【嵐の前の晴天】 「アルー、塩基のデータまとめたやつファイルから出してくれ」 『………』 「…アル?」 『……』 「…アル!」 『ぁ、ああごめん、えっと…何?』 「…塩基化合物のデータ」 『塩基化合物ね、…はい』 塩基データが開かれるとウィンドウの後ろからアルがひょっこりと現れ、ばつが悪そうな顔を覗かせた。 「…お前、調子悪いの?最近ぼーっとしすぎ」 『いや…うん、ごめん』 オレが言うと、アルは視線を泳がせた。常々の高慢かつ上から目線はオレの様子を窺うような上目遣いに変わり、話しかけても気もそぞろ、返事が返ってきたと思っても、本来なら膨大なボキャブラリーを背後に控えさせて饒舌に回転するはずの口車も、ここのところ動きが悪いらしくて影を潜めている。 アルの様子がおかしい。明らかにおかしい。オレは書きかけのレポートをひとまず保存して、ウィンドウ裏にコソコソと隠れようとしている挙動不審なOSを凝視した。 『…な、なに?』 「…いや別に…」 ウィンドウから顔を半分だけ出しておどおどしている哀愁漂うその姿に何ともいえない可愛らしさを感じて、少し顔が緩んでしまった。 しかしこれは笑い事では済まない事態かもしれない。 アルが人間だったら、悩み事でもあるのかと相談にのって(たいしたアドバイスはできないに違いないが)やる事も可能だが、アルは人間くさいと言えどもOSだ。アルの挙動不審がソフト上のトラブルやエラーからくる異常だとしたら、オレには修復とか調整をしてやれる技術も知識もない。ある日突然クラッシュなんてされたらどうしたらいい。泣くしかない。 アルの様子がおかしくなったのはいつからだろうか――思い当たるのは一週間前だ。日頃の感謝を込めてアルに部屋を作ってプレゼントした時から、アルの様子がおかしくなった。 詳しい奴にデータを作ってもらったから備品データの変更だけしかしていないけど、なにぶんオレはプログラミングに関してずぶの素人なので、念には念をいれて最終チェックまでしてもらったのに。何かアルに異常を及ぼすような深刻な問題がおきてしまったんだろうか…。 そう言えば明後日、プログラムを組んでくれた奴にお礼で飯を奢る約束をしていた。 その時にでもちょっと聞いてみるか――そう考えながらアルを凝視していると、アルが堪らないとばかりに地面に(デスクトップは無地に設定してるから正確には地面ではないが)突っ伏して泣き声をあげた。 『もう、そんな見ないで…!僕にだってプライバシーの保護を求める権利はあるはずだ!』 わっと泣き出すOSを呆気にとられて見ていると、アルは顔を赤く染めてオレを睨み付けてきた。 『せっかくエドが作ってくれた物だから今日までたいしていじらずに我慢してきたけどね!もう限界だよ!今後、僕の部屋には壁を作って僕の許可なしには覗けないようにするからね!僕にだってプライベートな時間は必要だ!』 「……は?」 『四六時中、面白おかしく観察されたら落ち着いて寝る事も出来ないって言ってるんだよ!』 「……」 確かに、ここ数日――というか、アルの部屋の改造が終わってすぐに急ぎのレポート作成に入ったから、PCの電源は入れっぱなしだった。そしてアルの部屋も開きっぱなしだった。レポートを打ち込む合間の息抜きにアルの部屋を覗いて、部屋でくつろいだりなんだりしているアルの様子を見ていたりした。もの珍しくてつい、必要なくアル部屋を覗いていた自分を思い出す。 「…恥ずかしかったのか…?」 『恥ずかしかったに決まってるだろ!エドなんか自分が寝る時にはPC閉めちゃうくせにー!』 「あ…そう…」 想像していた深刻な事態とは反対方向の真相解明に、オレは溜め息を吐かずにいられなかった。同時に腹の底から笑いが込み上げてきた。 「そんな…っ、恥ずかしがるような間柄じゃねえだろっ」 『間柄じゃなくたって、お風呂や着替え見られたら恥ずかしいよ!そもそもどんな間柄だよ!』 マジ泣きのアルに言われて、そう言えばそんな場面も覗き見したなと思い出す。 だってこいつ、手足は長いしアスリートみたいに綺麗に筋肉付けてて無駄にいい身体してやがるから、羨む思いで見てしまっていた気がする。OSのくせに…と苦々しく思ってみたが、そう言えばこいつの作り主もモデルばりのプロポーションだった。 アルの身体データが作り主を元に作られた物なら、あの羨ましい肉体美はアルフォンス・エルリックのそれという事になるのか――そう考えたら、オレまで気恥ずかしくなってしまった。 『あー!今ヘンな事考えただろ!エドのエッチ!馬鹿!』 「ううううるせえ!何にも考えてねえよ!」 まだ数回しか話した事がないけど、あの取り澄ました作り笑顔の男も、本質はこのアルみたいに可愛い奴なんだろうか。そう思ったら、明後日、アルフォンス・エルリックに会うのが変に気恥ずかしくなってしまった。 翌日、オレが起きた時にはアルの部屋には覗き見防止の壁が設置されていた。 作り足されたドアにはご丁寧に表札とチャイムが付けられ、オレはあまりにも人間くさいOSの所業に小一時間笑いが止まらなかった。 ←text top |