滋賀も京都も、毎日のように曇天が続いていた。天火は嫌な予感を感じながら犲の詰め所で待機していた。遠くで雨の気配がする。 元々、天火は犲に戻るつもりはなかった。妃子が一度任務の為だと京都に戻ったのを訝しみ、隙を見て空丸達とは手紙のやり取りをしていたが、空丸がなかなか口を割らなかったので苦労した。治療を続ける天火に心配をかけたくなかったのだろう。 結局何も分からないまましばらく経って、やけに晴れやかな顔で紀子が帰って来たのと、空丸から『渓の目は治ったが事情があって神社を離れた』という曖昧な手紙を見てより不信感を募らせた天火は、戻った妃子に何度もしつこく問いただした。しかし、この件に関してだけは天火に甘い妃子も決して口を割らなかったのだ。 だからこそ天火は自分の持ち得る人脈を盛大に活用し、渓が大蛇の実験を受けた事を知ったのだ。何かしらの事情があって渓の目を見えるようにするために実験したのだろうというのは察しがついたが、結論として天火は怒っていた。自分が経験してきた、あんなにも辛く苦しい実験を渓にさせたくなどなかったからだ。 そうして再び妃子が居なくなった直後に治療を終えた天火に好機が舞い込んだ。病院側からリハビリの前に年明けくらい一度帰省してきてはどうかと提案され、これを利用する手はないと天火は単身犲に乗り込んだのだ。そして調べがついているところまで蒼世に説明し、山縣にも掛け合って説明を求めると、諦めたように山縣からこれまでの説明を受けた。 話は、川路が娘の為に渓を狙っていた事から始まった。渓が実験を拒否した為に、川路は渓を拉致監禁したものの『何者』かに殺害されたのだが、それを知った大蛇の細胞をいまだに諦めきれない一部の政府の上層部が恐れてしまい、問答無用で渓を実験体にする為に動き始めてしまったのだ。何らかの罪を適当に渓になすりつけて罪人として連行するという話も上がっていたくらいで、強硬手段も辞さない覚悟だったらしい。 それを知った犲は何度も阻止を図り、渓が強制的に連れて行かれないようにと芦屋の術で式を飛ばしていた。当然その式も政府の連中や警察何かに知られてしまうようなものではない。だというのに、『何者』かの手によって何度か式は壊された上に、政府の上層部が裏で手を回したらしい連中が真夜中に渓を拉致に向かった事もあったが、式が辿るよりも犲が嗅ぎ付けるよりも早く、『何者』かが先手を打ってそういう連中は排除されていた。お陰で政府が雇った面々は皆、揃いも揃っていまだに消息不明だ。それはまるで、『見えない誰か』がずっと傍で渓を守っていたかのようだったらしい。 しばらくして、どうあっても渓が手に入れられない事に痺れを切らした上層部が、最終的に情報を操作して渓の実験を強制的に決めてしまったのだ。となると、仮に目が見えるようになった渓が力を保持していた場合、いつ力を使われてしまうか分からない為危険だと判断され、当初の予定通り芦屋の術で記憶を消す運びになった。 実験の決定は犲の力ではどうしても覆せなかったものの、記憶を消さなければならないというのは犲達にとっては好都合だった。政府の上層部に上手く取り成し、渓の精神状態の為にというのを理由に妃子を傍につけ、ずっと大蛇実験に関与してきた太田を主治医にして回りを固めてしまえば、政府の監視は少し緩くなる。後は渓の視力が戻った時に記憶を消したふりをして、彼女を政府の手の届かない場所に逃がすだけだった。 上層部が情報操作で忙しなくしていた為、隙を見て蒼世は太田に頭を下げて実験を早めてもらい、政府の手が回らないうちに渓を逃がす事に成功した。渓を失った上層部は犲を責めたものの、責任は情報操作をした上層部にあると言い切れば、上層部は苦い顔をしてそれ以降何も言わなくなった。そのあたりは蒼世と鷹峯が上手く立ち回ったのだろう。 