東の拠点から随分離れたところで、陸は大きく息を吐いた。分かっていたのに、分かっているのに、それでも胸が痛い。張り裂けそうな痛みというのは、こういうことを言うのだろう。

あまりにも身分の違う人を想ってしまった。本来ならば手の届かない人だというのに、あろうことか、その人は自分の立場や身分にそぐわない行動ばかりするせいで、いつでも触れられる程の距離にいるのだ。それが尚更、気持ちの行き場を彷徨わせてしまう。

その人は、毎日里に下りて来ては、里の女達に料理を教えたり、料理を振舞ったり、子供達と遊んだり、読み書きを教えたりしている。おかげで初めは警戒していた里の風魔達も、そのひたむきさと明るさに絆されて、大勢の者がその人を受け入れた。そしてしまいには、大好きになった。陸もその一人だ。

今にして思えば、風魔の里は暗くじめじめしていたのだろう。長くその場所に居たせいでそうは感じなくなってしまっていたが、その人が来てからというもの、里の人間はよく笑うようになったし、なんだか人間らしくなった。その人は、暗く陽の差さなかった世界に突然現れた太陽だった。

そんな太陽に、いつの間にか陸は焦がれてしまった。傍らにはいつだって、太陽を守る月があったというのに。

風魔一族にはない、真っ直ぐな絹のような髪を靡かせて、可愛い赤い簪を挿して、力一杯咲く花のように笑う。認められなくても、受け入れられなくても、ひたむきに歩み寄って、一人ひとりと真っ直ぐに向き合ってくれる。そんな人の小さな姿を、いつの間にか目で追うようになった。そして自分の気持ちに気付いたときには、もう遅かったのだ。

自分では太陽を守る月になれない事を、陸は知っていた。忍としての力も、技術も、人としての経験も、太陽と積み重ねてきた時間も、どれを比べても何一つとして月のようなあの人には勝っていない。簡単に触れられたとしても、結局どれだけ手を伸ばしても届かない二人なのだ。

分かっているのに、初めて知ったこの気持ちの終わらせ方が、陸には分からないでいる。思わず溜め息が零れた。

そんな想いを燻らせているときだった、あの声が聞こえたのは。


「よォ、陸じゃねぇか」


陸は驚いて振り返る。そこには右耳から陸と同じ翡翠の耳飾りを下げた、背の高い猫背の、黒い眼帯の男が、胡散臭い顔で笑っていた。


三十七、裏切り


「…嘘だ」

男の話を聞いた後、陸は目の前の男を睨み付ける。男は相変わらず胡散臭い笑顔のままだ。細い目は繕うように弧を描いている。

男は陸に近付いて、その両肩をぽんと叩いた。猫背で線は細いのに、ずっしりと重みのある腕に陸は眉を顰める。それと同時に、少しだけ腕が震えた。それを誤魔化すように、強く拳を握る。

「本当だよォ、俺がお前に嘘ついた事なんてねぇだろう?信じてくれよォ、なぁ陸ゥ」

ぎゅうっと男が陸の肩を強く握る。骨がみしっと音を立てた。肩から走った痛みに、陸は思わず顔を歪める。目の前の男は、ずっと笑顔に似た表情を貼り付けたまま見下ろしている。白子とはまるで違う圧に、陸は喉の奥がぎゅっとなった。冷や汗が背を伝っていくのを感じる。

「…だって、ずっと、認めないって…」
「人は変わるんだぜぇ陸。本当だ、俺を信じてくれよォ」

男は屈んで陸の耳に顔を寄せた。そして小さく囁いた。

「今まで何度も助けて来てやっただろう?それこそ左目を失くしてでも」

陸の脳内に、今までの光景が蘇る。まだ五歳だった時、風魔元服の式で自分を殺そうとした姉から、この男は自分を救ってくれた。その後何年も、自分の危機には必ずこの男が陸を助けてきたのだ。一年前の大蛇復活の時だって、警察の人間に刺されそうになったところを救われた。そのかわり、男は左目を失うことになったわけだが。


―――そして、そのかわり、陸はこの男の『お願い』に、逆らえなくなった。


五歳の時から命を救われてきた。目の前の男は妙に胡散臭いし、男が陸に下す『お願い』は無茶なものも多かった。従えないと反抗しても、時には暴力で説き伏せられた事だってある。それでも確かに、命だけは救われてきた。何度も、何度も。

もう一度、男は言う。

「頼むぜぇ陸、おんなじ里の家族じゃねぇか。なァ、『お願い』だからよォ」

びくりと陸の肩が大きく震えた。ぎゅっと強く唇を噛んで、必死にこの恐怖に耐える。自分は長から命令を受けているのだと言い聞かせて、俯いて黙り込んだ。

そんな陸の態度をしばらく見ていた男だったが、黙ったままの陸に苛立ちが募ったのだろう、舌打ちをして陸の首を片手で掴むと、その体を軽々と宙に浮かせた。首を絞められ、陸は必死にその手を振りほどこうとするが、細い男の腕から逃れる事は出来ない。

「おい陸、お前いつからそんなに聞き分けの悪い餓鬼になっちまったんだァ?命の恩人だぞぉ俺は。分かってんのか?なァ?見ろよこの左目。お前を守って抉られちまったんだぞ?そんな俺様のお願いが聞けねぇなんて、そんな馬鹿な話はねぇよなァ?」
「で、も…!長が…!」
「長には俺がちゃぁんと釈明してやるよォ、そんな事も分かんねぇのかてめぇはよォ」

首を絞める力が一層強くなる。堪えきれず陸がガハっと息を吐くと、ようやく男は陸を離した。地面に転がった陸は、気管から突然入りこんできた冷たい空気に何度も咳き込んだ。陸が苦しそうに咳き込む姿を見ていた男は、その場にしゃがみ込んで陸の髪を乱暴に掴み上げる。

「なぁ陸。俺は誰だ?お前にとっての何だ?」
「ぐ…」
「それくらい分かってるよなァ?俺だってお前に手荒な真似はしたくねぇんだ。大人しく『お願い』を聞いてくれよ。な?」

そう言って、男は掴んでいた陸の頭を乱暴に地面に投げた。陸は苦しさと痛みで震える体を必死に持ち上げる。

「じゃあ、よろしく頼むぜぇ陸」

胡散臭い顔で、男は笑顔に似た何かを表情に貼り付ける。もう、陸に選択肢はなかった。

「……ひとつ、だけ」
「んん?」
「ひとつだけ、約束してほしい」

懇願するように陸が言うと、男はにんまり笑った。

「あァ、何でも聞いてやる」


 ● ●


髪の長い女の風魔は苦無を手に取ると、子供達を渓の傍に置いて、険しい表情で立ち上がった。家の外に出ると、見慣れた顔がそこにある。

「陸、どういうつもりだ」

女の問いかけに、陸は俯いたままで答えない。その首にある真新しい痣を見て、女は顔を顰めた。

陸の後ろには、胡散臭い男の姿があった。背が高く猫背で、やけに冷たい笑顔を貼り付けている。女は男を真っ直ぐに睨みつけて言った。

「何の用だ」
「冷てぇなァ、ちょっと話をしに来ただけだよ」
「こちらはお前に話などない」
「俺だってお前に話はねぇよォ」

男はそう言って、陸の頭にぽんと手を置いた。青白い顔をして、陸の肩が大きく揺れる。

「蛇のお姫様に用があって来たんだ。なァ陸」

がしがしと頭を撫でられながら、陸は何も言えずになされるがままだ。女は眉を寄せて男を睨んだままで言った。

「…長が何と云ったか忘れたのか陸」

その言葉に、陸は拳を強く握る。
決してこの場所を明かすな、長にそう言われていた。そんなことは分かっていた。猪も戻って来ていない中で、指示を待たずに勝手な行動をしてこの男を連れて来た。それがどれ程の罪であるかは理解している。それでも、陸にはそうするしかなかったのだ。この男には逆らわない、逆らえない。ずっと長い間そうやって生きてきたのだから。

「そう云ってやるなよ、こいつは俺様の『お願い』を聞いてくれただけだぜェ?」
「そんな話はどうでもいい。去ね」
「何だよォ、俺達は家族だろう?もっと優しくしてくたっていいじゃねぇかよォ。お前もそう思うよなぁ陸」

陸は何も言えなかった。何を言うのが正解なのか、恐怖に支配された頭では、もう分からなくなっていた。寒くもないのに、勝手に体が震え出すのだ。陸はそれを堪えるのに必死だった。

「姫様はお前などに用はない」
「俺様はあるんだって云ってんだろうが、このクソ女ァ」

胡散臭い笑顔を貼り付けていた男は突然表情を変えて、陸を撫でていたその手で今度は髪を乱暴に掴み上げる。陸の顔が歪む中、それを見ても女は表情を変えない。

「安い挑発だな」
「黙れよ女ァ、殺すぞ」
「やれるものならやってみろ」

女が言うと、男はにんまりと口元で弧を描き、目にも留まらぬ速さで懐から苦無を取り出した。そして次の瞬間、


―――陸の左目を、その苦無で突き刺した。


「ひゃはははははははは!!!!」

男は狂ったように笑い声を上げながら苦無を引き抜くと、掴んでいた陸の頭を乱暴に投げ捨てた。左目を襲う激しい痛みに、陸はそこを押さえたまま動かない。指の隙間を伝って、ボタボタとその目から鮮血が流れ出る。その光景を見た女は、急激に頭に血が上るのを感じた。

「貴様ァァァ!!!」

女は男に切りかかる。振り下ろされた苦無を軽々弾き返して、男は相変わらず笑顔に似た表情を貼り付けている。先程よりも幾分か楽しげな男に向かって、女は声を荒げた。

「貴様…自分が何をしたか分かっているのか!?陸はお前の――」
「さっきからうるせぇんだよ塵が」

静かな声で男はそう言うと、一瞬で間合いを詰めて女の腹に拳を突き上げる。打撃が入る際、何とか衝撃を受け流したが、男の細腕からは考えられない程の強力な一撃に思わず膝をつく。たった一撃で、内臓を少しやられたらしい。げほっと血を吐く女を見下しながら男は言った。

「弱ぇくせに女がしゃしゃるんじゃねェ、雑魚は引っ込んでろ」

そんな言葉を吐き捨てながら、男は女の前を通って家の中に足を踏み入れた。刹那、男の方へ方々から苦無が飛んでくる。ふらふらと奇妙な動きでかわした男は、飛んできた苦無を一つ指で受け止めると、それを勢い良く投げ返した。その先には、子供が一人立っている。まだ黒髪の、幼い子供だ。

突然返された苦無に反応できず子供が動けないでいると、駆け寄ってきた女が子供を抱えるようにして飛びついた。お陰で子供は苦無の被害を免れたが、かわりに女の細い肩に突き刺さってしまう。肩に苦無が刺さったまま、女は子供を守るようにして抱きしめながら男を睨みつけた。その一連の流れを見た男は、呆れたように息を吐く。

「弱ぇなァ…弱ェ…何でこんな奴等が、長の周りをうろちょろしてんだよォ…お前もそう思うよなァ陸」

男が振り返ると、片目を押さえた陸が苦無を片手に立ち上がっていた。その目は恐怖と怒りに満ちている。

「…約束が、違う…」
「あぁん?」
「話をするだけだって、何もしないって、約束しただろ…!」

普段声を荒げる事のない陸が、振り絞ってそう言った。男は胡散臭い顔でにんまりしたままで、わざとらしく首を傾げてみせた。

「そうだっけ?」

陸は、自分の中で何かがブチッと音を立てたのを感じた。恐怖と共に、腸の煮えくり返るような感情が全身を駆け巡る。純粋で堪えようのない怒りだ。その感情に身を任せて、陸は男に飛び掛った。

素早い動きで何度も苦無を振るう。しかし男はその攻撃を全て軽々と避けると、陸の後ろに回りこんで背中に蹴りを回し入れた。鍛えられているはずの陸の体は軽々と吹き飛んで、奥の部屋の扉を突き破る。元々簡易的に作られた家だ、強い衝撃を受けた扉は簡単に壊れてバラバラになり、陸はそこに力なく転がった。

男が陸を追うように視線を移すと、部屋の中には、黒い髪の女が居た。渓だ。

突然の騒音に目を覚ました渓は、すぐにでも部屋から飛び出そうとしていたのだが、傍についていた子供が必死にそれを止めていた。出ては駄目だと何度も訴える子供を振り切ろうとしたが、振り切る前に、扉は開いてしまった。血塗れの陸と共に。

その姿を見て、渓は血の気が引いた。無愛想で無口で口下手で、だけどいつだって自分を気遣ってくれる可愛い弟のような青年が、だらだらと血を流しながら、ぴくりとも動かずそこに倒れている。反射的に渓は駆け寄っていた。

「陸!!」

叫ぶように名を呼んで、陸の体に触れる。顔を見て、左目の痕にぞっとした。どうして、何故こんな事に、そんな事を思いながら振り返ると、背の高い猫背の男がにんまりとしながら立っていた。陸と同じ翡翠の耳飾りを右の耳からぶら下げて、男は渓の顔をまじまじと見つめながらゆっくり近付いてくる。

「渓様に近付くな!!」

傍に付いていた子供と女に庇われた子供が、二人掛かりで必死に男に襲い掛かるが、男の振り上げた拳が簡単に子供を吹き飛ばす。木の香りが漂う真新しかった部屋は、一瞬にして惨状に変わっていた。

あまりの恐怖に、渓は声が出ずに動けもしなかった。目の前で幼い子供が殴りつけられ動けなくなっているのに、体はちっとも動きはしない。そんな渓を見て男は言った。

「やっと会えたなァ、"姫様"」

背筋が凍る程の冷たい声に、渓は震えた。動けないでいる渓に男が腕を伸ばそうとした時、動いたのは女だった。傷む体に鞭を打ち、背後から男の首を締め上げる。そして張り裂けんばかりの声を上げた。

「渓様お逃げください!!早く!!」

そう言われたとて、渓は恐怖で竦んで動けない。女は更に男の首を締め上げて、必死に声を張り上げる。

「陸!!立て!!渓様を守れ!!守るんだ!!!」

その声に、ぴくりと陸の指が動いた。目を開いて、必死に体を起き上がらせる。左目は使い物にならないし、骨くらい折れているだろう。全身痛みでどうにかなりそうだった。

それでも、陸は渓の手を取った。そんな痛ましい陸の姿を見ていられなくて、渓は涙目で首を横に振る。もう頑張らなくていい、守らなくていいと言われている事は分かったが、そういうわけにはいかなかった。

何故なら、こんなことになったのは、すべて自分に責任があるからだ。

白子が言っていた「情に流されるな」という言葉が何を意味していたのか、今なら分かる。決して渓を諦めろと言っていたわけではない。こうして誰かに揺さぶられて、感情に任せて命令に背くなと、本当はそう伝えたかったのだ。結果、陸は他の風魔をつれてきてしまった。そして今この惨状を招いている。

だからこそ守らねばならなかった。命に変えてでも。例え死が恐ろしくとも。

「…ごめん、渓様」

陸は小さな声で呟くと、渓の体を抱き上げた。初めて抱えるその体は、小さくて柔らかい。守られるべき人なのだと改めて思い知らされる。

陸は渓を抱えたまま、女の横を通りすぎて一目散に外に飛び出した。こんな体で人を一人抱えて、冷たく足場の悪い夜の闇を駆け抜けるのは苦行に近い。荒れ果てた樹海が逃げ道を塞ぎ、絡まった木々が足をもつれさせて、余計に体力を奪っていく。脂汗が陸の額を流れた。

それでも足を止めるわけにはいかなかった。とにかく腕の中の人を守らねばならない。一刻も早く、長に、彼女を委ねなくては。

そう思って、陸は頭の片隅でぼんやり思う。
やはり自分では、この人を守りきれない。自分一人の力では、仲間を見捨てて逃げる事だけで精一杯だ。もしもこれが長だったらば、誰一人傷付けさせずに、裏切り者を拘束し、姫を簡単に守り抜けたに違いない。

あまりに自分が無力で、陸は唇を噛んだ。痛みを堪えて必死に夜の樹海を駆け抜ける。その速さに渓は顔も上げられず、時々よろけながら危なっかしく駆け回る陸の胸元を必死に掴むことしか出来ない。陸を掴む、その白い腕は震えていた。



ある程度の距離まで逃げて来た陸だが、出血が酷かったあまり、とうとう膝をついてその場に蹲ってしまった。息を荒くしながらも、陸は必死に正気を保つ。こんな真夜中の樹海の真ん中で、今意識を失ってしまったら、渓に何があるか分からない。風魔でなくとも、獣に食い殺されるかもしれない。それ程非力な存在なのだから。ぐらぐらとする頭で、陸は必死に息を整える。渓は陸の腕から滑り落ち、荒れ果てた地面の上にとさりと音を立てて落ちた。

姫をこんなところに座らせるなんてとんでもない。ぼんやりした頭でそう思いながら、陸は必死に正気を保つ。歪む視界で何とか渓の姿を捉えれば、渓はぼろぼろと大粒の涙を流して泣いていた。どこか怪我でもしたのか、怖がらせてしまったかと思うが、そうではなかった。渓は自分の着物が汚れるのも構わず、必死に陸の目元の血を押さえる。

「陸の馬鹿!どうして云う事聞いてくれないの…!」

渓の言葉を陸は理解出来なかった。そう言えば夢中になって駆け抜ける中、何度か腕の中の渓に何か言われたような気がするが、酷い貧血と痛みのあまり、ほとんど耳が聞こえていなかった。小さな耳鳴りが妙に鮮明に聞こえる。

「だからもういい、止まってって云ったのに…」

恐怖の中、陸に抱えられながら渓は何とか声を張り上げて何度もそう訴えたというのに、肝心の陸には届いていなかった。陸が持っていた苦無を無理矢理手に取った渓は、自分の着物を裂いて簡易的な巻木綿と布切れを作ると、止血用の布切れを目に押し当てて、ぐるぐると顔に包帯を巻きつけていく。その間、ずっと渓は泣いていた。陸はぼんやりとそれを眺めながら、自分の非力さを思い知るばかりだ。

「……ごめん、俺…」
「喋らないで横になって、きっともうすぐ白子が――」

言いかけた言葉は、突然ぶわっと吹いた風の音に掻き消された。


「見ぃーつけた」


風が吹いた場所を見れば、あの猫背の眼帯をした男が、にんまり顔で立っていた。翡翠の耳飾が揺れている。その顔に、先程までなかったはずの誰かの血がこびりついていて、渓は背筋が凍った。

まさか、あの場所にいたみんなを?

どくどくと鳴る心臓が煩い。その鼓動の音が世界の音を全て遮断しているかのようで、他の音は何も聞こえない。目の前の男がゆっくりと近付いて来て、足が竦んだ。

だが、固まっているわけにはいかない。渓は反射的に、深手を負っている陸の前に出て、両手を広げた。その顔は恐怖で満ちていて、さらに体はがたがたと震えている。そのくせ誰かを守ろうとしているのだから、その姿は男には随分滑稽に映った。

男は渓に近付くと、小さな彼女の顎を強引に掴んで自分の顔に近付けた。乱暴に扱われて、痛みで顔を歪める渓などお構いなしのようで、男はまじまじとその顔をなめ回すように眺めて感嘆の息を零す。

「可愛い顔だなァ、肌も髪も綺麗だ。そりゃ長だって、手元に置いておきたくなるよなァ……何の力も持たねぇのになァ」

低い声で、羨ましそうにそう呟いた男だったが、その次にはより強くギリギリと渓の顎を握りしめた。あまりの痛みに渓が思わず男の腕を振りほどこうとしたが、力で敵うはずがなかった。

「ちやほやされて大事にされて…俺はなァ、こんなに努力してるのに、ちゃぁんと命令も聞いてきたのに、幹部にもなれないんだぜェ?」

許せねぇよなァ、と溢しながら、男の瞳がみるみる怒りが満ちていく。痛みで苦しそうに渓の顔を見ながら、瞳の怒りはそのままに口元だけでにんまりと笑って見せた。

「腹立たしいよなァ、見せしめに此処でひんむいて、可愛いお姫様をめちゃくちゃに抱き殺して、飽きたところでずたぼろに刻んで晒したら、長はどんな顔するんだろうなァ」

恐ろしい言葉を並べる目の前の男に、渓の表情は恐怖で塗り潰されていく。男の放つ凶悪な憎悪を含んだ威圧感に、体の震えが止まらない。陸を逃がさなければと思うのに、体がうまく言うことを聞かなくてどうしようもない。

此処で殺されてしまうのか、渓がそう思ったとき、背後から土を踏む音がした。なんとか渓が視線をそちらにやれば、陸が男を睨み付けて立っている。しかしどうにか立ち上がっただけで、抗う力は残って居なかった。それでも陸は声をあげる。

「……離せ」
「あぁん?」
「その人を、離せ」

ゼーゼーと息を溢しながら、陸ははっきりとそう言った。その言葉を聞いた男は、ゲラゲラと声をあげて笑う。

「偉そうにものを云うようになったじゃぁねぇか陸。お前みたいな雑魚に何が出来るんだ」

男の言葉に、陸は必死に体を奮い立たせた。動かぬ足を動かして、男の首に苦無の刃を突き刺そうとする。

だが当然、満身創痍の陸の刃は届くことはなく、男の強烈な膝を鳩尾に食らって、血を吐きながらその場に崩れ落ちた。男は冷たい顔をして小刀を懐から取り出すと、その刃先を陸に向かって振り下ろした。


「―――やめて!!!!!!」


放たれた声は、悲鳴に近かった。ざわざわと風に揺られて音を立てていた木々も静まり返り、辺りに静寂が広がる。男の刃は陸に届くことはなく、その直前でぴたりと動きを止めていた。声をあげたのは渓だった。

「お願いもうやめて、陸に酷いことしないで…!私が目的なんでしょう?何でも云うこと聞くから…!」

ぼろぼろと涙を流しながら、必死に渓は男にすがる。その姿を見て、男は相変わらずの胡散臭い顔で笑った。小刀を仕舞うと、渓に顔を近付ける。

「話の分かるお姫様で助かるぜェ」

男はどこに隠し持っていたのか、縄で渓の腕を後ろ手に縛り上げると、その体を軽々肩に担ぎ上げた。乱雑に持ち上げられた渓は、そのまま男に連れていかれてしまう。

「待…て……」

血を吐きながら、それでも陸は立ち上がろうとする。だが、ぼろぼろの体はもうほとんど動かない。至極面倒そうに男は振り向くと、呆れたように吐き捨てた。

「てめぇはもう用済みなんだよ陸、大人しくおねんねしてな」
「その人に…手を…出すな……約束しただろ……!」
「煩ぇ餓鬼だなァ、いい加減殺すぞ」
「……頼む…その人を離してくれ……!」

地面にひれ伏したまま、懇願するように陸は声を上げた。もう体は動かない。それでも渓だけは、渡したくなかった。


「頼むよ兄さん!!」


哀願するように陸は叫んだ。聞いたこともないような陸の声にも驚いたが、何より渓は陸に兄弟がいたことなど聞いたことがなかった。驚いて男に視線をやるが、男は面倒そうに眉を寄せて言葉を吐いた。それは、弟に対して放つには、随分冷たい声だった。

「お前みたいな出来損ないを弟だと思った事なんて一度もねぇよ」

塵を見るような目で言ってから、男は踵を返す。その後何度呼び止められても、振り返ることはなかった。それでも陸は、必死で腕を伸ばして呼び止める。もうまともに目は見えていないし、立ち上がる力も残っていない。せめて声を上げ続ける事しか、もう陸に出来ることはなかった。

「―――陸」

ふと、渓の声が聞こえて陸は必死に担がれている渓を見る。霞んだ視界の中でも、渓の顔だけはなぜかはっきりと見えた。眉を下げて、泣き腫らした目で困ったように笑うその顔は、酷く儚く見えた。

「白子に…長にごめんねって、伝えといて」

自分のせいでこんな事になったのだという自覚が陸にはある。それなのに渓は、恨み言の一つも吐かないどころか、戦えもしないのに盾となって自分を守ろうとさえした。守られるはずの立場だというのに、風魔という駒を使って逃げる事も出来たというのに、渓は最初から手にしているその選択肢を選ばなかった。ただ大切だから守ろうとしてくれたのだ、陸達が渓を大切に思うのと同じように。

だんだん二人の姿が遠ざかって、意識が薄れていく。守れなかった。その後悔が胸の中をぐるぐると駆け巡る。

ごめんなさい、と囁いた声は血塗れの口から零れ落ちる事はなく、陸はそのまま眠るように意識を手放した。


back
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -