閃光のようにその光景は駆け抜けた。
鬱蒼とした木々に囲まれた薄暗い崖から、子供が足を滑らせたのだ。それは幻覚というにはあまりにも鮮明で、夢と呼ぶには生々しい。

きっと誰にも馴染みないはずの感覚を、渓はよく知っていた。何故今になってその感覚が目覚めたのかは分からなかったが、そんなことを考えている場合ではない。両手を胸の前で強く握り、不安げに猪が消えていった樹海の先をじっと見つめながら、渓は言われた通りにその場から動く事無く猪の帰りを待った。子供を無事に連れて、此処へ帰って来てくれることを強く願いながら。

遠くで彼女が、呆れたように小さく笑ったことも気付かずに。


二十五、樹海の中で


猪は難しい顔で風魔の子供達に囲まれていた。五人の子供達は少し怯えたように猪に向かって跪いている。

猪が樹海の奥にある崖に辿り着いた時、そこには焦った様子で崖を見下ろす子供が四人いた。猪に気付いた子供達は余計に慌てた様子で、混乱の中猪に頭を下げるべきかこの現状を伝えるべきか悩んでいた様子だったが、猪はそんな子供達には目もくれず、真っ先に子供達と同じように崖の下を覗き込んだ。

そこには苦無を崖の壁面に突き刺して、ギリギリのところで落ちるのを防いでいる風魔の少年が今にも泣きそうな顔をして怯えていたのだ。きっと足を滑らせて崖から落ちてしまい、咄嗟に持っていた苦無突き立てて落ちるのを免れたのだろうが、そこからどうすればいいのか分からなくなっていたのだろう。場所は断崖絶壁。子供が助けに降りるには少し深く、ほんの少しでも間違えれば落ちかけている方も助け出そうとした方も命を落としかねない状態で、どちらも下手に手を出せずにいたのであろうことは見て取れた。

猪は迷わず万力鎖を取り出すと、苦無にぶら下がっている少年の手首に見事にそれを巻きつけた。まだ未熟な子供達では、上手くいかなければ少年を攻撃して結局崖から落としてしまうことになっていたかもしれない。猪ほどの手練だからこそ出来た事だった。

「掴まれ」

凛とした声で猪に言われた少年は、苦無から手を離すと必死に手首の鎖にしがみ付いた。猪は片手で軽々と鎖を引き上げて少年を抱えると、そっと地面に下ろして鎖を外してやった。少年の足は僅かに震えていたが、自力で立てないほどではないであろうと察した猪は、ゆっくりとまだ幼い体から手を離す。そして冒頭の状態に至るのだった。

軽やかに万力鎖を収めた猪は、跪いて頭を下げる風魔の子供達をぐるりと見渡す。まだ儀式も行っていない黒髪の少年達に向かって、猪は低く静かな声を発した。

「こんな処で何をしていた?」

猪の問いに、少年達は答えない。気付かれない程度に小さく息を吐いた猪は続ける。

「まだ風魔の儀式を終えていない未熟なお前達は、この樹海の奥に来ることは禁じられていたはずだ。それは知っていたな?」
「…はい」

五人のうちの一人が、一呼吸おいてから小さく答えた。その答えを聞いて、猪は間髪入れずに次の言葉を放つ。

「ならば何故お前達のような未熟者が此処にいる。答えろ」
「それは…」

返事をした少年が言い淀んでいると、崖から落ちかけた子供が猪を見上げて口を開いた。

「早く、一人前の風魔になりたくて」

命の危機に晒され怯えていた少年だったが、そう言って猪を見上げた瞳は突き抜けるほど真っ直ぐで純粋だった。その目から、本当に早く一人前の風魔として認められたかったのだろうという志は伺える。大方この危険な樹海の奥で鍛錬していれば、少しでも早く風魔になれるとでも思ったのだろう。猪は全てを察したが、あえてそれは示さない事にした。今ここで察してやったところで、きちんと自分達の口から思いを吐き出させないと彼らの為にならないと悟ったからだ。

「早く一人前の風魔になりたい?それがどうして此処に来る事に繋がる?」
「より厳しい場所で鍛錬を重ねれば、早く強くなれると思ったからです」
「それがルールを破ることになってもか?」
「それは…もちろん、悪い事だとは分かってました」
「ならば何故決められたルールを破り、そんなに急いてまで強くなりたい?」
「もちろん、再び風魔の時代を取り戻す為に」

