫の器"で無力な自分が、情けなくて悔しかった。人の姿を保っただけの蛇のお姫様は、少しだけ申し訳なさそうに笑った。

『渓、キっと私は、私達は、大蛇様の力に負ケテしまウ。だが、最善は尽クす』
「それなら私も此処に…!」
『たわけ、お前モもう、分かってイるだろウ。この血には、勝てなイ』
「―――っ」

小さく弱い声だったが、発せられた言葉は凛としていた。渓は唇を噛む。こんなにも憎しみを纏った大蛇の血には勝てないなんて、そんな事は分かっていた。大蛇の血が確かにそう感じさせたのだ。それでもただ、諦めたくなかっただけだ。

『外で、オ前ノ帰りヲ、待ち続ケテいる馬鹿者共に、全て伝エテ、対策ヲ取れ。それしか道はなイ』
「でも…!」
『大丈夫』

今度は渓が、そう言われる番だった。

『大丈夫よ』

私の事なんて一つも気にしなくて良いと、そう言われた気がした。最後まで、姫は渓を庇い続けたのだ、大蛇の脅威から。そして、大切な人達が居る場所で生きて欲しいと願っていた。

『もウ時間がなイ、ドウカ、大蛇様、ヲ、私ヲ、止メテ』

姫のその言葉を最後に、渓の意識は淀みと共に沈んでいった。


 ● ●


突然何の前触れもなく、渓はパチっと目を開けて黄金の瞳を覗かせた。それと同時にぼろぼろと涙が溢れる。傍で渓の手を握っていた白子はあまりに急な事に驚いて目を丸くしたが、反射的に目覚めたばかりの恋人の名を呼んだ。

「渓…!」

その声に引き寄せられるように、渓は勢いよく起き上がったが、急な事にふらついてしまう。そんな渓の体を白子は間髪入れずに支えて抱きとめる。その体は、変わらずひんやりとしていた。

「渓…本当に…良かっ…」

渓が目覚めた、という事実だけで、白子にとっては朗報だ。安堵の声を漏らしながら、腕の中の小さな体を強く抱きしめる。

「……して…」

しかし、安堵した矢先、腕の中の渓がぼろぼろと涙を流しながら何かを呟いた。すぐに様子がおかしいと察した白子は、何事かと腕の中の渓を見やる。すると渓は大粒の涙を零したまま体を震わせて、くしゃくしゃの顔で訴えた。


「私を、殺して」


唐突な渓の言葉に、流石の白子も思考を停止させる。言われた言葉の意味が理解出来ず、鈍器で強く頭を殴られたような衝撃を受けたまま固まった。そんな白子に構わず渓は必死に訴えた。

「お願い白子、私を殺して、このままじゃダメなの、このままじゃ…!」
「待て、落ち着け渓…」
「落ち着いてなんていられないの!このままじゃ、大蛇が、大蛇が復活してしまうの!」

渓が泣きながらそう発したのと、何事かと駆けつけた猪と陸が襖を開いたのは、本当に同時だった。渓の吐き出した言葉は、三人に確かに聞こえていた。僅かな静寂が一瞬で辺りを包み込んで、それを自ら切り裂くように渓は続けた。

「私の中に大蛇が居るの!あの娘が私に、みんなに助けてもらえなんて云うの!でもそんなの間に合わないでしょう!?曇の宝刀はないし、牡丹さんだって居ない、大蛇を止めるものはもう何処にもないの!」

これほどまでに渓が取り乱した所を、少なくとも白子は見た事がない。必死に訴えるその金色の瞳に、嘘はなかった。あまりに突然の事に言葉を返せないでいる白子に向かって、動揺と混乱と焦燥と不安が入り混じったような感情を、渓はぶつけずにはいられない。

「だからお願い、もう私が死ぬしかないの…お願い白子、私を殺し―――」
「殺さないよ」

ようやく返って来た白子からの返答は、やけに落ち着いていた。そしてはっきりとしたものだった。その声はすんなり渓の耳に入って来て、やけに回っていた渓の口もはたと止まる。そんな渓を白子はきつく抱きしめると、優しく背中を叩きながら、耳元に穏やかな声を落とした。

「落ち着いて渓、大丈夫」

今日言われたばかりの大丈夫という言葉に、渓は少し冷静さを取り戻す。白子の大丈夫という言葉と声に、荒立っていた心がすっと凪いでいく。白子は続けた。

「云っただろ、俺が守る。だから俺に殺してなんて云わないで」
「…し、らす…」
「俺が傍に居ないと困るんだろ、俺だって困るよ。だから、そんな事云うな」

優しい声だったが、寂しげだった。自分の発言が白子を傷つけたのだと言う事を、渓は不思議とすぐに理解した。今度は違う感情が溢れ出す。

「…ごめん、なさい」

さっきまであんなにべらべらと感情任せに言葉を発していたのに、震える渓の声がどうにか紡げたのはそれだけだった。その言葉を聞いた白子がふっと優しく笑ったのを、抱きしめられた腕の中で渓は感じ取る。

「…辛かったし、怖かっただろ。もう大丈夫、此処に居る」
「白子…ごめ、私…」
「今は何も云わないで。目が覚めて本当に良かった」

本当に心からそう言われて、渓は唇を噛むと白子の背中を抱きしめ返した。そして小さな子供のように、溢れる嗚咽を抑えられずに泣き出してしまう。

渓はどうにか必死に頑張っていたけれど、本当に怖かった。何度も飲み込まれそうになって、何度も消えてしまいそうになった。その恐怖が体の奥底にまだ確かに残っていて、震えが止まらない。

「こわ、怖かった、白子、こわ、かった」

ぼろぼろと泣きながら、白子の腕の中で繰り返す渓の背中を、大きな手のひらが優しく撫でる。

白子は猪と陸に視線を送ると、二人は何も言わず襖を閉めて部屋を離れた。泣きじゃくる渓はそんな事を気に留めている余裕はなく、ただ白子に縋る事で精一杯だ。震えの納まらない渓を抱きとめながら、白子は穏やかな声で何度も続ける。

「もう大丈夫、俺が居るだろ?」
「ほんとに、消えそうで、こわくて」
「うん」
「大蛇が、人間が憎いって、何度も殺すって」
「…うん」
「あの娘、姫、大蛇になっちゃったら、私、もう居なくなるから、だから」
「落ち着いて、ほら、深呼吸」

白子の声に導かれるように、嗚咽交じりに、渓は必死に何度も呼吸を繰り返す。そしてようやく落ち着いた頃、白子は腕の力を緩めて渓と視線を合わせた。

「…本当に、目が覚めて良かった」
「ごめん、なさ、」
「謝らないで、安心してるだけ」
「でも、心配かけた…」
「心配くらいいくらでもかければいいよ」

優しく、力強くそう言われて、渓はまた泣いてしまう。その涙を指先で拭いながら、白子は笑った。

「大丈夫」
「白子、私、大蛇に…」
「ならないし、させない」
「でも…」
「信じて」

その言葉に、渓はついに押し黙った。

「大丈夫、俺を信じて」

蛇の信者の記憶の底で、渓は大蛇の感情と対峙している。ただ形を持たないだけで、それは大蛇に他ならなかった。むしろ感情が直に伝わって、その恐怖はより一層渓の心を痛めつけた。だというのに、白子に大丈夫だと言われると、不思議とそんな気がしてしまう。自分が取り込まれて大蛇になる未来は確かに存在しているのに、それでも一縷の望みに賭けてみようと思ってしまう。

渓は何も言わずに、自分から白子に抱きついた。まだ震えの収まらないその小さな体を、白子は力強く抱きとめる。渓が必死に大蛇を食い止めようとしていたのだという事は、白子にはもう伝わっていた。実際、空は恐ろしい程曇天続きだ。

こんなに取り乱して冷静さを欠いてしまうくらいなのだから、余程の恐怖だったに違いない。そう感じ取った白子は腕の中の存在を慈しむように抱きしめた。人の温もりのない冷たい体、黄金の眼。渓という存在を失いかけても、それでもまだ渓は傍に居ようともがいている。

けれどもう時間はない。冷静さを保ちながら、渓を安心させながら、白子はどうにか大蛇を消す方法を必死に考える。


そんなとき、突然渓が小さく呻き声を上げたかと思うと、次の瞬間には勢いよく顔をあげた。絶望に満ちた渓の表情を見て、白子は息を呑む。

―――左目の白い部分が、徐々に金色に支配されかけていた。

それが何を意味しているのかは分からないが、考えられるとすれば大蛇になりかけているという事だ。しかし渓自身は全く違う件を伝えたかったらしい。

「白子、犲に―――」
「え…?」

不意に聞き覚えのある名前を吐かれ、白子は嫌な予感を感じ取る。当たって欲しくもない予感ほど、よく当たるものだ。


「犲に、天火が居る」


渓には他人の視界を見るなと伝えてある。それを破るような娘ではない。だとすると、恐らくもうすでに渓の制御など通り越して、渓の意思とは関係なく見え始めてしまっているのだろう。もはや力が暴走し始めているのと同じようなものだ。

それに加えて、犲に天火が居るなどという予想もしなかった事態になっている。誰の視界を見たのかは分からないが、渓が言うのならば事実なのだろう。

空からは雨が降り始めた。まるで終わりを告げる、かのような、静かで重い雨だった。


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