僕の心を掬い上げてよ




 道の脇に車を停めて七海さんを待っていれば彼は建物の裏側から姿を現した。今日も定時で任務が終わったようだ。最近は悟くんの補助ばかりさせられていたが久しぶりに七海さんの補助を行うことになった。無駄な寄り道が多い悟くんとは違って彼との任務は非常に楽だし、危なっかしい術師とは比べ物にならないほど信頼できる。

「正直意外でしたね」
「何がですか?」
「失礼に値するかもしれませんが、貴方は結婚には興味ないと思っていました」
「間違ってないですよ」

 実際結婚というものがよく分かっていない。一緒にいれば同じじゃないのかと思う、今は結婚という形にとらわれず同棲だけしているカップルだって多い時代なのだ。妊娠していなければ彼と結婚することはなかったのだろうか、先の事はよくわからない。そもそも自分が結婚や妊娠、子供を育むような人間であっていいのかさえ思う。私は今まで数え切れないほど人を殺して、貪って、自分の欲に忠実に生きてきた。考えれば考えるほど底の見えない沼に落ちていくような恐怖を感じる時がある。

「多分、余計なことを考えたくないんです」
「余計なこと?」
「結婚すれば、私という歪んだ人間を正しい位置に戻せる気でいる、真っ当な人間の生き方をできると思ってるんですよ」

 こんな容易なものじゃない。生きていれば何度も困難が訪れるだろうし、この世界で悟くんは常に危険な道を歩んでいる。彼との子を妊娠しても結婚という選択を選ばない手もあった。できたから、結婚するなんて流れに添わなくてもよかった。それでも彼との道を歩もうと思ったのは何故だろう。

 真っ暗で冷たい沼に落ちて、雑音で耳が腐り、欲望の渇きで溺れそうになった時、私を掬い上げてくれたのは悟くんだった。強引に腕を掴まれ引き上げられた先に見えた彼の目は信じられないくらいに澄んでいて美しかったのだ。夜が明けて太陽が顔を出し、暖かい光に照らされたいと思った。光の中にいたい、と強く願った。

『少し怖いよ、結婚するって』

 失うのはもう嫌だった。以前よりも自分が小さく、弱くなった気がして。ずっと一緒にいれる保証なんてどこにもないじゃないかと耳を塞ぎたくなる時もある。

『良い事だけ考えればいい。この誓いは僕の強さにもなるし、弱さにもなるけど悪いことなんて考えなければいいよ、何か起きたらその時考えればいい、何も怖くないよ』

 悟くんは笑った。何も怖くない、怖くないんだよと。

「だからよく分かってないんです、結婚の意味とか。こんな私には相応しくないと思うのは確かですけど」
「……いいんじゃないですか。結婚なんて人それぞれでしょう。少なくとも貴方と五条さんは結婚した方が良いのだと今思いました」
「え、今思ったんですか?なぜ?」

 どこにそう思わせる要素があったのだろうか気になったが七海さんは息を深く吐き出してどこかやり切れなさそうに顔を傾けた。

「貴方には五条さんが必要だし、五条さんには貴方が必要だ。それだけです」

 彼の言葉に少し目を丸くしたが、じんわりと胸が熱くなっていく。

「…七海さん、そんなこと言ってくれるんですね」
「言いたくありませんでした。でも私が入り込む隙はないみたいですから」
「え?七海さん、私のこと好きでした?」
「…この際だから言いますが、あの五条さんと結婚されたら流石に敵いません」

 冗談を言ったつもりがすごい言葉が返ってきた。「帰りましょう」と平然と車に乗り込んだ七海さんの姿を見つめながら落ち着かない気持ちで運転席に乗り込んだ。困惑というよりも、珍しいと驚いてしまう気持ちの方が大きかったのだ。帰りの車内で気まずくなる空気を彼自身が作り出すなんて。重苦しい車内の中でミラー越しに語りかけることにした。

「七海さん、私のどこが気に入ったんですか?」
「…それを聞くんですか」
「悟くんには内緒にしますよ」

 わざとらしく笑って見せれば非常に嫌そうな顔をされた。彼は窓の外を暫く眺めていたがふっと思い出したように小さな笑みを溢した。

「私が教えて欲しいぐらいです」
「えっ」



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