そうして犲という組織がなくなるかもしれないという決死の覚悟で渓を逃がしたはずだったのに、今回の怪しい山火事が起こってしまったのだ。 犲の調べによると、今回の事件の始まりは木戸で間違いがないと見られている。木戸は以前から大蛇の細胞を喉から手が出るほど欲していて、犲も目を光らせていた。木戸と親交があった川路が大蛇絡みの事件で亡くなった後は大人しくしており、怪しい動きも見せなかったので、死への恐れや傷心もあったのだろうと思われた為に、監視の目が緩くなった時があった。思えば、木戸はあえてそれを狙っていたのだろう、その間にひっそりと動き始めたのだ。 木戸は川路と親交があった事を理由に、孤独になった川路の妻を助けるという名目で彼女に近付いて、心を病んだ彼女の弱みに付け込み川路が蓄えていた莫大な資産をごっそりと奪い取った。心を病んでいた彼女を騙す事は、木戸にとっては簡単だっただろう。 そして奪った資産を元に、山中にこっそりと研究所を建てながら研究員を集め、渓を捕まえる為にこそこそと手配書まで作っていた。その手配書は何故か知らぬ間に撤廃されたものの、平行して大蛇の実験資料を奪い取る動きを始めたのだ。木戸の行動をやはり不審に思った犲が、山縣と手を組んで木戸の悪事を暴くべく動き出したわけだが、お互いの長い騙し合いの中、忽然と大蛇の実験資料が姿を消したのだ。本当に何処に行ってしまったのか今も分からず、痕跡も辿れなくなってしまった。 それと同時期、近くの村や町を荒らしていた山賊が綺麗さっぱり居なくなった。村民や町民達は警察のお陰だと感謝していたが、そんな政策も動きもなかった事を不可思議に思った警察の一人が犲の面々に不気味だと相談した所、関連性があるのではないかと仮定した犲がその件も合わせて警察と共に捜査を始めた。だがそれに関してはまだ何も情報が上がってきていないのが現状だ。 資料の紛失と山賊の件が関係があるのかは正直定かではないが、共通点をあげるとすれば、"異様なほどに完璧な証拠隠滅が出来ている"という事だ。同じ時期に気味の悪い事件が立て続けに相次いだ事もあって関連性を調べているが、今も証拠は出ない。探すのが馬鹿らしくなるほど、何一つ掴めないのだ。 だからこそ、犲は感じていた。『彼』の仕業ではないかと。 渓が消えたあの日、彼女は『誰か』と共に消えたのは間違いない。それが誰なのかは、誰も何も言わないだけで分かっていた。もちろん天火も曇神社の面々も例外ではない。 『彼』が渓を犠牲にし実験を行おうとしているのではないかという事も十分に考えられた。だが、実験資料を失った際の木戸が明らかに動揺し憤慨していた事もあり、そうではない可能性の方が高いのではないかと犲は信じたかった。根拠も証拠もないからこそ、そう願う事しか出来なかったのだ。大蛇の実験資料を奪ったのは、渓を守る為だったのではないか。それに賭けるしかなかった。 そんな最中、例の山火事が起こり、謎の実験施設を建てていた事が判明した事で、木戸から怪しい金の動きがあった事と、とある医療研究所から大量に人が居なくなった事が明らかになった。そうして再び木戸への容疑がかかったのだ。確実な証拠はないが、それを掴む為に今躍起になっているところではある。徐々に木戸を追い詰めて今に至るわけだが、毎度上手い事逃げられてしまってなかなか逮捕には至らない。 渓と大蛇に関係するこれまでの話と犲の現状を聞いた天火は、自ら山縣にも掛け合って一時的に犲に復帰したのだ。本当の妹のように可愛がってきた渓が、自分と同じような実験体にされるなど許せなかった事ももちろんだが、ただ幸せになって欲しかった事が一番強かったのだと今になって思う。 復帰は非常に無理矢理ではあったが、山縣も犲も今は一人でも多く優秀な人材が欲しいところだったので文句は言っていられない。一刻も早く木戸を捕まえなければ、大蛇の実験が何処かで密かに進められてしまうかもしれなかった。このままでは知らないところで、本当に渓が犠牲になるかもしれない。 「…なぁ」 天火は曇天の空を見上げながら、続きは心の中でぽつりと呟いた。何処か遠くの『誰か』に向けて。 ―――渓を、頼むぞ 渓が滋賀の地から消えたあの日、誰が渓を逃がしたのか、はたまた誰と逃げたのかを蒼世は天火に語りはしなかったが、『誰か』に心当たりのある天火は、その『誰か』に向けて語りかける。届きもしない声が届くように願って。 「―――天火、居る!?」 天火が今日までの事を振り返っていると、やけに慌しく妃子がやって来た。乱暴に詰め所の扉を開いて、乱れた呼吸で肩を上下させている。随分急いでやって来たのだろう。何事かと天火が妃子に声をかけるよりも早く、天火の顔を見た妃子が重い口を即座に開いた。 「…木戸が、消えたわ。密かに集めていた軍を連れてね」 天火は言葉を失う。窓の外で、雨が静かに降り始めた。 四十六、全面戦争 渓の中で起こっている出来事は、白子を始め風魔全員と勇太郎にも伝えられた。渓はもう姫の声が聞こえないと言っていたので、恐らく姫の自我がなくなってしまったか、完全に大蛇に取り込まれてしまったかのどちらかだろう。いずれにせよ、状況は最悪だといえる。 そんな最悪の状況に拍車をかけたのが、渓の変化だった。時間が経つごとに左目は白い部分は失われて、今ではもう金色が全てを覆い隠している。まるで本物の蛇の目のようだ。それに加え、白く柔らかい胸元には、薄っすらと鱗のようなものが浮かんでいた。それは姫の変化と同じだと震えた声で渓は話した。瞳を金色が支配し、鱗が全身を覆ってしまえば終わりなのだろう。 蛇の目の力ももう渓自身の意思では制御出来ず、勝手に犲達の情報が流れてくるような状態になっていて、頭の中に直接大蛇の憎悪が聞こえてくるらしい。何度も大蛇が出てきそうになるのを夜も眠らず懸命に堪えているのだが、抗う度に渓は咳き込み血を吐くようになった。大蛇に従わない代償であるかのように。 自身の見た目が大蛇に変わっていく恐怖、休む間もなく聞こえる大蛇の憎悪、眠れば取り込まれてしまうのではという不安、大蛇を蘇らせてはいけないという使命感。様々なものが渓を支配していて、誰の目にも分かるほどに渓は弱っていた。もう精神力も体力も限界は超えているのだろう。それでも大蛇が出てきてしまわないよう怯えながらも耐えているのは、渓にも守りたいものがあるからだ。 しばらくは気丈に振舞っていた渓だったが、次第に怖い、辛い、横になると眠ったまま消えてしまいそうだと弱音を吐く事が増え、何度も泣くようになった。死にたいとは決して口にしなかったが、そう思っていてもおかしくはない状況だ。小さな体で、たった一人で抗っているのだから無理もない。 だが、諦めてしまってもいいなど、誰も口にはしてやれなかった。頑張らなくていい、もう休んでいいと、誰もが渓に言ってやりたかった。けれど、言うわけにもいかなかった。そうなると渓は失われてしまうばかりか、大蛇が復活してしまうのだから。どうしようもない矛盾と己の非力さを噛み締める事しか出来ないでいる。 渓の容態は今は少し落ち着いていて、白子に支えられながら、もたれかかるようにしてどうにか座っていた。手にはお守りのように、いつもの赤い丸簪が握られている。時々苦しそうに小さく呻き声を上げることはあるが、言葉をかければ返事は返ってくる。会話が成り立っているだけでもかなりマシな方だった。 白子は、かつてないほどの自分の無力さを痛感していた。大蛇の復活は確かに望んでいたが、もしも渓が大蛇になるのなら復活なんて望みはしなかったかもしれない。ああ、なんて我が侭で私欲に溢れるようになってしまったのかと白子は思う。けれど、それ程までに失いたくはないのだ。腕の中で弱りきった小さな体が、力なくもたれかかるのを優しく抱きしめながら白子は口を開く。 「勇太郎、大蛇の細胞を抜くことはどう足掻いても無理か」 「…わ、分かりません、精一杯努力はしていますが、恐らく蛇の信者の血と上手く馴染みすぎているのでしょう…」 白子は僅かに眉を寄せる。大蛇が復活した際、姫も渓も「大蛇に喰われに行く」と一度口にした。そうする事で大蛇に力が戻るからだと。 蛇の信者は、大蛇に血を分け与えられ特別な力を得た一族だ。その特別な力を取り込む事で大蛇の力が戻る、もしくは増えるのだとしたら、すでに姫が取り込んでしまっていた場合それを押さえ込んでいる渓への負担は計り知れない。 そんな会話の最中、渓が力なく白子を見上げて、必死に声を上げた。 「白子…」 「どうした?」 「大変…あの人が…」 「あの人…?」 「私を、攫った、木戸という人が…軍を連れて、こっちに向かってる…」 一瞬にして緊張が走る。張り詰めた空気が辺りを包んで、誰も声を発せなくなった。渓はどうにか言葉を続ける。 「…木戸という人が、政府の上層部に働きかけて、風魔が…今回の事件の、犯人って…されてしまったみたい…」 その発言に、三人の風魔達の纏う空気が一気に凪いだ。静かに殺気を放っている。渓は不安げに続けた。 「今、犲のみんなが、それを止めようと動き出したみたいだけど…多分、大きな争いになるだろうって…云ってる…」 「どうする長」 いつになく冷酷な顔で低い声を発したのは猪だった。いつもの態度とはまるで違う猪の雰囲気は、木戸の研究所で見せたものと相違ない。その傍では、陸も同じような顔をしていた。 「…渓、その木戸という奴が今何処のあたりに居るかは分かるか?」 白子は風魔の長として、迷っていられなかった。 「…ごめんなさい、あの人は大蛇の眷属でもなんでもないみたいだから…犲の目しか追えない…」 「猪、里の者を何人か偵察に向かわせろ。今は無闇に動かず状況を見る」 「御意に」 「陸、お前はこの近辺の偵察に行け。怪しい者は全員排除だ」 「はっ」 猪と陸は音も立てず、まるで消えるように居なくなった。勇太郎は慌ててきょろきょろと周囲を見渡すが、すでにそこに二人は居ない。 「勇太郎」 「ヒィ!!は、はい!!」 「…時間がない、多少の荒治療でももう構わない、急いでくれ。最悪何か体に障害が残っても、構わない」 唐突な白子の言葉に、勇太郎は驚いて目を丸くした。形のよい彼の唇から発された言葉は、酷く優しくて残酷だった。最愛の人に障害が残っても構わないなど、どうして言えるのだろう。ましてやその人を腕に抱え、その人だって聞いているような場で。 勇太郎は白子の発言が信じられなかった。生きていたら何でもいいとでもいうのだろうか。 少なくとも、勇太郎はそうは思わない。元々渓は健康体だ。一度目が見えなくなったが、それも無事に回復している。今回の事だって、その血を狙われて巻き込まれてしまったに過ぎない。例え生きていたって、障害が残るなんて事になったら幸せになれるはずなどない。どうせなら健康で、幸せに笑って欲しいと、勇太郎はそう思っていた。 勇太郎は不安になって視線を渓に移す。渓は勇太郎を見て、小さく微笑んだ。白子の言葉など気にも留めていないかのように。 「…どう、して…」 ぽろりと勇太郎の口から言葉が零れて、そこからはどんどんと溢れてきた。 「障害が残っても構わないなんて…どうしてそんな事云うんですか!?大切な人でしょう!?その人の体に障害が残って、辛い未来があるくらいなら、健康に生きていて欲しいじゃないですか!」 白子に向けられたのは、優しい言葉だった。勇太郎は心の底から渓の回復を望んでいるし、そうさせたくて努力しているのだろう。当の勇太郎ははたと言葉を止めて、顔をさーっと青ざめた。風魔の長に楯突いたのだから殺されてもおかしくはないと思ったのだろうが、白子はそんな勇太郎を見てふと笑って見せた。 「歩けなくなろうと喋れなくなろうと目が見えなくなろうと、記憶を失って俺を忘れても構わない」 「な…」 穏やかな声で放たれた返答に、勇太郎は今度こそ言葉を失った。白子は続ける。 「もちろん障害なんて残らないに越した事はない。だが仮に残ったとしても渓の根本は変わらないし、俺の気持ちも変わらない。こんなところで渓を失うくらいなら、どう足掻いたって生き延びさせる。忘れられてももう一度好きにさせる自信くらいは持ち合わせてる」 白子の言葉は、力強かった。何も言えない勇太郎を見て、次に口を開いたのは渓だ。 「…私、白子の傍に居られるなら、それでいいんです。そう思って、此処に来たから。それに…心配くらいいくらでもかけていいって、お許しも貰ってます。もし白子の事を忘れても、こうして傍に居てくれるなら、私はまた絶対に白子に恋してしまうから、だから、気にしないでください」 疲弊しきった渓の声は弱々しかったが、穏やかで優しく、不安は微塵も感じなかった。本当に、お互いを信頼し愛しているのだという事は、勇太郎にも痛い程伝わった。 障害を残してまで生きたいと願うのは、生きて欲しいと願うのは、それでも傍に居たいというお互いの思いが一致しているからに違いない。こんな所で大蛇に未来を奪われてしまうのは、白子も渓も本意ではないという事だ。 白子も渓も、真っ直ぐに勇太郎を見つめる。その視線を受けて、少し悩んだ勇太郎だったが、がしがしと頭を掻いた。 「…ああもう!分かりました!」 勇太郎は姿勢を正して背筋を伸ばすと、真っ直ぐに二人を見返した。 「…先に云っておきます。どうなるかなんて本当に分かりません。手段を選ばないというのなら、最悪命を失う覚悟で居てください」 その言葉に、白子と渓は頷いた。どちらにせよこのままでは大蛇は復活して渓は飲み込まれて消える。それならば、最善は尽くしたい。勇太郎は少し呼吸を整えてから続けた。 「まだ少し時間がありますよね、この間は強い薬で投薬を続けます。本当に最悪の状況に陥った場合、ある手段を強行させてください。渓さんはかなりの負担を伴うと思いますが…」 「…私は、大丈夫です」 「…本来ならきっちりした書面に署名してほしいくらいなんですからね」 ぶつくさ言いつつも、勇太郎は薬箱を開けると、かなりきつい薬になる事だけは先に告げると言って薬品の調合を始めた。見た事もない薬品の臭いはツンと鼻を刺激する。量もそう多くはなさそうだが、念の為にと勇太郎が作り置いていたのだろう。ただ明らかに使用は避けたい様子ではあった。それでももう、これ以上渓を戦わせるのも限界なのだ。 調合の最中に猪と陸は戻ってきた。風魔を偵察に行かせておけば、自然と渓に情報は入ってくる。彼らの帰りを待たずとも情報は得られるというわけだ。猪が先に口を開いた。 「数名偵察に向かわせた。後の者は里で待機させてる」 「分かった、俺も一度行こう。陸、そちらも問題ないな」 「はい、さらに山奥にある離れの方にも敵の気配はありません」 その返答を聞いて、白子は渓に視線を落とした。苦しそうにもたれ掛かかりながら、それでも渓は笑った。 「少し離れるが猪と陸を傍につけておく、大丈夫か?」 「うん」 白子は渓の髪をかき上げて一度額に唇を落とすと、二人に渓を託して立ち上がって里に向かった。 ● ● 里に集まった風魔達は白子の前に膝を付く。まばらに降っていた雨はもう止んでいて、里の土は湿気ていた。吐く息は白い。 白子は風魔達の中から、渓に懐いていつも屋敷に居た子供達を見つけて眉を顰めた。