悲しみの欠片



 冷たい水で雑巾を洗う手が赤くなっている。胡蝶が綺麗だと言った手もすっかり変わり果てた。家事は水仕事が多いし、冬は余計に乾燥し、ひび割れて手の表面には痒みが生じ皮膚が破れて血が滲む。絞った雑巾で床を拭いていた時、台所から怒鳴り声と瓶が割れるような大きな音が聞こえた。後から危ない足取りで歩いてきた槇寿朗がナマエを憎たらしそうに見下ろした。「何を見ている」と酒臭い声で喉の奥を唸らせ、頬は赤く染まっている。昨夜出ていったきり帰ってこなかったから朝まで飲んでいたのだろう。「おかえりなさい」とナマエが言うと、槇寿朗は不快げに眉間の皺を一層濃くした。より顔を真っ赤にさせて震えた唇が開こうとしている。怒鳴られる、とナマエは覚悟を決めたが槇寿朗は舌打ちしてから横を通り過ぎていった。思えば槇寿朗はナマエに悪態は吐いても怒鳴り散らすと言うことはなかったのだ。自然に身構えてしまったのは杏寿朗や千寿朗に対する態度を常日頃目にしているからだ。最近の槇寿朗は酒を持ち歩くことも減ったし、子猫に餌やりだってする。しかし完全に断酒はできない、それは簡単なことではないと分かっている。それでもきっと槇寿朗は努力している、後悔とやりきれなさと悲しみを抱えながら生きようとしているのだ。ナマエはいっそ自分にも怒鳴ってくれたらいいのにと思う。体の奥から湧き上がった息を吐き出せば目線の先の台所から千寿朗が青ざめたような顔をしてこちらを見ていた。

「だ、大丈夫でしたかナマエさん…!」
「大丈夫だよ、それより千寿朗君、何かが割れたような音がしたけど怪我はない?」
「はい、空の酒瓶が割れただけなので…」

 台所の入り口に散らばった酒瓶の破片。勝手に割れたわけではないだろうに。千寿朗の喉が込み上げてくる涙を呑み込むかのようにごくりと動く。「千寿朗君、これは私が片付けるよ」と声をかけたが千寿朗は真っ赤にさせた目で「いえ、僕がやります」と平気な顔をして見せる。まだ幼い少年が、どれほどの痛みを抱えているのかと思うと胸の奥が苦しくなった。「じゃあ一緒に片付けようか」と二人で破片を拾い集めるが、その一つ一つの作業が千寿朗の心を搾り取っていくような痛みをもたらすのだろう。千寿朗の肩が、手が震えている。

「…あのね、私も家庭環境があまり良くなかったんだ。父は厳しい人でね、反対に母は優しかったけど地に足がついていないような人だった。両親はいつも喧嘩して、私と姉はその様子をハラハラしながら見てた」
「…ナマエさんにお姉さんがいるんですか?」
「うん。歳の離れた姉だったから、すぐに家を出ていっちゃったけどね。私の傍にいてくれたのは祖父だった」
「大変だったんですね…」
「千寿朗君の方が何倍も大変だし、すごく頑張ってる」
「…僕なんて、そんな。兄上の方がずっと苦労されているし、頑張っています」
「千寿朗君だってそうだよ」

 破片を持った千寿朗の肩に手を置いて、ナマエは杏寿朗にそっくりな目を覗き込んだ。杏寿朗のように肉体的な強さが彼にはないかもしれない、でも千寿朗には心の強さがある。こんな状況でも生きていこうとする意思がある。

「人より寂しい思いをした分、優しくなれるし、強くなれるって祖父が教えてくれたの。千寿朗君はとっても優しいし、強いよ。私がここに来たばかりの時、千寿朗君の優しさに救われたの。君を見ていたら私も頑張れる気がした」

 千寿朗の目が潤いを帯びる。瞼が膨らんできて、喉をひくつかせ、ようやく双眸から雫が零れ落ちてくるとナマエは千寿朗を抱きしめていた。腕の中に収まるこれほど小さな体が悲しみに満たされるなどあってはならない。しかし槇寿朗もまた同じように痛みを抱えているのだ。人の痛みとは複雑で、色んな思いが交差する。それを横暴な優しさで元の姿に戻そうとするのは違う気がした。

「ナマエさんがずっとここにいてくれたらいいのになあ」

 鼻水混じりの千寿朗の弱々しい声に胸が揺らいだ。千寿朗はすぐに目を見開かせて真っ赤な顔を両手で覆った。

「す、すみません!こんなこと!ナマエさんは帰りたいに決まってるのに…!」
「ううん。帰れるかどうか、わからないからね。ここにいさせてもらって本当にありがたいよ」
「……僕も、兄上も、父上だってナマエさんがここに来てくれて嬉しいのです。だからナマエさん、帰れるまでずっとここにいてくださいね」

 赤い顔で笑った千寿朗の笑顔につられてナマエも子供のように笑う。帰りたくないと言ったら嘘になる。ナマエはこの時代で生活しているとことある事に自分の居場所はここではないと思い知らされる。杏寿朗はすぐにこの時代へと帰れたのに対し、ナマエはもう半年以上も時間が経っていた。もしかしたらこのまま、帰れないかもしれないと考えると不安が胃を締め上げる。それは二度と家族に会えないという不安ではなかった。この世界で誰にも頼らず生きる術があるのだろうかというなんともいえない理由だった。できれば誰にも迷惑をかけたくない、煉獄家にずっと居座るのも現代で一人で生活していた身からすると矜持が許さないのだ。一方で杏寿朗や千寿朗の優しさに触れるたびに甘えた感情が蓋をこじ開けて溢れ出す。



prevnext



back

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -