白く長い髪から、赤い滴がぽたぽたと滴っていた。森の木々の隙間から注ぐ月明かりに照らされたその姿は、背筋が凍るほどに恐ろしく、そして美しい。
一年程前、滋賀での抗争以来に浴びた血の雨だなぁ、と白子に似た顔の男は呑気に思う。昔を思い返せば、この程度の事は日常茶飯事だった。なんてことはない、いつも通りだ。ただぬるぬるとしていて不快なだけだ。

視線を落とせば、かつて家族であり同胞だったものがいくつも転がっている。それを見ても後悔や哀傷は溢れない。今この世界で何よりも大切な二人の顔が頭に浮かび、不安が募るばかりだ。何もなければいいが、何かあればどうしてくれよう。ただ穏やかに、幸せに、お互いを想いながらずっと傍で笑い合っていてほしいだけだ。その未来を奪う者は、誰であろうと許すわけにはいかない。

さて。

男は月を見上げる。すでに文は飛ばしてあるので今はまだ何もないだろうが、急いで帰らなければならなかった。あとどれくらいの裏切り者が里に潜んでいるのかは、さすがに把握しきれていないのだ。

やれやれ面倒なことだ。

そう思いながら男は深い溜め息を吐くと、視線を落として前を見た。目の前には、裏切り者の風魔達と政府の犬が構えている。もう散々殺してやったが、まだ二十ほど控えていた。どれもこれも怯えた顔で男を見ているが、退くつもりはないらしい。一年前に争った者同士が同盟を組んで、かつての同胞に刃をむけるなど、あまりにも馬鹿げていて笑えもしない。

男はすっと息を吸って、忍刀を構える。多勢に無勢など、男にとっては意味のない言葉だ。こんな処で死ぬ気など更々ない。生きて帰れと、そう言いつかっているのだから。


「―――押し通る」


凛として、それでいて低く冷めた声で、男は言った。邪魔する者は全員殺す、誰一人として、生きては帰さない。懇願されても生かしておくつもりは毛頭ない。優しさも情も残してやらない。残忍で残酷、それで構わないのだ。すべては風魔の長の為、そして男にとって生きる理由でもある二人の為。二人の幸せの為になら、何だってやれる。人だって殺す。

なぜなら男は、『そういう奴』だからだ。


三十六、陸


「渓様、お寒いでしょう。こちらをどうぞ」
「ありがとうございます」

白子の言った通り、夜の樹海はやけに冷え込んだ。まだ日付は跨いでいないくらいの時間だろう。渓は女の風魔から手渡された厚手の羽織を肩から掛けて寒さを和らげる。

渓にも分からない程の樹海の奥。そこは霧が深く、辺りも鬱蒼としていて明かりもないような場所だったが、風魔達によって開拓されていたようで、簡易的だが小屋が作られていた。小屋はたった一つしかなかったが、大人が十人も入れば身動きが取れなくなる程度の広さしかない。あくまでもそこを風魔達の拠点にして各々散り散りに活動をしているようだ。拠点に固まってしまうと、もしも敵に囲まれてしまったら四面楚歌、反って危険だからである。

しかし一番寒さを凌げて、かつ管理された場所はその小屋しかなかった為、渓はそこへ移された。隙間風は酷いが致し方ない。それに小屋とはいえ荒れた樹海の中だ、そう簡単に見つかるような場所ではない。詳しい話はまだ聞かされていないが、白子は風魔の幹部を率いて里の近くを偵察に行っているらしい。その為、渓の傍には里で仲良くなった女性の風魔が二人と、いつも一緒にいる子供達が付いていた。

「渓様、寒くない?」
「平気よ、ありがとう」
「また風邪ぶり返さないかな…」
「大丈夫、心配しないで」

子供達は渓を心配して傍を離れようとしない。何となく今朝よりも体はだるく寒気はしたが、残念ながらこんな状況で甘えられる程、渓の神経は図太くはない。少しでも寒くないように、と自分の近くに集まってくる子供達を安心させるように渓は笑いかける。

「渓様、長はじきに戻って参りますので、もう暫くご辛抱くださいませ」
「平気です、気にしないで下さい。それより他のみんなが無事だといいけど…」
「心配には及びません。我々は風魔一党、そう易々と死にはしません」

物騒な台詞を笑顔で吐かれてしまって、渓は苦笑した。状況も相まって、そんな事言わないで下さい、なんて言えやしない。仮に言ったところで、風魔一族の人々にはその想いはまだ届かないのだ。いくら少しずつ笑ってくれるようになったとはいえ、長く生きてきた環境の中で育った価値観は、簡単には変えられない。

渓は明かりのない小屋の隙間に視線をやった。小屋の中も外も漆黒が広がっていて尚更不安を煽る。自分がいまだに狙われているという事は分かっていたものの、いざその現実と直面してしまうとどうしても思考が暗くなった。ヒュウヒュウと鳴る隙間風の音が、そんな気持ちに拍車をかけてくる。とにかく頭を動かして、大丈夫だと自分に言い聞かせ、恐怖に震えだしそうな体を押さえ込むので精一杯だ。もし子供達や風魔の女性がいなければ、不安で泣き出しているかもしれない。

「―――失礼します」

小屋の外から声が聞こえて、渓は一瞬びくりと肩を跳ね上げたが、聞きなれた声にすぐに安堵する。小屋の入り口を見ると、鎖骨まである白髪をふわふわと靡かせた青年が入ってきた。長い前髪から紫の瞳がのぞいている。暗くて顔は見えなかったが、誰だかすぐに分かった。

「陸、何かあったの?」

渓がそう言うと、"りく"と呼ばれた青年は渓に近付いて膝を折った。左耳から下げられた翡翠の耳飾りが揺れる。

「さっき通達があった。小半時もすれば長が戻ってくる」

まだ幼さの残る、それでいて大人びた声で陸は言った。
陸は空丸と同じくらいの年齢で、背丈もそう変わらない。左の瞼に黒子があり、目は細く、鼻の高い青年だ。

渓の傍にくっついている子供達よりも年は上なので、長である白子と渓の家には一度も来た事がない。長と姫という二人の立場を他の子供達よりも理解しているようだ。

渓が陸と話すようになったのは、猪が里を出てからなのでごく最近のことだった。今まで陸は遠くから渓の事を見つめるばかりだったが、少しずつ渓から歩み寄っていった。初めのうちは警戒されていたようで避けられていたのだが、次第に心を開いてくれるようになって今に至る。

陸は無口であまり笑わない青年だったが、渓の話はよく聞いてくれた。人と話すのが得意ではないだけで、人の話を聞くのは嫌いではないらしい。渓の周りには比較的騒がしい人が多かったこともあり、初めのうちは距離があったが、今では砕けた言葉で話してくれるようになった。

それでも、他の子供達とは違って陸は渓と一線を引いていた。渓はいずれ風魔の長が娶ることになる蛇の信者の姫君だからか、それとも彼にとって何か思うところがあるからなのか。その理由を渓が知るはずもないが、陸の姿に少しだけ空丸を重ねた部分もある渓には、なんとなくそれが寂しかった。

「…具合悪そうだな」

零れるような声で陸が言った。忍である風魔は暗闇の中でも目が利く。渓は何となく暗闇に目が慣れた程度で周囲の人間の表情など分かりもしないが、彼らにはそれが見えていた。

確かに渓の体調は決して万全ではない。下がっていた熱も少しずつ上がって来ているように思う。緊迫した状況の中、冷え込む小屋の中では休もうにも休める状態ではなかったので仕方のないことだ。それでも余計な心配をかけるわけにはいかないので、渓は笑って大丈夫だと繰り返す。陸はそんな渓の様子に顔をしかめるばかりだ。何か掛ける言葉を探しているようにも見える。そんな陸に少し顔を近付けて、渓は優しく微笑んだ。

「こんな時に体調崩した私が悪いんだから気にしないで。心配してくれてありがとう」

近寄って陸の表情を確かめながら渓がそう言うと、陸は慌てて渓から距離をとってそっぽ向く。突然の陸の行動に渓はきょとんとするばかりだ。陸は少ししどろもどろとしながら、手の甲で口元を覆って小さな声で答えた。

「……別に、大丈夫なら、いいけど…」

陸は暗闇の中顔を真っ赤にしていたが、渓にはそれは見えていない。子供達がニヤニヤしているのを睨むように一瞥した陸は、黙れと目で訴えた。こんな情けない顔、せめて渓に見られていなくて良かったと心から思っていたことなど、渓は知るよしもない。まして肝心の渓はというと、突然距離を詰めて驚かせてしまって申し訳ないな、という程度の認識だ。