猪を見上げて真っ直ぐに見つめる瞳は、風魔を語るにはあまりにも無垢で、純粋で、眩しい。猪は少しだけ懐かしい気持ちになりながら、汚れを知らない時代を振り返る。風魔として伸し上がれば伸し上がる程、地位を築けば築いていく程、純粋ではいられなくなっていった。いや、純粋でなどいられないのだ。

風魔は無忍。人にも金にもつかない気まぐれな影。そして、一族の為ならどんな手段でも使う、残忍な影。

思い返せば、特殊な家系の出であり、長の側近として上の立場で居続けた猪には、美しく繕えるような純粋な過去など残念ながら持ち合わせていなかった。いつの間にか至極簡単な事の様に人を殺め、物心ついた頃には平気な顔で罪を重ね、そうして月日を積み上げて此処に平然と生きているのだから。

痛みを知り、裏切りを覚え、真っ直ぐさだけでは生きていけない事を思い知りながら月日を重ね、そうしていつしか、人はあの頃の純粋さを弱さだと認識する。真っ直ぐに思うことが、どれ程の苦痛を伴う事か、どれほど寂しく無駄なことであるか、それを知ってしまうから、一つずつ自分の傷を覚える度に純粋な気持ちを塗りつぶす。

そうして必ず出来上がってしまう"大人"だからこそ、真っ直ぐで純粋で穢れを知らない強い思いにはどうも弱い。

ふっと表情を綻ばせた猪は、やれやれといったように肩を竦める。そして堅苦しい言い方をやめ、重い空気を飲み込むようないつもの飄々とした口調で言った。

「なるほどな、お前達の云い分はよーく分かった。でもな、お前らはどうも勘違いをしてる」

猪が明るい声で言うと、下を向いていた子供達も顔を上げ、不思議そうに首を傾けた。

「早く一人前になりたい、強くなりたい、大いに結構。だけどな、だからといって自分の力量に合わない場所で頑張ったところで、それは無意味な努力だ。例えば体が資本だからしっかり飯を食わないといけないといったって、茶碗に山盛りの米を十杯も食えないだろ?自分の体に合った量を食べないと、逆に体を壊しちまう。それと同じだよ。まずは自分の力量に見合った事を完璧にやってのけれるようになる。急いて強くなりたいからといっていきなり自分の力量に合わない事をしたって、経験も理解も追いつかないから結局何も出来ない。今回だって、お前達にもっと注意力や風魔としての力があればこんな事にはならなかった。ましてやルールを破ってまでやった結果がこれだ。俺が来なかったら、もしかしたら死んでたぞ。つまり、ここで鍛錬が出来るだけの実力がなかったって事だろ。違うか?」

言い聞かせるように言えば、子供達は納得したようで落ち込んだように下を向く。猪はそんな子供達の頭を一人ずつ軽くはたくと、カラッとした顔で笑ってみせた。

「ほら顔上げろ、これで勘弁しといてやるから、もう二度とこんな危ない事すんなよ。あと下手な近道で強くなろうとするな。こつこつ頑張るのが一番の近道だ。それと、とことん厳しい状況についてこれる根性があるなら、ちゃんとお前らに見合った稽古つけてやるから遠慮なく俺の所に来い。分かったな?」

猪にそう言われた子供達は、はたかれた頭をそれぞれに押さえながら、素直に頷いて謝罪と感謝の言葉を述べた。その言葉を聞いた猪は、ふいに何かを思いついたようで、少し意味深に笑って答えた。

「感謝するなら、俺じゃなくてお前達の事を見つけてくれた人にするんだな」
「?」

子供達が不思議そうな顔をするのを見ながら、猪は笑って子供達を先導しながら、一人で不安げに待っているであろう渓の元へと急いだ。


 ● ●


どれくらいそうしていただろう。
落ち着かない様子で祈るように両手を握り締めながら、不安げな眼差しを樹海の奥へと渓は向けていた。きっとそんなに時間は過ぎていないのだろうが、もうずっと長い間ここにいるような気がしてならない。崖から落ちた子供は大丈夫だろうか、助けに行った猪は怪我などしていないだろうか、ちゃんと無事に帰って来れるのだろうか。

考えれば考えるほど、ぐるぐると頭の中で不安ばかりが巡る。ただ祈る事しか出来ない自分が非力でならない。

そう思った矢先、恐ろしいほど静かな樹海がざわめいた様な気がして、渓はハッとしてあたりを見渡す。するとどこからともなくふわりと優しい風が吹いて、まるで綿毛のように柔らかに揺れる長い白髪が目の前に降り立った。それが猪である事はすぐに分かった。渓は慌てて猪に駆け寄る。青白い顔で駆け寄ってくる渓を見て、猪はふわりと綺麗な顔で優しく笑った。

「戻ったよ渓様」
「猪さん!子供は…!」
「安心しな、ほら、もう来るよ」

そう言って猪が振り返ると、五人の子供がわらわらとどこからともなく現れた。みんなそれぞれぜえぜえと息を切らしている。

「い、猪様…速すぎ…」
「この程度の速さにも着いて来れない奴が一人前の風魔になれるわけないだろ?修行だ修行」

楽しげに答えた猪は、渓の両肩をぽんと叩いて、ずいっと子供達の前に押しやった。きょとんとする渓などお構いなして猪は続ける。

「で、そんな事よりお前ら姫様に云う事あるんじゃないのか?」

言われて子供達はハッとしたように渓の前に跪くと、深々と頭を下げて、重々しく口を開いた。

「姫様、この度は未熟な我々を見つけて下さり…」

幼い子供からはまず聞くことのないような丁寧な言葉がつらつらと並べられる。渓は何事かと目を丸くしてしばらく子供達の様子を見守っていたが、彼らの言葉を聞きいれるうちにようやく合点がいった。戻ってくる際、猪が彼らに見つけたのは渓自身だと話をしたのだろう。助けたのは猪だが、渓が見つけなければ猪も気付けはしなかった。

しかし、そんな事は渓にとってはどうでもいいことだった。子供達が頭を下げたまま謝罪と感謝の言葉を一語一句選びながら吐き出していると、渓はふわりと長い髪を靡かせて彼らの前に膝をついた。

「ねえ、顔を上げて欲しいな」

優しく、それでいて凛とした声で子供達の言葉を渓は遮った。子供達も驚いて顔を上げる。まさか、風魔の長が連れて来た蛇の信者の姫君が、自分達のような半人前の忍に対してわざわざ目線を合わせるなど思ってもいなかったのだ。驚きと困惑の表情で渓の顔を見つめる五人の子供達の顔を見渡した渓は、柔らかい笑顔を見せる。

「良かった、みんな無事で。怪我はない?」
「え…」

なんと答えればいいのか分からない子供達は、お互いの顔を見合わせた後、声には出さずにこくりと頷いた。渓はふうっと息を吐く。

「それならいいの、本当に良かった。もし後からどこか痛むところがあればすぐにお医者さんに…あ、でも里にお医者さんっているのかな…」

急に難しい顔で真剣に悩みだした渓を、子供達は呆然としながら見つめる事しか出来なかった。

無理もない。何故なら彼らにとって渓は、『風魔の長がいずれ娶る蛇の信者のお姫様』だった。半人前の忍である彼らにとっては、長よりも上の立場に君臨するであろう蛇の信者の姫君など、気高く手の届かない何よりも絶対的な大蛇の眷属であり、一生のうちに一度お目通りする機会があるかないかという印象だったのだ。

それがどうだろう、その姫君は、あろうことか今にも触れられそうな距離で膝をつき、同じ目線で未熟な自分達の身を心から案じている。姫のお手を煩わせたのだからと、彼らはお咎めを食らう覚悟でここへやってきたというのに、お咎めどころか後々の怪我の心配までされている状況を、どうしても上手く理解出来ない。

跪いたまま疑問と困惑でお互いの顔を見合わせあう子供達と、一人で難しい顔で勝手に医者の心配を始める蛇の信者の姫君。そしてその状況をぐるりと取り囲む不気味な樹海。第三者が冷静な目線で見れば、これほどちぐはぐで意味の分からない光景はそうそうあるものではない。しばらくその状況を眺めていた猪は、とうとう堪えきれずに盛大に笑い出した。子供達と渓が同じ様にきょとんとした顔で猪を見上げる。それが尚更猪を愉快な気持ちにさせた。

「猪さん?私何か変なことしました?」
「いやあ悪い悪い、そんなことないよ。ただあまりにもこの状況が可愛らしかっただけ」

渓も子供達も不思議そうに首を傾げる。何だか暖かい気持ちになりながら、猪はくすくすと笑った。ほっこりする、というのはこういう気持ちを意味するのだろう、と妙に納得しながら猪は口を開く。

「医者なんて大層なもんはいないけど、里の中で医学に秀でた者や薬師がその役割を担ってる。腕はいいからその辺は心配いらない」
「なるほど、なら安心ですね」
「機会があれば紹介するよ」
「はい、よろしくお願いします」

渓はふわりと微笑んでから、再び子供達に向き直る。

「みんな、今日は鍛錬をしていたの?」

突然問いかけられて子供達は面食らって少し黙り込んでしまったが、慌てて頭を下げながら、畏まった口調で答えた。

「はい。その為に樹海の奥まで足を踏み入れて姫様の手を煩わせてしまい…」
「あ、ううん、そんなこと気にしなくていいの。謝らないで、顔を上げて」

そう言われ、子供達は恐る恐る顔を上げる。渓は微笑んだままで問いかけた。

「じゃあ今日はもう鍛錬はおしまいなのかな」
「えっと…その予定です」

顔を上げているせいか、子供達はどぎまぎした様子で目を泳がせながら答えた。その返答を聞いて、渓がおずおずと口を開く。

「じゃあ、もし良ければ、あの、本当に良ければなんだけど、みんなさえ良ければうちに来ない?」
「え!?」

子供達は一斉に声を上げて渓を見る。渓もそこまで驚かれる事だとは思っていなかったようで、慌てて手を振った。

「もちろん無理にとは云わないよ!みんな今から予定とかあるだろうし…ただ、よければ私に里の事とか教えて欲しいなって思って。私まだ里の事何も知らないから、いろんな人からいろんな話を聞きたいの」

渓の言葉からは、変な下心も怪しい様子も感じられない。本当に心から里への理解を深めようとしているらしい。困惑を隠せない子供達を見て、渓は寂しそうに一瞬眉を下げてから、努めて明るく笑ってみせた。

「ごめんね、怖い思いした後なのに、私呑気すぎるね。話したいなと思った時に話してくれればいいから、気にしないで」

続けて里に戻ろうと言って渓は立ち上がる。猪と共に里に向かおうとする渓を見て子供達はどうしていいか分からずしばらくその場に跪いていたのだが、
一人の少年がすくっと思い切ったように声を上げた。崖から落ちそうになっていた、あの少年だ。

「あ、あの!」

緊張のせいか、少し声が裏返った。渓は少年を振り返ってふんわりと微笑みながら小首を傾げた。

「お、おれ、行きます!姫様からの誘いを、無碍になんて出来ないから!」

それは彼にとっては、ある意味究極の決断だったのだろう。偉大なる蛇の信者の姫君と、風魔の長の屋敷に上がりこもうというのだから。渓は少し驚いたように目を丸くしてから、すぐにぱっと嬉しそうに笑った。まるで萎れた花が一気に咲き誇ったかのような愛らしい笑顔に、子供達も目を奪われる。

「本当?嬉しい!」

跳ねるように少年の手を取って、渓は深く澄んだ漆黒の瞳をきらきらと輝かせた。底のない黒い瞳は少年の視線を簡単に吸い込んでしまう。渓は尻尾を振る子犬のように猪を振り返ると、弾んだ声で尋ねた。

「ねえ猪さん、いいですよね」
「それ、今更聞く?駄目って云ったらどうするんだ」
「そのときは私が里に下ります」
「だと思った。ま、長にバレなきゃいいんじゃない?俺の家じゃないし」
「ありがとう猪さん!」

渓が嬉しそうにそう言ったのを見て、猪はやれやれと肩を竦めて他の子供達に視線を寄越した。

「で、お前らはどうするんだ?姫様はこんなにお喜びだけど」

他の子供たちも少し悩んだ様子を見せたが、渓があんまり嬉しそうに笑ったとこを見たものだから、引くに引けなくなったのだろう。結局他の子供達も次々に自分も行くと宣言しだし、全員が渓と共に行くことになった。渓は子供達に囲まれながら笑うと、軽い足取りで屋敷へと向かう。そんな渓達の少し後ろから、猪は見守るようにしてゆっくりと後を追いかけた。


―――さて、姫様の人たらし、お手並み拝見といこうか。


猪は心の中で一人そう呟きながら、愛らしい渓の笑顔に幼い記憶の中で笑う少女を重ねていた。


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