彼らの漆黒の髪は、いつの間にか自分と変わらぬ白髪に変わっていたのだ。しばらく見ないとは思っていたのだが、まさか風魔になっていたとは予想もしなかった。 「…儀式でも受けたのか?」 白子が子供達に問えば、子供達が首を横に振った。白子を見るその瞳は、もう紫色に変わっている。 「人は殺していません。ただ、望んで箱に入りました」 「何の為に」 「一人前の風魔になって、渓様をお守りするために」 その言葉には決意が見えた。白子はこんな幼い子供まで巻き込むつもりがなかった。だからこそ風魔を離散させたかったのだが、彼らの瞳は真剣そのものだ。本当に命がけで渓を守ろうというのだろう。白子は息を吐く。白い息が寒空に溶けた。 「…敵は迫っている、此処で迎え撃つことになるだろう。無駄に死ぬつもりで命を張るならやめろ、恐れる者は今すぐ逃げろ。生きたい者は此処から去って好きに生きていけばいい。それでも―――」 一息置いて、白子は優しい顔で言った。 「それでも、渓を守るという意思があるのなら、共に戦ってくれ」 風魔の面々が頷いた。此処にいる者達は皆、心の底から渓を慕っている。だからこそ、守りたいと思っている。渓は愛されるべくして愛されたのではない、自分で愛される人間になり、愛してくれる人達を作ったのだ。そして今もまだたった一人で戦っている。本当に強い娘だと白子は思った。 「奴らは軍で来ている、必ず何かしらの武器と対策を持って来ているはずだ、決して油断はするな。此処を追われたら北にある離れに一度身を隠す。里は捨てるつもりでいろ」 そこまで白子が伝えた後、風が揺れて翡翠の耳飾りが手品のように現れた。陸だ。その表情は緊迫している。 「長、渓様が偵察部隊の視界を捉えました。敵はそう遠くないところまで来ています」 「数は?」 「…我々の倍以上はいるようです。当然ながら、軍用銃も持ち合わせていてかなり体制を整えているようです」 「…なるほど」 白子はそう言うと、風魔の色を付けたばかりの子供達を見た。 「お前達は陸と共に渓の傍に居ろ、様子を見て渓が動けそうならば先に離れに移動するといい」 「…猪様は」 「此処へ連れて来い。俺と猪で前線に出る」 その言葉に驚いた陸は、すぐに顔をしかめた。不満げその表情から、渓の傍に居てやって欲しいと言いたいのを堪えているのは白子もすぐに察して続ける。 「数で勝てないのなら俺と猪で数を減らす方が早い。折を見てそちらに戻るようにはする」 「…御意」 この里で圧倒的な強さを誇る二人が前線に出るならば、確かに数は相当減らせるだろう。男衆も少なくはない。それでも陸は不安だった。渓の傍に居るのが自分でいいのだろうかと思ったからだ。 「陸」 名を呼ばれて、陸は顔を上げた。白子の視線が真っ直ぐに自分に降り注がれている。その眼差しは、一人の立派な風魔として陸を認めていた。 「渓を頼んだ」 白子にとって、この世で一番大切な人を任されたのだ。陸よりも強い風魔などまだ里には大勢居る中、白子が選んだのは陸だ。その責任は、ある意味前線に出るよりも遥かに重い。その重みを噛み締めて、陸は白子の目を真っ直ぐに見つめたまま力強く頷いた。 陸は子供達を連れ消えてしまったかのような速度で渓が居る屋敷に戻り、入れ違いのように音もなく猪が現れた。軽やかに髪を靡かせて現れた猪はまるで風のようだ。端整な顔にはめ込まれた紫眼は、いつになく冷酷な色で満ちている。 「…前線に出るって?」 「俺とお前である程度片付けた方が早い」 「大した自信だな」 軽い口調で猪は言うが、纏う空気は静かで、それでいて恐ろしかった。 風魔達が立ち上がる。そんな彼らを一瞥して、白子は言った。 「―――全面戦争だ」 これが最後の戦乱になるのだと、きっと誰もが、頭の片隅で理解していた。 △ back ▽ |