「…羽織れそうな物、探してくる」
「いいよ、今大変な状況なんだから、無闇に動くと危ないでしょ」
「そんなヘマしない」

少しムッとしたように言った陸は、口元を覆ったまま目も合わせず立ち上がり、渓の返事を待たずそそくさと去って行った。何か悪い気にさせたかな、と渓が不安に感じるのと裏腹に、子供達は妙にニタついて楽しそうだ。そういえば、女性達からも何やら微笑ましそうな空気が漂っている。あまり表情は見えないが、少なくともここにいる者は皆、そこまで現状を危機と捉えていないのだろう。この荒れた樹海の中では到底似合わない、穏やかな空気が流れていた。

「陸にーちゃんって素直じゃないよね、渓様」
「それってどういう…」

渓が言葉を言いかけたが、別の子供が割って入った。

「しっ!渓様には内緒だろ!」
「大丈夫だよ、渓様鈍感だもん」
「それでも内緒!」

やいのやいのと言い合う子供達に渓が困惑していると、とうとう女性二人が我慢出来ずにふふっと笑い声をもらした。声が聞こえて、渓は助けを求めるようにそちらに視線を送る。

「あの…これはどういうことでしょう…」
「気にしないでくださいな渓様、陸も多感な時期のようです」
「はぁ…」
「大人になるための苦い経験ですよ」

そう言って女性達は、綺麗な顔で意味深に笑って見せる。こんな状況下でもあえて声をもらして笑うのは、渓の不安を少しでも掻き消してやる為だろう。その思いは渓にも当然伝わっていて、いつの間にか恐怖や不安感か和らいでいた。


少しの間、小さな声で話しながら和やかに過ごしていたが、突然風魔達の表情が変わった。変わったかと思ったら、片膝をついて頭を下げていて、次に音もなく現れたのは白子だった。全てが本当に一瞬の出来事で、渓には一体何が起こったのか、白子が現れるまで理解出来なかった。それに戻るのは小半時と聞いていたのに、それよりも短い時間の間に戻ってきた。渓を案じて早く戻って来たのだろう。

白子の顔を見た途端、急速に渓の心は凪いで安堵が胸に広がる。白子が居るという安心感と、無事に帰って来てくれた事実で肩の力が抜けた。

「変わりないか」
「はい」

風魔小太郎の声で白子が言うと、女性の一人がそう答えた。白子はそれ以上何も言わず渓に近付くと、薄い紫色の綺麗な羽織を小さな肩にそっと被せる。とても軽いのに、ふかふかとしていて温かい。きっと上等な物なのだろう。白子は屈んで、渓の顔色を確認しながら額に手を当てて体温を確かめた。そして手のひらから伝わる渓の熱に、ほんの少しだけ眉を顰める。

「今朝より少し高いな。体調は?」
「大丈夫、平気よ」
「無理しなくて良い。寒いだろう」
「……少し」

"風魔小太郎"にしては随分優しい声に絆されて、渓は強がるのをやめて素直に答えた。白子が指先で渓の白い頬を優しく撫でると、安心したように渓は目を閉じて、その手のひらにすり寄る。お互いに生きている事を確かめるようにそうした後、白子は小さな体を軽々と横抱きにして立ち上がった。当の渓は急な事に驚いて、目を瞬かせるばかりだ。白子は小屋の外をに向かって足を進めながら、変わらず膝をつく風魔達に言った。

「東側に移動する。此処は潰しておけ」
「御意」

女性と子供の風魔達は頭を下げたままで返答した。『東側に新しい拠点を作ったので、この小屋は証拠隠滅のために念の為潰してから移動して来い』と言われたわけだが、それを白子の短い言葉だけで理解するのだから恐れ入る。

小屋の外に出た白子は、すぐに右に顔を向けた。渓もつられてそちらに視線をやるが、そこには荒れた樹海が張り巡らせる暗闇が広がるばかりだ。小屋の中では聞こえていた隙間風の音も聞こえなくて妙に不気味だが、白子はいつも通りの調子で言った。

「お前も此方を手伝ってから来い、陸」
「え?」

驚いて声を上げた渓は、一度白子を見てから、もう一度視線を白子と同じ方へ向ける。するとどうだろう、先程まで誰もいなかったというのに、すでにそこには陸が膝をついていた。風魔達は揃いも揃って神出鬼没だ。しばらく里で穏やかに過ごしていたこともあり、あまり強く彼らが風魔だと意識していなかった渓だが、こういう状況になると嫌でも彼らが風魔であるという事を思い知らされる。

「…御意」

陸は膝をついたままそう答えた。それを聞いてから、ようやく白子は渓に視線を寄越す。風魔小太郎の顔をしているのに、とびきり優しい目で真っ直ぐに渓を見つめているものだから、渓は吸い込まれるように自分を写す紫の瞳を見つめ返して、動けなくなった。

「しっかり掴まっていろ」
「…はい」

白子の言葉に渓は素直に頷くと、抱きつくようにして白子の首に腕を回した。白子もまた渓をしっかりその腕に抱いて、ぐっと力強く地を蹴り上げて、あっという間に渓を連れて去ってしまった。

そんな二人を見送って、ようやく陸は立ち上がる。二人が去った方をしばらくじっと見つめてから、手に持っていた薄手の膝掛けをぎゅっと握り締めた。目を閉じて大きく息を吸ってから、肺に溜め込んだ息を一気に吐き出して気持ちを落ち着ける。

分かっていたことだ、初めから。
初めて出会ったときにはもうすでに、あの人は違う人のものだった。それだけだ。

陸は自分の心に言い聞かせた。最初から叶わないことは百も承知だ。どうにかして奪いたいわけでも、ましてや二人の仲を切り裂きたいわけでもない。付け入る隙など微塵もないほどお互いの事しか想い合っていない二人なのだから、それをどうこう出来るはずもない。

ふと、真っ直ぐに白子を見つめ返した渓の表情を思い出して、陸は忘れるように首を振る。自分にはあんな顔をさせることなど、出来ないのだ、絶対に。二人が多くの気持ちを積み重ねて手に入れた時間以上のものなど、この世界にはきっとない。

こっそり里に戻って持って来た膝掛けが、惨めな気持ちを燻らせる。蛇の信者のお姫様に、こんな安っぽいものを差し出そうとしていたと思うと情けなくなった。妙に空しい気持ちになりながら、一刻も早くこんな感情は捨てようと思うのに、それでも不意に浮かぶのは、柔らかな黒髪を靡かせながら笑う女の姿だった。

「…陸にーちゃん」

小屋の中から子供達がひょっこり顔を覗かせている。先程までからかう様にニヤついていたくせに、今度は心配そうに陸を見ているのだから尚更いたたまれない気持ちになりながら、陸はそちらに視線をやって軽く息を吐いた。

「…さっさと済ませるぞ」
「…はぁい」

今この瞬間、一人じゃなくて良かった、と陸は思いながら、手を動かして気持ちをどうにか誤魔化すのだった。

翡翠の耳飾りが、夜の闇の中、寂しげに揺れた。


 ● ●


東の拠点には、先程の小屋よりも立派な家が建てられていた。いつからあるのか、いつのまに出来たのか渓には分からなかったが、まだ作りたてのようで随分新しい。鼻をくすぐる木の香りが妙に気持ちを安心させた。

白子はそこに足を踏み入れる。決して大きくはない簡易的な作りの家だが、ろうそくで明かりも灯されていて隙間風も吹いてこない。部屋は二つあり、きちんと仕切りもあった。

渓を抱えたまま、白子は奥の部屋に向かった。部屋の中には柔らかな布団が用意されており、その上に優しく渓を下ろすと、傍らに置いてあった薬を差し出した。

「風邪薬だ、解熱効果もある。飲んで横になってて」
「ありがとう白子」

竹筒に入れられた薬を受け取って、渓はそれを飲み下す。白湯に混ぜられた薬はやけに甘い。決して美味しくはないが、飲めないほどのものではなかった。

「お腹空いてるだろ。ごめんな、まだ準備出来そうになくて」
「ううん、平気。こんなにたくさん良くしてくれてるんだから、そんなことまで気にしないで」

白子が疲れちゃう、と申し訳なさそうに渓が眉を下げる。風邪で弱っているせいもあるのだろうが、その顔が迷子の子犬のように見えて、白子は思わず笑った。

「風邪のときこそしっかり食べないといけないだろ」
「でも…」
「どっちにしろ、俺達だって食べないと生きていけないんだから。渓はとにかくしっかり治すこと。分かった?」

優しく言い聞かせれば、渓は素直に頷いた。そんなの唇に白子はそっと口付ける。当然渓は驚いて目を丸くした。唇が離れてから少しして、ぽっと顔を赤らめてあたふたとする。

「か、風邪うつる…!」
「残念、そんなに柔じゃないよ」
「で、でも…!」

言いかけた渓の唇を、白子は再び塞いだ。小さな体を抱き締めて、噛みつくように何度もその行為を繰り返してから唇を離せば、頬を赤らめてとろんとした潤んだ瞳で自分を見上げる渓の姿がある。肩で息をするそんな姿は、自分しか知らないものだ。その事実が白子の欲を満たして行く。

渓の黒い前髪をかきあげた白子は、薄くなった傷に優しく唇を落とした。逞しい腕に抱き締められたまま、渓はなされるがまま身を任せている。

「……うつっても知らないからね」

赤い顔をしたまま、拗ねたようにそう言って唇を尖らせる可愛い姿に、白子はくすくすと笑った後、意地悪く微笑んだ。

「渓が風邪ひいてから随分お預けくらってるんだ、仕方ないだろ」

白子の言葉に、渓はさらに顔を赤くする。いつまでたってもこの色気に敵う気はしなかった。

「それに本当に俺が風邪なんてひいたら、真っ先に看病してくれるくせに」
「…当たり前でしょ」

熟れた林檎のような真っ赤な顔をふいと背けて、渓は答えた。いじめすぎたかな、と思い、白子は苦笑を溢してからようやく渓を離す。持て余してしまった手のひらで、黒く長い、絹のような美しい髪を手櫛で整えながら遊ばせていると、渓はようやく顔の熱が落ち着いたようで白子の方を向いた。少しの沈黙の後、その行為を続けたままの白子が口を開く。

「里の場所はまだ知られてないが、念の為しばらくは里に戻らないことになった。裏切り者が潜んでるからな、どうなるか分からない」
「裏切り者…」
「政府と繋がっているらしい。渓の情報もそこから漏れている可能性がある。拠点は留めてしまうと攻め込まれる可能性があるから、転々とすることになるけどしばらく我慢してくれ」
「…私は此処に居てもいいの?」
「当たり前だろ、居ないと困るんだよ、俺が」

眉を下げて、白子は笑った。滑らかな髪がするすると無骨な指の間をすり抜けて、はらりと音もなく滑り落ちる。この髪のように、自分の元から渓が居なくなるなど、白子にはもはや耐えられない。再び手に入れてしまったあの日から、二度と手放せなくなってしまった温もりなのだ。今さら誰かにくれてやるつもりもない。例えそれが、国を敵を回すことになってもだ。

一年前、一度は大蛇と共に国に抗った一族である。大蛇がいなくなっても、いなくなる前も、風魔はずっと戦いの中で生きてきた。命は所詮消費されるものだ、いつでも簡単に投げ捨てられる。それが渓の為だというなら尚の事であるが、渓が悲しむから死ぬわけにはいかない。

なんとも矛盾にまみれた感情だと白子は思う。それでも、この気持ちは今さらどうにも出来はしないのだ。きっと、同じ気持ちを抱えた者は、里の中にもちゃんと居る。皆揃いも揃って、力を失ってしまったこのか弱い娘が大好きでたまらないのだろう。

「…私も」
「ん?」
「私も、此処に居たい。此処に居てもいいよって云ってくれるなら、せめて足を引っ張らないようにするから、白子と、みんなと一緒に居たい」

真っ直ぐに紫の瞳を見つめながら渓が言った。此処に来たばかりの頃、不安に押し潰されそうになりながら過ごしていたあの時とは大違いだ。日に日に逞しく強くなっていくからこそ、渓への愛しさがさらに募っていく。だからこそ、白子は守らずにはいられない。

「渓が居なくなったら子供達が泣くんじゃないかな」
「…白子は?泣いてくれる?」
「泣かないよ、渓が心配するから。でも耐えられないから、居なくならないように傍に置いておく」
「私は泣いちゃうと思う。居なくなんてならないけど」

そんな事を言い合って、二人で小さく笑い合う。白子との心休まる時間の中で、渓の心もいつの間にか穏やかになっていた。不安が綺麗さっぱりなくなったわけではないが、確かな安心感に包まれているのは、他でもなく白子の温もりに触れたからだろう。

「…そろそろ行かないと」

白子は小さく言ってから、もう一度渓に口付けた。渓は目を閉じて、それを受け入れる。長い時間、そうしていた。

唇を離して、名残惜しそうに白子は渓を見つめる。渓も同じ気持ちだったが、わがままは言っていられない。

「猪が居ないから俺はもう一日だけ此処を離れるが、いつもの面々を連れて来ておくから安心して」
「分かった、気を付けてね」
「もうじき猪が戻ってくる。それまで何があっても、決して此処から出ないように」
「はい」
「また後で」
「…無事で居てね」

まるで願うようにそう呟いた渓の瞼に唇を落とすと、白子は立ち上がって部屋を出た。渓はしばらく白子の去った後を見つめたまま彼の無事を祈っていたのだが、薬の効果だろうか、だんだん頭がふわふわとして、瞼が重くなってきてしまったので大人しくそれに従う。まずはきっちり体を治すこと、そうしなければ、みんなの足を引っ張ってしまうのだから。そう言い聞かせて、渓は深い眠りに落ちて行った。


白子が外に出ると、陸と子供達、そして女の風魔が二人膝をついていた。風魔小太郎はそちらに視線を寄越して、冷たい声で言った。

「この場所はお前達と幹部の者しか知らない。決してこの場所を明かすな。じきに猪が戻る、あれの指示を待て」
「御意」
「もし万が一、姫の力が目覚めるような事があれば早急に文を飛ばせ」

あれ以来、渓の目は漆黒のままだ。金色の目はその後一度も現れていないし、渓も特に変わった事はないと言っていた。だがいつ何があるかは分からない。

今回の風邪も、もしかするとただの風邪ではないのかもしれないと白子は懸念していた。本当に体調を崩していたのでただの風邪だろうとは思うのだが、視力を取り戻す大蛇実験の後、一度でも目は金色になり力を発揮したことは事実だ。渓の精神が追い詰められてしまえば、いつ何がきっかけで力が目覚めるか分からない。渓の中に眠る姫が再び現れれば、その先の事は誰にも予想出来ないのだ。それだけは避けなければならなかった。

「陸」

突然名を呼ばれ、僅かに陸は肩を震わせた。

「…はい」
「決して情に流されるな、いいな」

それが何を意味しているのか、陸には分からなかった。蛇の姫君を想ってしまったことを言われているのだろうか、諦めろと、そう言われている気がした。少なくとも、陸にはそうとしか思えなかった。

「…御意」

そうとしか言えず、陸はそう答えた。白子は少しだけ目を細めて、案じるような顔をして陸を見たが、顔を伏せている彼らにその表情は分からなかった。

白子は地面を蹴り上げて高く飛ぶと、すぐにその場から姿を消して夜の空に溶けた。それを見送って、皆それぞれ周囲の警戒態勢を取る。一人の女の風魔が口を開いた。髪の長い女だ。

「私は此処に残ろう。貴方達のうち二人は残って」

子供達に向かってそう言うと、五人の子供達は皆一斉に腕を高らかに挙げる。誰一人として姫様からは離れたくないらしい。仕方ないので、女は適当に二人を指定した。当然選ばれなかった子供は不満そうな顔をする。もう一人の女がやれやれといったように肩を竦める。こちらは髪の短い女だ。

「周囲の警戒をしっかりして安全を確保しておかないと、渓様はまた辛い体を引きずって場所を変えなければならないのに。その人数が減るのは困るわねぇ」

素直な子供達は、その言葉を聞いて張り切って各々周囲へ散って行く。単純なものだな、と髪の短い女は眉を下げた。そして大人である女二人は顔を合わせる。

「何かあれば文を飛ばしてくれ」
「分かったわ」
「…陸」

髪の長い女が陸を見る。そして、きっぱりと言った。

「お前も周囲の警戒だ、何かあれば文を飛ばせ」
「…はい」

そう言われた陸は、翡翠の耳飾を揺らしてすぐに居なくなった。陸の気配が完全に消えた後、髪の短い女が溜め息をつく。

「…叶わぬ恋ねぇ」
「仕方ないさ、今傍にいても余計に気持ちが膨らんで辛いだけだろ」
「そうねぇ、可哀想だけど、陸にはこれを乗り越えて大人になって欲しいわ」

髪の短い女はぐっと伸びをした。

「それじゃ、渓様をよろしくね」
「そっちこそ、無事を祈る」

夜風が吹いて、短い髪の女はふわりと消えた。残された長い髪の女は、月を見上げて息を吐く。今日の月は、嫌な感じがした。


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