胸に灯る熱



 杏寿朗は風を切るように歩く。自分より何倍も大きい歩幅に駆け足になるのは杏寿郎の手ががっちりと腕を掴んでいるからだ。普段の優しく気遣ってくれる杏寿朗からは想像もできないただならぬ空気に背中には冷や汗が浮かんでいる。

「香り袋など替えがきく。そんなもののために命を捨てるつもりだったなら感心しない。それとも森で鬼に襲われたことをもう忘れたのか?」

 冷たい言葉に喉の奥が凍りつく。忘れるわけがない。消えない傷跡のようにずっと残っている。忘却を求めることも諦めかけていた。忘却は決してそれを受け入れてはくれないだろうと思ったからだ。

「そんなものじゃ、ないよ…杏寿郎君にもらった大事なものだよ」

 杏寿朗の足が動きを止める。歩みを止めるとは思わなかったナマエは杏寿朗の肩に頭をぶつけて体がよろめいたが掴まれていた腕のおかげで体制を保つ事ができた。杏寿朗がゆっくりと鼻先をナマエに向ける。冷たく刺すような視線にその場で身動きができない、今にも押し負けてしまいそうだった。

「そんなものだ。君の命には変えられない。物は、物でしか無い」

 ナマエは思わずその場で立ち竦んだ。杏寿朗の瞳の中で燃える赤が自分の中でも揺らめき出した。何かが腹の中を這いずり回る。名付けようのない、嫌悪とは異なる何かが。肉体が戦慄き憤怒の如く強い感情を覚えた。

「杏寿朗君は、責務を全うして死ぬならそれでいいって言ってたよね。私は、私の意思がある、信念がある。私が大事だと思った物や人のために死ぬならそれでいい。後悔なんかしない。杏寿朗君が言ってたのはそう言うことじゃないの?それとも自分だけ例外なの?」

 杏寿朗が現代にやってきた時に話してくれた自身の信念や意思。なんて美しい生き方だろうと思った。ダラダラ生きるよりも数倍潔く尊い人生ではないかと。しかしナマエにも自身の信念がある。それを何故杏寿朗は真っ向から否定するのだろうか。

「…違う」

 杏寿朗の目が見開かれ、溢れた声。ナマエは圧に負けそうになっていた強ばった身体から力が抜けていくのがわかった。そして後悔した。口から滑り落ちた言葉を後悔するのは何度目だろうかと考えて、杏寿朗の瞳の影に胸を痛める。

「…君の優しさが俺は好きだ。ちゃんとわかっている。それでも許せないのは、君を失いたくないからだ」

 杏寿朗の呟くような言葉に、何をムキになっていたのだろうとナマエは奥歯を噛んだ。自分は今とんでもなく酷い顔をしているだろう。杏寿朗は心配して自分を叱ったのにどうしてあんなことを言ってしまったのだろう、と後悔の念ばかりが押し寄せる。自分の心に立つ一本の木が強風でぐらぐらと揺れている。不意に倒れて折れてしまいそうなほど劣化した貧弱な木だ。杏寿朗は掴んでいた手を滑らせてナマエの手を覆うように握った。それは労るような優しい手つきだった。

「君を守ると誓ったくせに、俺は肝心な時に側にいない。君を助け出すのはいつも富岡だ」

 杏寿朗が吐き出したのは「不甲斐ない」という言葉だった。義理堅い人だ。その誓いでさえもナマエは知らない。そしてまた、杏寿朗らしくない声に胸の奥がぎゅうっと狭くなり息苦しくて、切なくもどかしさを感じる。

「あんなこと言って本当にごめんなさい。心配してくれていたの、ちゃんとわかってるよ」

 滅多に不機嫌になることも怒ることもないのは両者同じだった。だからこそ戸惑いと困惑が押し寄せたのだ。

「私、本当は悲しかったんだ。杏寿朗君の責務も、真っ直ぐな強さも、優しさも全部が悔しかったんだと思う…」

(本当にそれで杏寿朗は報われるのかと。彼が幸せを求めてはいけないのかと)

 太陽のように暖かい杏寿朗の手に覆われた自身の手を見つめながら、どこかじんわりとした感情が滲んでいくのを感じた。

「君がいる」
「…え?」
「君が生きている事で、俺は報われる」

 顔を上げた瞬間に見えた穏やかな微笑みは杏寿朗が千寿郎に向けるものとはまた違って見えた。眉を下げ、普段怖いぐらいに燃えている瞳が今は違う熱を帯びている。緩んだ優しげな口元が近づいて滑らかに唇が触れた後、ようやくナマエは現実世界へと引き戻された。

「一つ聞きたい」
「き、杏寿郎く」
「君と富岡はなんでもないんだな?」
「な、え、なにが、…何も、ないです」
「よかった」

 杏寿朗は再び力強く微笑むとナマエの手を引いたまま歩き出す。今度は引っ張る事なく、歩幅もナマエに合わせて歩く。杏寿朗は笑顔を浮かべたままであったがナマエの胸の内で驚きと疑問が渦巻いていた。

(よかったってなに?もしかして富岡さんとのキス、みられてた?っていうか今の何?!)

***

 翌朝いつも通りの時間に目覚めて支度をしてから台所へ向かうと既に千寿朗が火を熾している。すっかり肌寒い季節になった。これほど早い時間なら尚更、風通しのいい台所ということもあり空気は冷えている。凍える日でも千寿朗は毎日早く起きて鍛錬し、家の家事をこなしているのだろうと思うとナマエは自分の悩みや孤独など小さなものに見えた。「ナマエさんが昨日さつまいもを沢山買ってきてくださったから今日は兄上喜びますよ」と年相応の笑顔を浮かべる千寿朗。昨日、杏寿郎と共に帰った時は泣きそうな顔をしていた。随分心配をかけてしまったのだと深く反省したし、杏寿朗の言葉の重みをしみじみと感じたのだ。槇寿朗もわざわざナマエに「お前が早く帰らないから猫がうるさい」と小言を言いながらもその口調は優しいものだった。気のせいかもしれないがナマエは煉獄家に自分の居場所ができ始めているのかもしれないと感じたのだ。

 朝食を作っている途中「任務に行ってくる!」と台所に顔を出した杏寿朗は既に隊服で刀を腰に差していた。急に任務が入ったのだろう、千寿朗は慌てて作った握り飯を持たせてやり、「兄上のお見送りをお願いできますか」と火元から離れられないため笑顔でナマエに言ったがナマエの心中はそれどころではなかった。昨夜を思い出すと鼓動が早くなり、変に緊張してしまう。しかしあの後杏寿朗は何も言わなかったのでなかった事にしようと決め込んでいたのだ。

「行ってらっしゃい、杏寿朗君」

 普段通りに笑顔を浮かべて送り出そうとしたが、杏寿朗は眉を下げた微笑みを浮かべた。

「…父上の気持ちが分かる。母上を残して任務に出るのがどれほど気がかりであったか」
「大丈夫、千寿朗君と槇寿朗さんは私が守るよ!」

 咄嗟にそう言ってしまったが、自分の力など知れているだろうに。「逆に守られる事になりそうだね」とナマエは肩を落とすと杏寿朗は腹から声を出して笑った。不意に手を伸ばし「君は可愛いなあ」と砕けた顔でナマエの頬を撫でる。ナマエは自身の顔に熱が集まっていくのがわかって顔を逸らした。

「では、行ってくる!何があっても夜は外にでないように。藤の香り袋は新しいものを用意するから気にするな!」
「あ、ありがとう!行ってらっしゃい!」

 羽織を靡かせて出ていった杏寿郎の姿を見つめていたが、その姿が無くなった後でも杏寿郎の熱がそこにはあった。常に陽だまりのように暖かく胸に火が灯っているようだ。揺めき、熱くさせ、時に信じられないほど痛くなり、喉の奥がヒュッと狭まるような感情を残す。ナマエは触れられた頬を手で押さえつけて瞼をぎゅっと閉じた。杏寿朗の無事を祈って。


prevnext



back

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -